番外編〜解けない魔法(2)
お風呂から上がると、とりあえず彼のパジャマの上だけ、というこの上もない定番の格好をさせられて。ソファに座る彼の足の間にすっぽり抱え込まれて髪を乾かしてもらう。大きな手がぱらぱらと髪を散らしながら地肌を滑る。ドライヤーの音の切れ切れに聞こえる甘いジャズヴォーカル。それを機嫌良く口ずさむ彼の柔らかな歌声・・・私だけのスタンダード・ナンバー。
「今日は、とことん甘やかしてやるから」
くすぐったくて首をすくめた。
「・・・やめてください」
「・・・させてよ」
甘えるような口調に本当は絆されているのに。
「だめ」
意に介さず真也はふふ、と笑いながら髪に温かい風を入れてゆく。
恥ずかしいだけならまだいい。
髪の先でさえ、彼に触れられるとおかしくなる。
想いを通じ合わせて、こんなに近くにいて、これ以上何を望むのかと思うのに、どんどん欲しがる気持ちに歯止めが利かなくて。
心も、身体も、声も、彼を残らず自分のものにしたい。
自分を全部、彼のものに、したい。
欲望を逃がすように吐く、何度目かの長いため息。
髪が乾いたらしく、ドライヤーの音が止んだ。途端に溢れ出すハスキーな女性ボーカル。
「・・・この曲なんていうの?」
「I've Got You Under My Skin」
まだ温かな智の髪を梳きながらキスをする。
「どういう意味?」
「『私はしっかりあなたのもの』。うまくいかない恋だと思って諦めようとしてたのに、皮膚の下まであなたが入り込んできてどうしようもない、また恋に、引き戻される」
後ろからきつく抱きしめる腕。
「この部屋で、どれだけ君のことを考えてたか、分かる?」
背中から彼の声が響く。
「夢中になればなるほど俺には傷つけることしか出来ないと、いつも思いながら、恋の歌を聴いて」
つむじにキスを落としながら。
「君に首ったけっていう言葉はなんてたくさんあるのかって。I've Got You Under My Skin 、I've Got a Crush on You、I Thought About You、I’m Crazy about you」
正面に向き直って、少しの隙間もないようにしっかりと抱き合う。
「もう、」
真也の声は自分の声。
「離さないから」
いっそ皮膚の下まで入り込みたい。
「どうしてそんなに古い曲をたくさん知ってるの?」
ベッドの中で、もう何曲聴いたのか。真也がベッドを出るのは、曲が終わってオーディオを操作する時くらいだった。
「Juneのマスターがジャズやスタンダード・ナンバーが好きでね。あそこ昔はジャズ喫茶だったんだよ。母親が忙しかったから、小さい頃から随分入り浸ってた。マスターが自分の親父で、順が自分の妹みたいでさ」
順の名を聞くと胸が痛む。真也は智の気持ちを察してさらに身体をきつく抱き寄せる。
「大丈夫だよ。順とはほんとに何でもないんだ」
「そう思ってるのは真也さんだけで」
ビートルズを歌ったあの時の彼女の顔が忘れられない。
「・・・真也」
説き伏せるようにそっと口づけて。
「じゃあ、もし順が本気だとしたら、智は俺を譲るの?」
途端智はぶんぶんと首を振る。満足げに真也は頷いた。
「そうだろ。それでいいじゃん」
「・・・真也」
「俺をそう呼べる女は、身内以外では智だけだ」
彼の瞳が強く物語る。だから呼んで、君だけの俺の名を。
「真也」
思わず涙が溢れる。
「智、幸せになろ?もう俺たち十分苦しんだよな。だけどそれも一緒に居られるためだったとしたら、今までの人生だってそう捨てたもんじゃない、って思わないか?」
左手を捕られ、甲にキスされた。
「約束して。ずっと俺の側にいるって」
「・・・約束、する。側に、いる!」
智は泣きじゃくりながら、彼の胸に縋り付いた。真也は智の頭をぽんぽんと叩く。その時、彼が離した左手に違和感があった。
「?」
気がつけば、智の薬指には指輪がはまっていた。
「約束、な」
そう言って真也が微笑む。智は見開いた目で真也の顔と指輪を何度も見返した。
「いつの間に」
「・・・だから言ったでしょ、里奈ちゃんにお礼いっといてって。お駄賃はちょっと高くついたけど、あれ知り合いの店だから」
「!」
こないだ里奈といったジュエリーショップ。里奈にしては高い買い物をするなとは思っていた。関係ないのに私の指まで計られたり好みを聞かれたりして。
「急がせましたよ。これがあったから1週間待てた」
いたずらがばれた子供みたいに肩をすくめて。
「俺の持ってるスキル、今夜のために総動員して。恥を忍んでお袋に頭下げて、シャンプーも、トリートメントもマッサージオイルも『スプリング』から貰ってきました。ベッドのリネンもみんな新品です!」
はあっと息を吐いて。
「俺、自分がこんなに必死になれるとは思わなかったよ。呆れた?」
「ううん」
全て手の内を見せてくれる今がいい。心が読めなくて苦しくて泣き明かす夜はもういい。
魔法使いでなくていいんだ。箒で飛べなくても、一緒に歩いて行ける今が嬉しいから。不格好でも、何も持っていなくっても、あなたがいれば。
そろそろ夜が明ける。それなのに二人は固く手を握りしめてベッドに深く潜り込んだ。
「少し眠ろう」
目が覚めてもきっと彼の腕の中だ。智は安心してゆっくりと目を閉じた。
今、この時間こそが解けない魔法みたい、と思いながら。
Fin
最後までお付き合い頂きありがとうございました。智と真也の番外編は、もう一話続きます。