真実の口
日曜の夜、仕事終わりに真也から、明日の夜の待ち合わせは行きつけのイタリア料理店で、というメールがあった。家庭的な料理を出す気の置けないあの店で、ちゃんと話なんかできるの?智は不審に思いながらも了解のメールを返した。トリートメントは念入りに、とっときのパックも惜しげもなく肌に使って、入浴時間はついつい長くなった。
月曜の夜、待ち合わせのレストランBocca della Veritàに着くと、真也は外で待っていて智を認めると軽く手を挙げた。シャツとジャケット、パンツにくしゅくしゅしたブーツまで全て黒づくめ。艶やかな髪をひとつにまとめていて、シュシュはボタンと淡い紫のビーズ、智とそろいのものだ。真也も緊張しているようだったが、智の髪を見て「あ」と言うなり笑顔になった。智は丁寧に手入れをした髪に真也の選んだシュシュをつけている。あの時の様に少しは大人っぽく見えるだろうか、と彼の手さばきを見よう見まねで模してみた。裾と襟ぐりにクラシカルなレースのついたアイボリーのミニワンピースに、同じくアイボリーのくしゅっとしたショートブーツ。ブーツまで真也と同じテイストだった。
「綺麗だ・・・天使みたい」
囁かれて一気に身体の熱が上がる。
「入ろう。その前に」
彼はレストランの入り口をのぞき込んだ。そこには店の名前にちなんだローマ名物「真実の口」のレプリカがある。嘘をつくと手が抜けなくなる、ヘップバーンの映画で有名なあれだ。
「手を入れて」
何を言っているのか、と思って彼の顔を見上げる。ふざけるような心境じゃないのに。
「入れて」
彼の目は真剣だった。言うとおりに真実の口に手を入れたが正直な智は勿論噛まれることはなくて。すぐに手を引っ込める。
「俺も、入れるよ」
すっと真っ直ぐにその手を滑り込ませた。そして智の目をじっと見据えながら、ゆっくりと手を引く。智は悟った。彼は誓っているのだ、今日嘘は言わない、と。
「さ、行こうか」
しかしその食事の席で真也はいつも注文するワインも頼まず、核心に触れる話は一切しなかった。ただ自分を見つめ続ける視線にどきどきして味もろくに分からないまま食事を終えた後、ついに真也が重い口を開いた。
「話したいんだ・・・どうしても、ふたりきりで」
彼はこれからしかられる子供のように弱々しかった。
「悪いけど、うちに来てくれる?」
真也の部屋は神崎ビルから歩いて5分ほどの古いマンションの一室だった。ドアを開けると真也のいつも付けているコロンが仄かに匂う。ビルオーナーの息子にしては質素な部屋だ。リビングは雑然としてはいるが汚くはない。黒いソファに木のテーブル、オーディオシステムだけが大きく幅を利かせている。CDやDVDもたくさんあって、壁には古いミュージカル映画のポスターが貼られていた。本棚には小説や経営の本などの他にたくさんのファッション誌、ヘアカタログ、棚の上にはウイッグも何体かある。寝室はもう一つの部屋だろう、ベッドは見当たらなかった。
「そこ座って」
真也は黒いソファを指して、自分はコーヒーを作るためにキッチンに立った。手際よく2杯分のコーヒーを淹れると智の脇に腰掛ける。ふうっ、と長い息をついて彼はゆっくりと話し出した。
「・・・俺さ、美容師やめてからなにやってもまとまんなくてさ。一生懸命にやってもなんか空回りで。そんな時お袋に言われたんだ。どうせ何の取り柄もないんだったら、せめて見てくれに気を配って女に媚びて、徹底的に客や従業員に尽くして喜ばせろって。あのお袋なりの励ましだったんだろうけど、その言葉がずっと呪いみたいについて回って、女の子に厳しくできなかった。言い寄ってくる子にもあんな風にしか言えなくて。俺ラテックスアレルギーだから避妊できないし、いい加減な付き合いはしたくなかったんだ」
「は?」
智は真也に問うように目線を上げた。そこでなぜアレルギーの話になるのかが分からない。
「・・・だから、避妊具ってゴムだろ?俺今度アレルギー起こしたらタダじゃすまないってきつく言われてるから。使えないんだよ」
まさか、そのせいで。智はため息と共に脱力しどさっと身体をソファに預けた。
「俺がどう思われようと構わないし、そこまで思い入れのある相手じゃないからアレルギーの話はしなかった。大抵言い寄ってくるのは若い子だから、ピルの話の時点で引いちゃってそこでジエンド。相手も嫌な思いはするだろうけど、俺を『手の付けられない男のクズ』とでも罵れば丸く収まる。こないだの子も大胆なこという割には最後には怒って頬をひっぱたかれて終わったよ。さすがに男に責められたのは斉藤さんの息子が初めてだったけど」
真也は智に向き直って、じっと視線を合わせる。
「だから美容師をやめてから何年かな、それ以来俺は、」
瞳が、信じて、と瞬いた。
「・・・誰も抱いちゃいない」
ぽろり、と智の涙がこぼれ落ちる。真也は静かに微笑むと彼女の涙の筋を指で払った。
「馬鹿じゃないの」
智は涙ながらに真也を睨んだ。
「どうして自分を悪者にするの?なんでそんなに投げやりなのよ?私に無いものたくさん持ってるくせに!」
彼の胸倉を掴むようにして智は叫んだ。
「いらないなら私にちょうだい?手も足も顔も声も、全部私にちょうだいよ!」
「あげる、欲しいなら、全部」
真也は大きな両手で智の両手を取った。
「君に『愛してないけど付き合って』って言った時、本当はすでに君を愛してた。でも俺が我慢出来なくなって君を求めてしまうのが怖くて。君の方で準備してなければ、大事な君の一生を棒に振ることになる。正直で前向きで仕事が大好きな君を、俺のために苦しめたくなかった」
彼の瞳は潤んでいた。
「でもあの発表会で、俺のために赤い薔薇を腕一杯に抱えてきた君を見て、唐突に思ったんだ。何もかも忘れて単純に『ああ、結婚したいな』って。あの薔薇は俺の部屋にある、まだ枯れてないよ」
彼は素早く立ち上がって、もうひとつの部屋に智を案内した。そこは寝室で、そのベッドサイドの硝子の花瓶に智があげた薔薇が差してあった。赤い花弁はまだ瑞々しく、濡れたように輝いている。真也は智の両肩を掴みしっかりと目線を合わせた。
「・・・智、俺の子供を生んでくれない?君の命を俺に分けて。セックスってそういう事だろ?」
あられもない言葉とベッドに思わず赤面したが、はっと我に返ると、
「待って!」
と智は急いで居間に戻る。
「何?」
追いかけると、智は自分のバッグを開けて何やら探している。
「これ」
智は振り返ると少し誇らしげに白い袋を出し、真也の鼻先に突き出した。
その袋には、
「栗山 智様」
という名前と共に、産婦人科病院の名が書いてあった。
「・・・智!」
「準備、これでいい?」
智はいたずらっぽく笑ったが、真也は泣きそうな顔で彼女を見た。ここまでしてくれた子は今まで誰一人としていなかったのだ。
「俺の、ために?」
「私のためでもあるよ。急に産休になったら木暮さんに怒られちゃうもん」
肩をすくめた智を真也は力一杯抱きしめた。
「俺は・・・どうしたらいいんだ」
溢れ出す想いを持てあますように呟くと、智が小さな声でその答えを教えた。
「・・・キス、して?」
智の言葉に真也はぎょっとしたように彼女を見た。智が照れくさそうに微笑むと、彼は猛然と手を引っ張って寝室に戻り、いきなりベッドに智の身体を押し倒した。
視界には真也だけ。他には何も見えない。
「キスして、だ?」
真也は少し息が上がっていた。
「今までキスしなかったのは」
唸るように言って、彼女の顔の両脇で二人の指をきつく絡めた。
「そのまま止まんなくなるからに決まってるだろ!」
重なる、熱い熱い身体。
彼の目に欲望の渦。
牙を取り戻した黒豹に狙われた智は身震いした。
唇まであと3cm。熱い吐息がかかる。
「・・・いいか?」
あと1cm。
「キス、するぞ?」
「・・・!」
返事は、出来なかった。