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「これいつ買ったの?」僕は彼女に尋ねた。なぜなら今まで見たことがない洒落た作りの木製の棚が、玄関を入った脇に置いてあったから。
「いつって、前からそこにあるじゃない」彼女は当たり前のように答えた。ラーメンにメンマは普通に入ってるでしょ、とでも言わんばかりの滑らかな口調で。
前からっていつだよ、とまた聞きそうになったが、ぐっとこらえて僕は黙った。
彼女と一緒に暮らすようになってから、こんなことばかりだ。一ヶ月前には印象派風の西洋画が収められた立派なごりっとした額縁、三週間前には高級そうな匂いを放つ石鹸の詰め合わせの入った箱、つい先週には優に1キログラムはありそうな燻製ハムの包みがキッチンに無造作に置かれていた。
それらは何の前触れもなく僕の視界の中に現れて、新鮮さと言うよりは何かぼんやりとした蓋然的な占有感を漂わせながらそこにあった。
彼女はそんなにお金が潤沢にありそうな人物には思われないのだけれど、人より少しだけ決断が速い。それは全体的に速いというよりも、いわば人間的な決断の平均速度の中にたまに光速度がほんの2~3ミリ分だけ疎らに混入しているような速さだから、ごく普通の速さとの違いはほとんど感じられない。でもその二つは決定的に違うのだ。その見えない心の動きは、疾走する獣の前足が意図するよりもさらに先の空間をすでに掴んでいるような、まるで視覚による捕捉を拒否する風変わりな火花が誰かの視線の先々でぱちぱちと楽しげに舞い踊っている様子を僕に思い浮かべさせた。
そのような性質によって外面的に俊敏な印象は1ミリも表さずに全ては静かに選別され、すでに決定は完璧になされている。それが彼女の中のやり方のようだった。
ある朝食のときに、僕は彼女に尋ねてみた。
「あのさ」
「なに」
「今までに一番迷ったことってなに?」
「ん?……そうだな、ないかな」
彼女は伏し目がちにそう答えた。そんな質問よりも、目線の先のテーブルクロスの刺繍の編み目の方が気になっていたのかもしれない。
「なにも?」
「うん。迷うことってほぼないかも」
「でもさ、昨日蕎麦屋で注文する時に少し迷ってなかった?」
「ううん、あれはちょっと違うの」
「違う?」
「そう。あの時は少しだけお蕎麦の仕上がり具合がどうなるのかを見てたから」
「仕上がり具合」僕は人知れず揺らいでいる秤のように曖昧に疑問を呈してみた。
「あのね、お料理って頼むタイミングで微妙に味のバランスが違ってくるの」
「へえ」
「本気にしてないでしょ」
「んん、まあそうだね」
「ほんとに別物よ。ベンガルトラと物干し台ぐらい違うんだから」
「ああ、そんなに違うんじゃ大事だね」僕はほうじ茶の入った湯呑みを擦りながら言った。
「そうなのよ。だからどんな具合で麺が茹で上がろうとしているか、蕎麦つゆの温度や薬味の香りがいつベストのバランスになるか、それらがやって来る最適なポイントで注文する必要があったの」
「それは知らなかったな」
「だからね、そのベストの感触を探りながら少しだけもじもじしてたってわけ。いわばBボタンを押し続けてパワーが充填されたその瞬間にAボタンで決定する、みたいな割と単純な作業よ」
「楽しそうなゲームみたいだね」
「そうそう。もう前もってタイミングはほとんど決まってるけどね、本当に楽しいわよ。それですごく美味しいものや素敵なものがやって来るんだから」
「でもさ、味って調理する人が決めてるんじゃないの?」
「えーとね、それは確かにそうだけど全てそうでもないの。調理人はそこに含まれるかなり重要な部分ではあるけれど」
「ふーん」僕は彼女の鎖骨の起伏に目を移しながら七割五分くらいの相槌を打った。そうか、そんなものか。僕にはよく分からないけど。ベンガルトラと物干し台。
数日ほど前、僕は仕事で外に出ているときに路上にすっくと佇む彼女を見かけた。それは全く偶然のことだったが、彼女の姿はまるで磁石によって真上に引き寄せられてぴっと縦長の円錐の形を成している、ひと塊の砂鉄のようだった。彼女は柵のような車道のガードレールを背にして、歩道をはさんだ家具店のショーウインドウをじっと見つめているようだった。時間的に彼女もまだ仕事中のはずだったが、その姿はそうは見えなかった。その圧倒的な静謐感は、僕にとって一番近しい人に気軽に話しかけることを忘れさせるに充分なだけの磁力を放っていた。
そして何の前触れもなく、彼女はすっと逆の方向へ歩いていった。しばらくして僕は我に返り、彼女が立っていた場所に行って同じようにショーウインドウに視点を移してみた。その眩しい照明の中にあったのは、薄く落ち着いた印象でほのかに重量感のあるピンク色のソファだった。二人で使うには充分な大きさで、作りには趣味の良さが漂っている。
もっと小振りのソファはすでに部屋にあるけど、こういうのが良かったのか。なるほど。そう思いながら近寄って値札を見ると、それは中古の型落ちの小型車が一台買えそうな値段だった。言うまでもなく、部屋に中古車を押し込んで生活するよりは素敵なソファがあった方が良いに決まっている。しかしそれはなかなか大変そうな金額だった。
だがそんなことより僕が感じたのは、ガラス越しのそのソファから送られて来る、ある種の親密さのような感情だった。そのエネルギーは強くアプローチしてくる訳ではなく、そこで静かに満ちているだけなのだが、その優しげな気配にこちらが気付くと、まるでそれに感応して安心に満ちた親しげな眼差しを送り返してくるようだった。いつしか、僕はそのソファから目が離せなくなっていた。
座るための家具であるそのソファと人間である僕の間に漂っていた偶発的な静寂は、出来たての自家製ハンバーガーの香ばしい匂いのように、僕を徐々に包みこんでいった。
「妹がね、ソファが欲しいんだって」彼女は蒸したてのじゃがいもを素早く竹製のざるに移しながら僕に言った。
「妹さん?」僕は食塩の小瓶を探しながら答えた。
「そ。あの妹よ」
彼女の妹は割とよくこの部屋に遊びに来ている。それほど度々ではないにせよ、僕の不在中にも何度か来ているはずだ。大人しいとも言えないが、もの凄くはしゃぎ回る性格でもない、僕にとっては平均的な温度を感じさせる女性だ。割と話しやすいので、僕は会った時にはいつもその妹と楽しく会話を楽しんでいる。でもそれは僕の彼女という存在を介して生じた、特別な何らかの作用によるものに違いない。
「そこにあるソファ、あげてもいい?」彼女は換気扇を止めながらほんの少しだけ躊躇いがちに言った。
「ソファって…それのこと?」僕は居間にあるライトブルーのソファを見て言った。
「そう。欲しいんだって。この間あなたがいない日に来た時に頼まれちゃったのよ」
「それは…妹さんがどうしてもと言うんなら、嫌ではないけど、またどうして?」
「満ちてるんだって」
「満ちてる?」
「そう。あのソファが満ちてるからって、そう言ってたの。それが良いんだって」
ソファが満ちる?満ちるものと言えば潮とか時期とかバスタブのお湯とか、一般的にはそういう物だろう。僕には分からなかった。
「えーと、まずあのソファの何が満ちてるのか、それが知りたいんだけど」
「分かんないわ」
「え?」
「詳しいことは分からないの。でも妹がそう言うのならあげても良いかなって」
僕は彼女の妹がソファの満ち具合を確かめる様子を想像した。ガイガーカウンターの様な機器を使っているのか、あるいは羽箒のような道具で表面を撫でているのか、それは僕にはうまく確定できなかった。でもそのうしろ姿は、生来の生真面目さとソファに対する適切な慈しみに溢れているようだった。
「ソファが満ちるって話は聞いたことないけど、それは北欧の神話にでもあるのかな」僕は試しに冗談を言ってみた。とても慎重に。
「それは知らないけど」
「…じゃあ、どういうこと?」
「さあねえ、取りあえずは良い品だってことじゃない」
「へえ、そういう事なんだ」
「でもあれよ、全部ただじゃなくて少しはお金は貰うからね」
「ああ、もちろんそれは構わないけどさ」
「それと新しいのは私が用意するから、任せてくれる?」
僕と彼女は趣味が似ているから、それはさほど心配はいらない。
「いや、それは任せるのは良いけどさ、それよりあのソファが、」
「ちょっと細かい説明は省くけど、これは私に任せてよ」
「?」
「もっと別の、何と言うか…満ちてる感じのやつを持ってくるから」
「満ちてる?」
「そ、楽しみにしといてね、うふふ」彼女はほぐしたじゃがいもに粗挽きの胡椒を振り終わって、僕をちょっと見つめてから楽しげにほくそ笑んだ。もしその笑顔に逆らってみても、またさらに別の方向に流されるのは明白だ。そんな素敵な笑みだった。
そして半ば超自然的に抜き取られた僕の心の中の引っ掛かりは綺麗に押し流され、遠く彼方に見えなくなっていた。しかし、呆気にとられている僕が見つめるその水の流れに、それほど間違いはなさそうだった。
そして、それは気持ちの良いある日曜日の朝のことだった。




