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私のお気に入り

 その日店で棚卸しがあり、遅くなった智は疲れた身体を引き摺ってロッカールームへ向かっていた。女子のロッカールームは5階にある。ちょうど美容室「スプリング」の真向かい、ダンススタジオの脇の通路を通った奥だ。スタジオのスケジュールはいつも通るので覚えてしまった。月曜・木曜はエアロビクス、火曜はヨガ、水曜はフラメンコ。そして今日金曜日はタップ・ダンス。

「あれ、今日は曲が違う」

 最近は発表会が近いらしく、いつも「雨に唄えば」がかかっていたのに。

 印象的なジャズピアノのイントロ。実家の父親がよく聞いていた、すっかり智の身体に染みついている曲だ。このジャズワルツの前奏は列車の揺れを思わせる2拍目アクセントの3拍子。5拍子みたいなリズムで「来いよ、来いよ」と主旋律の滑り出しを煽る。


 コルトレーンの「My Favorite Things」だ。


 思わずガラス張りのスタジオを見ると、珍しく男性2人だけだ。同じ上下黒のシンプルな衣装に、ボルサリーノ風の天辺が割れたソフト帽で顔を隠し鏡に向かって立っている。 

 ピアノのイントロが高まり、二人がステップを踏み出す。タタタ、タ、タン。タタタ、タ、タン。二人は帽子を右手に持ったまま手を大きく広げた。ひとりは白髪交じりの眼鏡の男性、もうひとりはウェーブのかかった黒髪、見透かすような強い眼差し、情熱的な大きな唇・・・真也だ!

 途端コルトレーンのサックスが火を噴く。この難解なリズム。乗るだけでも大変だと思うのに、身のこなしは華やかでいてクールで。両手を高く上げた時の背中からのラインを辿ると、服の上からでも引き締まった身体なのが見て取れる。もう一人の年配の男性も負けてはいない、品良く軽やかなステップだ。

「さすがにこの長さは無理!縮めようよ、斉藤さん」

「まだまだ!若いでしょ、真也君」

「もう30過ぎですよ!あんまり長いと観客が飽きますって」

 ふたりは笑いながら楽しそうに踊る。 思わず足でリズムをとりながら乗り出すように見ていると、真也と目が合う。気付かれた!

 彼は笑って智に手を振ると、

「これは頑張らないと!」

 と叫び、智の方に向き直ってステップを大きくした。見せ場らしく二人が掛け合う様に交互に踊りながら挑むように前に出てくる。最後に重なり合うようにポーズを決めて止まった。

「すごーい!」

 と智は叫んで思いきり拍手をしてしまった。

「女の子がいると俄然張り切り方が違うね」

 斉藤と呼ばれた年配の男性がタオルで汗を拭きながら真也を小突いた。

「そりゃあ、もう」

 久しぶりに見る、真也の満面の笑顔。ああ、やっぱりいいな。智は惚れ惚れしながらその顔を見上げた。斉藤が微笑ましく二人を見ている。

「いいねえ、真也君の彼女?」

「いえ!違います!」

「即答?智ちゃ〜ん、つれないなあ」

 懲りずにからかう真也をたしなめるように見た。そういえばこないだ花をもらって泣いた日から会うのは初めてだ。そう思うと気まずくて、今更ながら智は下を向いた。

「智ちゃん、もう帰り?送ってくよ」

「いえ、電車なんです。駅まで歩くだけですから」

「もう遅いよ、危ないから。どうせ僕も帰るし」

 そう言って自分のタオルを智に放った。

「それ預けたから。待ってて」

 彼は文句は言わせない、と言うように人差し指を智に向けると、着替えに戻っていった。


「智ちゃん、一人暮らし?」

「はい、ここから一駅先の浅葱なんですけど。前は健康も兼ねて歩きで来てたんですけど、店長から『夜は危ないから絶対定期買いなさい』って言われて」

「智ちゃんは皆に愛されてるよね」

 真也に言われると、どきっとする。本当に愛されたいのはあなたからだ、そういってしまいそうで。慌てて話を切り替える。

「タップ、お上手ですね。コルトレーンのあの曲、リズム難しいのに」

「コルトレーン知ってる?意外だねえ」

「父が嫌なことがあったとき、ウイスキー片手によく聞くんですよ」

 なるほど、と真也は頷いた。

「それこそMy Favorite Thingsの神髄だ。辛い時にお気に入りを思い出すと気分が晴れるって曲だもんな。いいお父さんだ」

 そう言って智を見る。

「それでこんな素敵なお嬢さんに育ったわけだね、君も」

「・・・私の話をしてたんじゃないのに」

 いちいち口説かれているような気がしてしまう私は重症だ。

「タップの話ですよ!」

「・・・ああ」

 真也は前を向きながら話し出した。

「死んだ親父がタップダンス好きでね、3歳くらいから一緒に通わされたんだよ。発表会にふたりで出たこともあった」

 また、真也さんの思い出に触れることを言わせてしまった。智は済まない気持ちで下を向く。

「またあ、そんな顔しないで、智ちゃん。タップはね、俺にとっては幸せの記憶なんだから」

 ふふ、と笑って、軽くステップを踏む真似をした。

「男性の生徒が少ないんで、今回斉藤さんと二人で組むことになったんだけど。親父とやったこと思い出して、ちょっと嬉しかった」

 あ、駅だ。真也は立ち止まって、智に向き直る。

「何か智ちゃんにはいつも余計なことしゃべっちゃうな。さすがカリスマ店員。人の心を開くのがうまい」

 ふざけた調子で言って、じゃな、と頭をぽんと叩いて去っていく。智は慌てて後ろ姿に声をかける。

「あのっ!」

「ん?」

「発表会!絶対見に行きますから!」

 智の勢いに一瞬目を丸くしたが、すぐに破顔して、大きく頷いた。

「よし。じゃあ・・・今度は、智ちゃんが俺に花束くれよ?」

 




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