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彼女と僕は、その後の数日は何事もないまま極めて普通に過ごした。
でも、日を重ねるごとにそれがやって来る気がして、僕は時間がある時には意味もなく窓の下の通りを過ぎる自動車やバイクや人をじっと眺めたり、ポストの中の郵便物を確認してみたりもした。当然のことながらそんな所から今までやってこなかった何かは来るはずもなかった。
ある日の夜に、あさりの蒸しご飯を手際良く茶碗によそいながら、彼女は言った。
「うーん…あのねえ、そろそろじゃないかしら」
「そろそろって…この間のソファのこと?」
「そう、そろそろな気がする。でもまだね」
そう、このいつもの彼女の物言いだ(おそらく彼女の主張する最適なポイントとやらと密接に関係しているのだろう)。確かにそろそろは今すぐではない。でもそれがそろそろであってまだということは、当分まだである言う訳でもないらしい。詰まるところ、僕にとって到着までのその距離は納得できるデータとしては計りかねる代物だった。
「まだ日数的なものは分からない?」
「わからない」
「距離的なことも?」
「そうね、距離的なことも」
「ふうん」
「でもね、伸び縮みはしているわね」
「距離が?」
「そう。そこには伸縮性が認められる」僕はボウルの中の塩水に浸かったあさりが呼吸管をふにゅっと伸び縮みさせる様子を真っ先に想像したけれど、それについては黙秘した。問題は多分そこじゃない。恐らくは今それは火星の上にでもあるのだろう。火星人もあさりの砂抜きをするためにボウルに水を張ったりするんだろうか、それとも…。
「明日あたり、見に行ってみようか?」僕のへんてこな妄想のエネルギーを察したかのように、彼女は少し大きめの声で言った。
「見るってなにを?」
「件のソファよ、その来たるべきやつ」
「どこにあるか知ってるんだ?」
「どこにあるかじゃないの、どうあるかなの。それに君も一応は見てみたいでしょ」
「ふーん、まあそうだね、見てみたい」
「じゃ、明日行こう。多分見られると思う」
「土曜は仕事は休み?」
「明日は半日出るけど、午後に待ち合わせしない?」
「うん、分かった。何か楽しみだね」
「そうね、とうとう来た感じね」
とうとうやらそろそろやら、親違いの親戚なのか義理の兄弟のいとこなのか、それらのよく分からない言葉たちが入り乱れてこの世界は満たされている、と僕は思った。まもなくそれらは日光だけでなく紫外線をも遮って、我々の無駄な日焼けを防いでくれるかもしれない。
ふと見ると、彼女はちょっぴり誇らしげな様子で箸を操りながらあさりと飯粒を黙々と口の中に運んでいた。
その店については僕はもう知っていた。その店先で超自然的に直立する彼女を見かけたあの家具店だった。待ち合わせに先に着いた僕はショーウインドウの中を見たが、それはあのピンクのソファではなく、黒地に金のラメの入ったいささか重厚で過度に豪勢な長椅子に替わっていた。あんなに値が張っても、熱心な買い手は確かにどこかに存在しているのだ。この長椅子も遅かれ早かれどこかの持ち主の屋根の下に行くのだろう。
「おはよう、お待たせね」
「あ、おはよう。あのさ、ここで前に君を」
待ち合わせに現れた彼女と少し立ち話をしようと僕は思ったが、彼女はショーウインドウを一瞥したなりすばやく僕の目前を横切って店内に入っていった。表情からは怒っていないことは分かったが、そこには何かを見定めた者の強く直進的なベクトルが感じられた。
「あのソファはもう出てしまいまして」申し訳なさそうに店員が彼女と話している。
「ですから先日急にお買い上げになったお客様が、」
「あの、先日っていつですか?」
「ええ、あれは二週間ほど前になります」
「そうなんですか、あのソファは再入荷って出来ますか」
「あれは一点物なのでそれは難しいかと…申し訳ありません」
「あの形がとっても良いんですよ、気に入ってたんです」
「おっしゃるとおりです。とても上品で、それでいて気軽な気分にさせられる形と落ち着いた色合いで」
「再入荷が無理なら何かほかに手段はありませんか?」
「ええと、そうですね、そうしましたら…」
彼女の口調は攻撃性による力ではなく、目の前に質素かつ堅固なレンガを着実に積んでいき、相手が困惑する間もなく何かの行動に導かれるような影響力を持っている。古代の名将がその不動かつ堅固な振る舞いによって勝たずして勝つ。そんな態度を備えていた。実際に店員の表情は職業的な装いから不自然に微妙なグラデーションを帯びたものに変わっていたし、僕はそれを見逃さなかった。
「少々お待ちください」店員は誰かを呼びに行った。
「えへっ、少しびっくりしちゃった」彼女は近くにいた僕に無邪気に笑いかけた。
「なにが?」
「まだあるかと思ったの、でもなかったから」
「そうなんだ」
「でも大丈夫、見てたでしょ」
「まあね」
「ここはひとつわたしに任せてね」
「〝どこにあるかじゃない、どうあるかだ〟」
「そうよ。まあそのはずよ、安心したまえ」
「汝の王国は今まさに作られんとす」
「なにそれ?」
「あーめん」
「やめて、店員さん来るよ」彼女は小声で僕をたしなめた。
「お待たせしました」店員が我々を店の目立たない一角へと招いてから数分経った頃、店員の上司らしい男性がやってきて、自分の名前を名乗った。
「お客様、ソファについてお話をうかがったのですが、ご購入を希望されてご来店ということでよろしいですか」
「はい」
「あいにく現在は店頭に在庫がない状態でして」
「はい」
「お客様が強くご購入を希望されていることも理解しております」
「はい、そこは是非お願いしたいです」
「そもそも一点物ということもありまして私どもも再三苦慮したのですが」
「ええ」
上司らしい男性は数秒ほど沈黙した。
「…なんと申しますか、私どもの方でですね」
「はい」
「そのう、ある手段を考慮いたしまして」
「はい」
彼女の発音は明瞭で押し付けがましさを感じさせなかった。そして不思議なことに、簡潔に相槌が打たれる度に、彼女の率いる軍がじんわりと谷を渡り山並みを進んでいくのが分かった(大切なのはその距離や数ではない、士気がどうあるかだ)。
男性はまた数秒ほど黙り、ややすばやく瞼を開閉させたのちに我々を通り抜けるような曖昧な視線を下方に送り、こんなことを言った。
「後日になるのですが、お客様のご同意がいただければ商品をお値引きしてご提供させていただくことが可能になるのですが」
お値引き?ご同意?一体この男性は何を言っているのか僕には判断しかねた。もし誰かの脳みその中を無許可で人工衛星が周回し始めたとしたら、今みたいな気分になるのかもしれない。
「要するに購入が可能な状況だと理解してもよろしいですか?」
「はい、その点なのですが、」
「ではまだ在庫があるということですね?」
「ええ、その」
「購入します」
「あの…その、その前に商品の状態などについてお知らせを」
「他に購入希望者はいませんよね?」
「ええ、いらっしゃいませんが」
「では決定でお願いします」
「一応商品についてご説明だけさせていただければ…」
こんな不規則で安定しない曲線のような会話のあとに、さらに消化試合的なやりとりが何回か往復した。状況的に彼女がすでに今から先の地点のどこかに小気味よい強靭さで一撃必中のタックルを決めていたのはどうみても明白だったが、それが分かるのはその場では恐らく僕だけだった(もちろん彼女を除く)。
いや、それすらも既に遅かったのだと思う。もっとさらに以前にそれはなされていて、僕はそれに気付かずに、ただ彼女の側でごくノーマルな人類の一員としてのほほんと暮らしていたに違いない。




