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「おはよう」と彼女が言った。「おはよう」と僕も言った。いつものように。
そして寝室から出て、朝日が差し込む居間のカーテンの隙間の眩しさを感じながら、僕は気が付いた。
ない。昨夜までそこにあった空色のソファが消えている。ぽっかりとその空間だけが何か特殊なバターナイフによって切り取られたように、ソファと一緒にすっぽりと姿を消していた。
僕は自分が混乱したことを悟るよりも先に、今までそこで機能していた感情的な回路のスイッチがふっと音もなく作動して、同時に別のかたちの新しい回路に変容したのを感じた。いささかの軋みや不自然な摩擦もなく、とても滑らかに、且つふんわりとした感触を持って。
「ソファがない」僕は、寝室の彼女に向かってそう言った。でもそう言ったあとにそれが明らかに余計な付け足しのような気がして、言葉を放ったことをほんの少しだけ後悔した。
「あ、ごめんなさい」彼女は少しだけ寝ぼけた声でそう答えた。
「言ってなかったけど、」そう言ってから少しの間があった(僕は壁の向こうで彼女が両手を上げてぐっと伸びをする様子を想像した)。
「夜の間に移動させたの。ちょっと人に頼んで」
「ソファを?」
「そう。ごめんなさい、伝えてなくて」
「びっくりしたよ」
「大丈夫、抜かりはないから」
「え?」
「問題はないってこと」
「あのさ、君がそう言うんならそういう事なんだろうけど、」
「んんとね、要はね、あなたとソファを手際よく切り離す必要があったのね」
居間のテーブルに寄り掛かりながら彼女はそう言った。
「それが上手く行ってないと、満ちた状態で妹の部屋にソファを持っていけないから」
僕の頭の中で、きらきらとした装飾をまとった回転木馬が三回転ほど賑やかに走り回ったようだった。それが停止する気配はまだない。
「それは何と言うか、おまじない的なことかな」
彼女はテーブルの天板の木目に指を軽く乗せている。何かに集中しているのかもしれない。でも僕にはそれが何なのかは分からない。
「うん、そう。まあそうね」
「ふうん」
「まあね、とにかく後はあそこにはまる良い感じのやつを持ってくるから」
それってもしかして何かえっちなやつ?そう試しに彼女に尋ねて場の緊張をほぐそうと思ったが、それはとても無謀な上陸作戦のように思えた。僕は発話を一回分パスした。
「素敵な新しいソファがやってこおい、来い、来い」彼女は何かを飲み込んだ僕を察してそんな風に言って、僕に向かって無邪気に指先をくるくると回して少しだけにっこりと微笑んだ。僕の頭の中の新しい回路にその可愛らしい呪文は手早く馴染んだようだった。
「取りあえずここにはこの毛布を敷いとくね」彼女はソファの跡地にしゃがんでそう言った。少々こってりとした厚手の薄い茶褐色の毛布が、小さな庭の一角のように彼女の下に広げられている。その姿はそのままの状態で星々の間を自由に行き来できそうに見えた。遥か虚空から吊り下げられた見えないハンモックの上で毛布はしっかりと小さな操縦席のように固定され、滑らかな曲線を描きながら、彼女と毛布は無限の空間の闇の中を……。
「ちょっと、聞いてる?」彼女の声がどこかで聞こえた。僕はその少しの間だけそこに居なかったようだった。
「あ、うん聞いてるよ、そこね」
「ここに来て一緒に座ってって言ってるの、聞いてた?」
「あ、ごめん。何か少しぼーっとしてた。ごめん」
「これは結構大事なポイントだから、ここ来て」彼女はぽんぽんと毛布を軽く叩き、僕は彼女の左側に座り、彼女も腰を下ろした。心なしか目を閉じた彼女の横顔はある種の勇ましさで薄っすらと化粧されているように見えた。
「思い浮かべるの」
「?」
「どの時代でもいい、誰かが何かをぼんやりと待ち望んでいる姿を」
「えっと、」
「何も言わないで、ゆっくりと意識を合わせて」僕はその言葉の正当さと暖かさに従った。それ以外の理由がなかった。
「どんな理由でもいい、その誰かは三つぐらい何かを待ち望んでいるの。だけどそれらは一緒にやっては来ないし、ばらばらにもやって来ない」浮かんできた疑問符を僕の薄らいだ意識と閉じた眼が柔らかに消去した。
「それだからこそ、それは楽しく感じられるのよ。消えたり浮かんだりしながらやって来る、それらの到着を待つことが」(なんて日曜の朝なんだろう?朝ご飯が多次元空間心理学的なオートミールだなんて全く聞いていない)。
「新しいソファってやっぱり素敵よね。複数の何かが寄り添っていい具合に組み合わさって成り立ってるんだわ。だからこそ気持ちがそこにすっと入っていけるの。分かる?」僕は軽く頷いてその魔法に賛意を示した。
「これからここにやって来るのはね、そんな新しい何かなの」
「(…そうだね)」彼女はしばらくの間、沈黙していた。賢いオウムがいつもの午後の昼寝を行っているかのように。僕もそれに倣って意識を合わせた。
「情け容赦なくさすれど不躾にもあらず、そは来るものなり」
「(いきなり江戸?室町…あとえっと、鎌倉?)」
「…アーメン」
「(ぷっ)」
「いま笑ったわね」
「(むふっ)」
「笑ったでしょ」
「いや、全然…ふっ」
「ふふっ、まあいいわ。ご協力ありがとう。なかなか良かったわよ。うぷふっ」彼女はいつもの笑顔に戻ってそう言った。僕は伸びをしながら毛布の上で目を開いた。
「どういたしまして」と僕は真面目に言った。彼女の横隔膜はまだどこかで不可避的に震えているようだったけど、それには触れないで黙っていることに決めた。
「朝ご飯は何にしようか、サラダの残りでいい?」
「そだね、あと鰯のマリネと。レモンもあったかな」
「いいわね」あくびをしながら彼女がそう言った。
それはただの日曜の朝じゃなくてちょっとした恒星間旅行の後みたいな気分だったけど、僕と彼女の間にはサラダ以上の何かとても爽やかな流れが出来上がっていたように感じられた。それが何を運んでくるのかはともかく、我々の間にはその手放しの楽しさが軽やかな質量で生じていて、世界はその延長上で爽やかに小気味良く動作しているように感じられた。




