冷たい背中
週末は智の勤めるフルムーンも大忙しだ。特に金曜の週末は明日からの休みに気もそぞろな女の子達が次々やってくる。
「あ、藤沢様。いらっしゃいませ」
藤沢真紀は最近ついたお得意様のひとりだ。何でも智の勧めたワンピースが彼女の恋の橋渡しになったとのこと。恋が叶った彼女はいつも初々しく輝いている。
「春物のワンピースも入ってますよ。この明るいイエローなんかどうでしょう?」
「綺麗な色!」
カナリア色のAラインのワンピースはシンプルだが、肩の所に付いたリボンと袖口の真珠のようなボタンで大人可愛い印象になる。
「実は来週の土曜日に、彼のご家族とお食事をすることになっていて」
恥ずかしそうにいった。
「わ、それってついに婚約とか?」
「ううん、違うの。なんかイベントがあってその帰りに最近出来たイタリアンレストランに行こうって」
「いいですねえ!」
智はにっこりと頷いた。彼女の照れくさそうな笑顔を見ると、俄然幸せのお手伝いがしたくなる。
「この服ぴったりですよ!ご両親にも受けが良いと思いますし。強いていえば袖がちょっと長いですよね。お食事の時汚しやすいし、何より袖が決まると全体が締まりますから。お時間いただければ、気持ち丈を詰めましょうか。裾にボタンがついてるのでお直しは今日明日とはいかないんですけど、来週の金曜日には」
「金曜は会議を兼ねた夕食会があって遅くなるからこれないの。土曜日の午前中に来ます、食事は夕方からだから」
彼女は嬉しそうに手を振りながら去っていった。
「すごい幸せそうで、いいなあって」
智が里奈に羨ましそうに話すと、なあに言ってんのよ、と里奈は智の髪をひっぱった。今日は里奈の部屋で恒例のシュシュやバレッタのお試し会だった。
「智だって真也さんがいるじゃない」
里奈にはどうやら付き合うことになったことは言ってあった。ただしきつく箝口令を敷いてある。真也のファンに知れるのも怖かったが、本当は、いつ壊れてもおかしくないと自覚している曖昧な関係だからだった。
「その後どうなの、真也さんとは」
「どうって、変わらないよ?たまに食事したり、こないだは遊園地行った」
「そうじゃなくって。進行状況っていうんですかね?」
里奈が智を小突く。言いたいことは分かる、分かっているが。
「手を繋いだことはあるよ。あとは頭のてっぺんにキスされたことはあったかな」
「はあっ?」
里奈はすっとんきょうな声を上げた。
「あんた成人式終えたよねえ?しかも相手はあの真也さんだよ?何、拒否ってるとか?」
「私は何も。なにあの真也さんがって、人聞きの悪い」
「え、知らないの?」
里奈は明らかにまずい、という顔をした。
「・・・何が?」
智の追求を逃れられたことはない。里奈は観念してため息をついた。
「いや、これは噂、あくまで噂なんだけど」
里奈は何度も念を押す。
「真也さんて引く手あまたじゃん。女避けなのかもしれないけど、ピル飲んでない女とは付き合わないんだって。しかも女が『飲んでる』って言っても、『病院の処方箋見せろ』とまで言うらしいよ」
智は思わず顔をしかめた。そんな話を聞いていい気はしない。しかし一方であの彼ならそんな事もあるかな、とも思った。何も言わない智に、里奈は顔をのぞき込みながら肩を叩いた。
「智、無理はだめだよ」
里奈は真面目な顔をしていった。
「あんたがあんたじゃなくなるようなら、そんな恋は止めた方が良いんだよ」
「でたよ、里奈の恋愛格言」
図星をついた重い言葉をつい茶化してしまう。
「あたしは、仕事バカで前向きな智が大好きだからね。変に変わらないでそのまんまでいて欲しいよ」
里奈は念を押すように智の目を見た。
「ありがと、里奈」
そういったが、まるで自信はなかった。
今までの人生を変えてしまうのもまた、恋だから。
次の週末の金曜日は朝からついていなかった。フルムーンについたとたん買ったばかりのパンプスのヒールが壊れ、足をくじいた。頼んだはずの荷物が色違いで届いたり、お客様からの八つ当たり的なクレームがあったり。一日を終えた時にはくたくたになっていた。それでも明日もまた忙しい土曜日だ。ため息をつきながら痛む足首を引き図ってエレベーターでロッカールームに向かう。
5階に降りると階段の所で見慣れた黒いTシャツの後ろ姿を見つけた。そうか、今日は金曜日でタップの日だった。現金なもので彼を見ただけでそれまでの鬱屈した気持ちが晴れるような気がした。しかし声をかけようとすると、先に彼の名を呼ぶ声があった。
「ねえ、真也さあん」
しなだれかかるように女の子が彼の腕に縋る。見覚えのあるきらびやかなバレッタ。あれは確かこないだの二次会で真也にリクエストをしたブルームの店員だった。
「今度の日曜日なんだけど」
「悪いけど、用事あるから」
「じゃあ、その次の週末は」
彼女の追求は容赦がなかった。真也のため息が聞こえる。
「それなら僕もはっきり言うけど、その気はないよ」
きっぱりとした言い方にほっとしたが、一方で付き合っている人がいると言ってくれなかったのが哀しかった。バレッタの彼女は「ええ〜、どうしてえ」と身体を揺らしている。そのうち動きをぴたりと止めると、智がいるのが分かったのだろう、こちらを見ながら彼女はゆらりと妖艶な笑みを浮かべた。
「・・・じゃあ、一晩でもいい」
彼女は甘えた口調でそっと囁いた。嫌悪感で鳥肌が立つ。背中を向けているのでその表情はわからないが、真也が相手にするわけがない。そう信じて立ち去ろうとしたが、痛む足首のせいでスムースに動けない。
「だったら、」
真也の低い声が響いた。
「・・・ピル、飲んでる?」
それからはもう訳が分からなかった。くじいた足の痛みも忘れて走り続け、気がついたら自分の部屋にいた。
私は、何を聞いた?
彼は何を言った?
・・・結局私は彼には抱かれる価値もない子供だったということだ。
「俺は君のことが案外気に入ってるんだよ」
「ろくでなしだけど、器用じゃないんだ。嘘もつけない。」
「他の子に粉かけたりはしないつもりだけど」
嘘つき、嘘つき、嘘つき。
同情だった?気まぐれだった?
いつまでも涙は止まらなかった。