かけあう魔法
明けた水曜日、智が昼食をとりにひとりでJuneに行くと、マスターが声をひそめるように言った。
「今日、真也君に会った?」
いきなり彼の名前が出て、出勤直前まで智を離そうとしなかった彼の力強い腕を思い出し赤面する。首をふるふると振ってマスターに向き直った。
「どうかしました?」
「朝突然ここに来てさ、すっごく浮かれてるんだよ。鼻歌なんか歌っちゃってさ。なあ、順」
サンドイッチをこしらえていた順も頷いた。
「それでランチの時に智ちゃんがきたら呼んでって言われて、今連絡したんだけど・・・あ、早!」
ロングストライドで軽快に入ってきた真也は、智を認めるととろけるような笑みを浮かべて迷いもなく隣に腰掛けた。今日の彼の服は「コーディネートして」とねだられて智が見立てた。淡いピンクのペンシルストライプのシャツに細めの小さなグレイのタイ、タップの発表会で使ったボルサリーノ型のソフト帽を少し斜めに被って。いつにもまして溢れるような色気。智は見ていられなくて顔を手で覆った。
「なんだよ、顔見に来たのに」
顔から手を剥がすとそのままその手を取って目線を合わす。その幸せそうな顔。
「だから真也さん」
マスターも順さんもいるのに。とがめるように言うと、
「・・・真也」
甘い訂正が入る。月曜の夜からずっと、呼び捨てで呼ぶように言われていたけれど。
「おいおい、まさか」
マスターが二人を交互に見る。真也は智の手を取ってチャンピオンのように高く上げ、にやっと笑った。
「お察しの通りです」
「・・・お父さん、遅いわよ」
突然、今まで口を挟んだことのない順が喋ったので、皆がびっくりして彼女を見る。順はてきぱきと手を動かしながら、
「気がつかなかったの?見てればわかるじゃない」
涼しい顔をして言い切る順に智は赤面した。そんなに観察されていたなんて。
というより、順さんは真也さんのことはいいの?戸惑う智の視線に構わず、順は顔を上げて真也の方を見た。
「ところで真ちゃん、ランチ、オーダーするの?」
「いや、いい。まだしばらく休憩入れないんだ。ちょっとこいつの顔見に来ただけだから」
悪びれずに笑みを返す真也に順は冷たく言い放つ。
「こっちは忙しいランチタイム。営業妨害なんですけど?」
「・・・言う様になったな、順」
真也は順の前にぐっと乗り出した。
「俺も面白い噂聞いたぞ。お前に懐いてる男がいるんだってな、バーナードカフェの・・・」
「な、何言ってるのよっ!」
順の慌てた顔も初めてみる。照れくさそうな笑顔は予想以上に可愛くて、智はショップ店員の血が騒ぎ始めた。
「あのっ!もしよかったら順さんうちの店に来ません?いつものモノトーンも好きだけど、もっと明るい色の服もきっと似合うと思う!今日入ったばっかりのでいいのがあるんですよ。ああっ!着せたい!ねえ順さん、今日ランチタイム終わったら来てくれませんか?」
「ええっ!」
いきなりの展開に順がしどろもどろになっていると、真也は大きな口をほころばせて智の肩を叩いた。
「そりゃいい!順、智はこう見えてキューピッドなんだぞ?ほら、斉藤っていう、お前の同級生。あそこのカップル付き合うきっかけ作ったんだって。あやかっとけ、順」
「え、周平君のことか?ていうか、順、お前誰かいるのか?」
マスターも乗り出してきた。
「いません!」
順は大きな声で皆を制した。そして一人一人順番に向き直り、
「お父さん、今はランチタイムです!」
「ブルームの店長さん!休憩に入れないほど忙しいんでしょ?オーダーしないなら店に戻って下さい!」
とばっさり斬り捨てた。
「で、智ちゃん、」
そう言って順は智に向き直ると、ちょっと照れながら、
「・・・ランチタイムが終わったらフルムーンに行くわ」
と微笑んだ。その笑顔は優しく穏やかで、風に揺れる野の花のようだった。智は悟った。ああ、この人はもう辛い恋をしていないんだ。
「やったあ!」
智はランチのサンドイッチの最後の一口をコーヒーで流し込むとクーポン券をテーブルに置いた。驚いて真也も立ち上がる。
「もう、行っちゃうの?」
「だって、順さんのコーディネート考えなきゃ!」
わくわくが止まらない。店を出ても自然に足が速くなる。
「服が決まったら真也さんもヘアアクセ見繕ってあげて?美人はいじりがいあるわあ、楽しみ〜」
突然真也が智の手を掴んで止まった。2階の階段の踊り場、あの、場所だ。
「智」
真也はたしなめるように言ったが、視線は溶かしたチョコレートの様につややかで甘かった。
「真也、だろ?」
お仕置きとばかりに両腕に捕らえられた。智の腰に、首に、蔦のように腕を絡めて。真也の吐息が首筋にかかって身体が震える。顔をのぞき込まれたがすぐに目を逸らされた。キス、されるかと思ったのに。真也は智を見るとにやっとして、
「何、物足りない顔」
「そんなことない!」
慌てて否定するが顔の火照りが止まらない。
「ちょっと、ここではなあ・・・」
真也は週末の予定でも話すかのようにのんびりとした口調だ。
「ほら、止まんなくなる質だから、俺」
「!」
「今夜も・・・うちにおいで」
耳元で囁かれて。その瞬間にぞくぞくして足元が崩れる。魔法の呪文。
「さ、解放したげる」
力の抜けた智をそっと離して面白そうに見つめる。
「仕事、だろ?」
「もう!」
智はぷりぷり怒って真也を睨んだ。しかし次の瞬間、突然背伸びをして素早く彼の頬にキスをする。
「・・・今夜の予約完了!」
やられっぱなしは性に合わない。智は弾けるように笑うとそのまま階段を駆け上がっていった。
「やりやがったな!」
真也は一人言ちると、頬を押さえた。そして三日月のように微笑むと身を翻し、一階の店に向かってしなやかに階段を下りていった。
Fin
最後まで読んでいただきありがとうございました。本編はこれでおしまいです。恒例の?後日談ですが、あまりに本編が甘すぎて糖度を増すのが困難に・・・。ということで、この後は「ずっと、冬のままで」の真紀視点での番外編をまずupします。そちらに興味が無い方、あいすいません。その後、智と真也の番外編になります。ご感想ありましたら是非お寄せ下さい。有り難うございました。