番外編〜俺の可愛いヴァレンタイン(1)
これは次作のカップルの2012年のバレンタインという設定です。ですのでこのバレンタインは火曜日になっています。智と真也の結婚式から9ヶ月後の物語です。
俺は、バレンタインに期待なんてしない。
チョコレートは好きだし、くれる子も結構いるけど、好きじゃない子からの好意を受ける気はさらさらなくて。
きっぱり断ると、その子の友達の思わぬ反撃を受けたり、女子総スカンなんていう有り難くない状況に陥れられたりして、決して甘い思い出ばかりじゃない。
その一方で俺は、素っ気ない年上の彼女にずっと好きだ好きだと言い続けている。
デートだってしたし、キスだって済ませた。多分・・・いや絶対、俺達は想いを通じ合っているはず。
なのに彼女は皆の前では、まるで俺の事なんて見えてないみたいに振る舞う。5つ位の歳の差なんてなんだよ、と思うけど、彼女は大人ぶって俺をたしなめる。いつも俺だけが馬鹿みたいに翻弄されて、夢中になって。
それでも好きなんだから、しょうがないんだけど。
俺が通う大学は彼女の勤める喫茶店からバイクで5分。金と時間の余裕がある時はいつも彼女が勤める喫茶店でランチを食べる。店のランチはいつもサンドイッチかパスタのチョイスで、パン好きな俺はいつもサンドイッチ。今日のサンドイッチはスモークチキン、癖のあるチーズとドライトマトがアクセントのフォカッチャ。サラダとコーヒーがついておしまいのはずが、今日はその皿の隅にマッチ箱くらいの小さなブラウンの塊が乗っかっている。この甘い香りはチョコレート?
「あ、ほら、明日はその、そういうイベントだから」
俺が尋ねれば、そんな返事。バレンタイン、ていうのも嫌なのかよ。別に俺は全く気にしないし勘違いもしないのに。
俺はフォークでその四角の一辺を切って、ぱくんと一口、口に入れた。しっとりとした生地にこくのあるビターなチョコレートが練り込まれている。シンプルな見かけからは想像出来ない、ちょっとリキュールが効いてる大人仕立てのガトー・ショコラだ。その中に感じるざらっとした食感と独特の風味。
「中のこれ、何?」
「えっ?」
彼女は目を見開いた。そんなに驚くことか?俺の舌がいいのは知ってるだろ?
「このぷちぷちしてんの、何?」
彼女はちょっと面倒臭そうに
「・・・キャラウェイ・シード」
と答えた。もぐもぐと噛みしめると爽やかな香りと後味にひりりとした微かな辛みが残って、甘い菓子のいいアクセントになっている。好みは分かれるかもしれないけど俺は好きだな、これ。
「とも、友達がこのスパイス育ててて、お裾分けしてもらったの」
なんか噛んでるし。話を聞きながらも、俺は口の中でもったりと蕩けるチョコレートをうっとりと飲み込んだ。
「ん〜!ご馳走様」
「もう、食べちゃったの」
「うん、だってあなたのランチはいつも美味しいもん。デザートも最高だった」
そう言って微笑んでも、彼女はにこりともしない。俺は名残惜しいけれど渋々席を立つ。彼女は忙しいランチタイム、俺もこれから授業が入っているし、長居をすると怒られる。これでも結構もの分かりのいい男なんだよ、俺は。
「じゃ、またね」
と手を振れば、ちょっと哀し気に笑う。俺がいなくなると少しは寂しい?そんな事聞いたって絶対答えやしないだろうけど。
食べ物の事に関しては人一倍好奇心旺盛な俺は、大学の帰り、行きつけの輸入食材の店に寄って、さっそくキャラウェイ・シードとやらを探してみる。果たしてスパイスのコーナーにその瓶はあった。手にとろうとすると、
「おや?」
と後ろから声がした。振り向けば、背の高い俺と張る、すらりとしなやかな黒い服の男。俺の天敵、というか、俺の恋人に妙に馴れ馴れしい彼女の幼なじみだ。いわゆる男前の彼は、にっ、と笑うと大きな口が三日月みたいな弧を描く。一応彼女の兄兼ボディガードのつもりなんだろう。やけに俺に突っかかってくる。
「あれ、今日はストーカーお休み?ランチにいなかったよね?今日のサンドイッチも美味かったぞ?」
やな男だ。一応恋人だっつうの。
「スモークチキンのフォカッチャでしょ?さっき食べてきたばっかです。そっちこそ店長がこんなとこで油売ってていいんすか」
彼は彼女と同じビルのヘアアクセサリー屋の店長をしている。
「休憩で飲むコーヒーの粉がなくなっちゃったのよ」
指さしたレジの横で豆を挽くミルの音がする。店長自らご苦労なこった。こういうマメさがもてる秘訣なんだろうなあ。俺はたった一人に向けてしか出来ないけど。
「君は何見てんの」
彼は肩越しに俺が手に取った瓶を覗きこんだ。
「キャラウェイ・シードか」
何で知ってる?俺がむっとすると、彼はにっこりして、
「俺の奥さんが実家で育ててるんだ」
と聞きもしないのに答える。そう、この男は結婚してまだ1年にもならない新婚で、ちゃらちゃらしてる割にはその奥さんを溺愛している。
「俺たちの結婚式で、奥さんがこれが入ったクッキーを焼いてお土産にしたんだよ。前の晩に徹夜して作ってたもんだから、あの日の夜はじっくり可愛がってやろうと思ったのに、散々焦らされたあげく、あっという間に寝られちゃってさあ。紛いなりにも初夜だよ、初夜」
「・・・恥じらいって言葉、知ってます?」
勝手に甘い思い出に浸る彼を無視して、スパイスの側に置かれたレシピや説明が書かれたメモを手に取る。一枚取って読んでみると。
「恋に効くスパイス?」
思わず声を上げてしまった。その昔媚薬として使われたとか、恋人を引き留める効果があるとか、いろんな逸話が書いてあって、バレンタインのための「恋に効くレシピ」までついている。いやいや、あの彼女が、まさかね。
「そうそう、恋のスパイス。俺の奥さんもそんなこと言って、結婚式の日、お前の思い人にたんまり渡してたぞ?」
「えっ」
そう言えば話してた。友達にお裾分けしてもらったんだと。
「気付かないとこ見ると、あのキャラウェイはまだ食べさしてもらってないな」
幼なじみの彼はにやりとほくそ笑む。
「・・・いや、今日のランチのデザートで」
俺は半信半疑でそう言うと彼はきょとんとする。
「デザート?」
あれ、彼もランチ食べたんだよな?
「フォカッチャのサンドイッチ頼んだんでしょ?」
「そうだけど?デザートって?」
「え・・・!」
突然、俺の心にぽん!と音をたてて花が咲いた。
あれは。
素っ気なく飾り気のないショコラ。舌の上でそっと香り、その食感で存在感を主張する、ちょっぴり辛いスパイス。
・・・俺に。
俺、だけに。
じわじわと笑みがこぼれる。
生まれて初めて、バレンタインという日に感謝した。
「・・・じゃ、授業に遅れるんで!」
俺はキャラウェイの小瓶を掴むとレジに向かった。
訳が分からずぽかんとした色男を残して。