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第5話 釣りに行く約束

 午後二時を少し過ぎたころ、ロビーの自動ドアが、風に押されるように開いた。


 入ってきたのは年配の男性だった。

 七十代前半くらい。背中は少し丸いが、足取りは頼りないほどではない。

 手にしているのは、細長い筒状のケースが一本。釣り竿だ。


 男はロビーの真ん中で立ち止まり、ゆっくり周囲を見回した。

 天井の梁、古い床板、壁の掲示。

 それから一拍遅れて、潮の匂いを確かめるみたいに鼻で息を吸った。


 その仕草が、観光客のそれじゃなかった。

 “来たかった場所に来た”というより、

 “ここに来る理由を持ってきた”感じだった。


 男はフロントへ歩いてくる。


「すみません」


「はい。いらっしゃいませ」


 仕事用の声で、オレは応じる。


「チェックインは……まだですよね」


 時計を見る。十四時を少し回ったところだった。


「はい。チェックインは十五時からになります。

 ただ、ロビーでお待ちいただくことはできますよ」


「ああ……助かります」


 男はほっと息を吐いた。

 時間を潰せることより、ここに“居ていい”と言われたことに安心した顔だった。


 男は椅子に腰を下ろし、釣り竿のケースを横に立てかけた。

 それから入口の方を見る。

 視線は何度も戻ってきて、何度も同じ場所で止まる。


 誰かを待っている。

 でも、その誰かは来ない。


 端末で予約を確認すると、男の名前の欄には二名分の記載があった。

 目の前にいるのは一人だけだ。


 しばらくして、男がまたフロントに来た。


「すみません……携帯、少し充電させてもらってもいいですか」


 頼み方が妙に控えめだった。

 充電したいだけなら、もっと気軽に言えばいい。


「はい。こちらにコンセントがありますので」


「ありがとうございます」


 男は礼を言いながらも、やっぱり入口の方を見ていた。


 オレは、聞かない。

 聞かなくても分かることはあるし、

 分かってもどうにもならないことは、もっとある。


 ただ今日は、釣り竿が目についた。


 このホテルには桟橋がある。

 照明もあって、夜でも使える。

 風が強い日は危ないが、条件がよければ二十四時まで問題なく釣りができる。


 男は、その桟橋を目当てに来たはずだ。

 でも竿はまだケースの中で眠ったまま。

 眠っているのは竿じゃなくて、ここに来た時間のほうに見えた。


 オレが口を開きかけた、その前に、男の方が言った。


「息子と来る予定だったんです」


 言い切ってから、男は小さく笑った。

 笑い方がうまく形になっていない。


「仕事の都合で……急に、来られなくなって」


 愚痴でも怒りでもない。

 ただ事実を置く声だった。

 それが逆に、重い。


「そうでしたか」


 オレはそれ以上の言葉を足さなかった。

 「残念でしたね」と言うと、残念だと確定してしまう。


 男は少し間を置いて続けた。


「小さい頃はね。よく一緒に釣りに行ってたんですよ」


 声が、ほんの少し柔らかくなる。


「釣れなくても平気で。

 魚がいなくても、海に来てるだけで楽しいって顔をしてた」


 男は窓の外を見た。そこに海は見えない。

 でも、男の視線の先には確かに海があった。


「……でも、大きくなってからは違いましたね」


 男は言葉を探すみたいに、視線を落とした。


「釣れないと、すぐスマホを見るようになって。

 時間がもったいないって言うんです」


 責める口調じゃない。

 困っている声だった。


「忙しいんですよ。

 仕事が、仕事がって……。

 たぶん、正しいんでしょうけどね」


 正しい。

 その言葉の中に、諦めが混ざっていた。


「……それで、今回誘ったんですか」


 オレが聞くと、男はうなずいた。


「誘った、っていうより……このままだと、壊れそうで」


 男は言ってから、言い過ぎたみたいに口を閉じた。

 でも、もう取り消せない。


「昔みたいに、釣れなくてもいい時間を一回作らないと、

 あいつ……どこかで折れる気がしてね」


 その言い方が、やけに具体的だった。

 “何となく心配”じゃない。

 一度、似たものを見たことがある声だった。


 オレの胸の奥が、ほんの少しだけ反応する。

 痛いとか、苦しいとかじゃない。

 ただ、何かに触れた感覚。


 男は釣り竿のケースを見て、息を吐いた。


「来るって言ってくれたんですよ。

 だから……」


 言葉は、そこで途切れた。

 続きを言えば、感情が崩れる気がしたのかもしれない。


 オレは頷いた。


「十五時になったら、チェックインできますので」


「ああ、はい……」


 男はロビーの椅子に戻り、また入口を見た。

 待っているのは人じゃない。

 約束の形のほうだった。


     *


 十五時。

 ロビーに人が増え、足音が増え、会話が増える。


 男はその喧騒の中で、少し背筋を正してフロントに来た。


「一人分で、お願いします」


 二名予約の欄を、オレは確認しないふりをした。

 確認しても、重さが増えるだけだ。


「承知しました。

 お部屋は海側でご用意しております」


 男は小さくうなずく。

 鍵を受け取る直前、少しだけ迷うように口を開いた。


「……桟橋、夜も使えますか」


「照明がありますので、二十四時まではご利用いただけます。

 ただ、風が強い日は足元が危ないので、その時は無理しないでください」


「分かりました」


 男は釣り竿を手に取り、エレベーターへ向かった。

 背中が少しだけ軽くなったように見えた。


 軽くなったのは期待のせいじゃない。

 “何もしないまま帰る”未来が、少しだけ遠のいたからだ。


     *


 夜十時。


 仕事を終えたオレはロビーを抜け、外に出た。

 風はあるが、強すぎない。

 桟橋の照明が海面を照らし、光の帯が波に揺れている。


 桟橋の先に、人影があった。


 男だった。

 釣り竿は手にしているが、糸はまだ垂れていない。

 ただ海を見ている。


 声をかけるべきか迷って、結局声をかけた。


「こんばんは」


 男は振り返り、少し驚いた顔をしてから、会釈した。


「お疲れさまです」


「……釣れそうですか」


「さあ」


 男は笑った。


「息子がいたら『まだ?』って言われてますね。

 ……昔は言わなかったんですよ。

 釣れなくても、平気だったのに」


 その“平気だった”が、誰の話なのか曖昧だった。


 オレは隣に立つ。

 照明の下では、顔がはっきり見える。

 でも、男の目は海を見ていた。


「仕掛け、これでいいですかね」


 男が小声で聞いてきた。


「はい。

 潮の流れは……今日はちょっと早いですね」


 そう言いながら、自分でも驚く。

 オレはいつの間に、こういうことを口にするようになったんだろう。


 竿を振って、糸を垂らす。

 波が糸を揺らし、ウキが小さく踊る。


 当たりは来ない。


 来ない時間が続くと、普通は気まずくなる。

 でもこの時間は、なぜか気まずくならない。

 海が、全部引き受けてくれるからだ。


 男がぽつりと言った。


「あなた、釣り好きなんですか」


 オレは少し迷ってから答えた。


「好きですね。

 小さい頃から、なんとなく」


 言ってしまってから、続けるか迷う。

 でも、夜の桟橋は言葉を軽くしてくれる。


「父は釣りは好きじゃなくて。

 一緒に行ったことは……ないんです」


 それだけ言った。

 説明もしない。

 評価もしない。


 男はしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。


「……それでも、今は一緒に暮らしてるんでしょう」


「はい」


「それは、それで……いいですね」


 “いい”と聞いて、胸の奥が少しだけ動いた。

 オレは「そうですね」とも言えずに、ウキを見る。


 当たりが来たようにウキが沈む。

 思わず竿を立てる。


 でも、何も乗っていない。

 ただ潮に引かれただけだ。


 男が笑った。


「釣れないですね」


「釣れませんね」


 その笑いは、昼間の苦い笑いと違った。

 諦めじゃなくて、受け入れている笑いだった。


「……昔はね。

 釣れなくても、平気だったんです」


 男は言った。


「でも息子も、私も。

 釣れないと、何も意味がないみたいな顔をしてた時期があってね」


 “私も”と言ったのが意外だった。

 責めているんじゃない。

 ちゃんと自分も含めている。


「釣りって、こんなに何も起きないのに、

 昔はそれが楽しかったんですよね」


 何も起きない時間。

 それは、忙しい人にとって一番怖い。

 怖いから、埋めたくなる。


 オレは昔、埋め続けた。

 埋めることが正しいと思っていた。

 埋めることをやめられなかった。


 男の「壊れそうで」という言葉を聞いたときも、

胸の奥が叩れたような気がしたのを思い出した。


 それから二人とも、黙ってウキを見た。

 海は同じように揺れて、同じように音を立てる。


 結局、二十三時を過ぎても一匹も釣れなかった。

 当たりらしい当たりもない。


 男は時計を見て、少しだけ笑う。


「……息子なら、こういう時に『時間もったいない』って言うんでしょうね」


 その言い方は、責めじゃなかった。

 どこか、心配の裏返しだった。


 オレは言った。


「息子さんに、連絡してみたらどうですか」


 男がこちらを見る。


「釣れなかったって、

 そのまま」


 男は少し迷った。

 親が子に送る文面は、いつだって難しい。

 心配しているほど、余計な言葉が増える。


 でも男は、短く打った。

 余計な飾りを付けずに送信する。


 送ったあと、男はスマホを握ったまま海を見た。

 来ない当たりを待つみたいに、返事を待つ。


 しばらくして、画面が震えた。


 男はそれを見て、息を吐いた。

 肩の位置が、ほんの少し下がる。


「……『今度は、仕事なんとかするよ』だそうです」


 男は笑った。

 泣き笑いでもない。

 ただ、少し安心した笑いだった。


「なんとか、するって」


「いい返事ですね」


 オレがそう言うと、男は頷いた。


「無理に今じゃなくていいんですよね。

 ……釣れなくてもいいみたいに」


 言ってから、男は照明に照らされた海面を見た。

 海は何も変わっていない。

 でも、男の顔だけが少し違って見えた。


     *


 翌朝。


 男は静かにチェックアウトした。

 荷物は少ない。釣り竿のケースも、昨日と同じだ。


「お世話になりました」


「ありがとうございました」


 男は玄関で一度だけ立ち止まった。

 振り返りはしない。

 ただ、外の風の匂いを吸い込むみたいに、胸が上下した。


 それから、ゆっくり歩いていった。


 ロビーに戻ると、波の音が昨日より近く聞こえた。

 風が少し強い。


 オレはフロントに立ったまま、入口を見ていた。

 釣れなかった。

 何も解決していない。


 でも、確かに“時間”は流れた。

 無意味な時間を、無意味のまま過ごせた。


 それが、誰かを助けることがある。

 助けたつもりがなくても。


 オレはスーツを整えて、今日もフロントに立つ。


 このホテルには、約束を抱えてくる人がいる。

 約束が果たされなくても、

 それでも帰っていく人がいる。


 そして時々、

 “釣れない夜”が、誰かの息を整える。


 少しずつ。

 本当に、少しずつ。

第5話、読んでくれてありがとうございました。


今回は「何も起きない時間」をそのまま書いた回でした。

釣れない夜、果たされなかった約束、

それでも流れてしまう時間。


何かを解決する話でもなく、

誰かが劇的に救われる話でもありません。

それでも、ほんの少し呼吸が整うことがある。

そんな瞬間を書けたらいいなと思っていました。


忙しさや正しさの中で、

「意味がない時間」を置き去りにしてしまうことって、

きっと誰にでもあると思います。


この話が、釣れなかった夜みたいに、

読んだ人の中で少しだけ残ってくれたら嬉しいです。

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