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第4話 少しだけ遅れる

 目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。


 薄い光が、カーテンの隙間から滲んでいる。

 朝と呼ぶには早く、夜と呼ぶには遅い。

 そんな時間帯だった。


 隣の部屋から、かすかな物音が聞こえる。

 引き戸が静かに開く音。

 足を引きずらないように気をつけている歩き方。


 父だ。


 父は、朝が早い。

 若い頃からそうだったが、年を取ってからは、さらに早くなった。


 溶接工だった。

 工場の設備工として、壊れたものを直す仕事をしていた。

 若い人のなり手がいないらしく、定年を過ぎても会社から乞われて働き続けた。

 七十五歳まで現役だった。


 去年、ようやく仕事を辞めた。

 今は七十六歳だ。


 身体はまだ動く。

 でも、動かし方が、昔とは違う。

 無理をしない動き。

 急がない動き。


 その変化に、オレはまだ慣れていない。


 布団の中で、天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 起きる理由は、まだない。


 今は、父と二人暮らしだ。

 母は、体が不自由になってから、施設に入ってもらっている。

 父より一つ下で、七十五歳。


 その判断が正しかったのかどうか、

 今でも、ときどき分からなくなる。


 正しかった理由はいくつも思い浮かぶ。

 正しくなかったかもしれない理由も、同じくらい浮かぶ。


 だから、考えすぎないようにしている。


 父は台所で、朝の支度をしている。

 ガスの火がつく音。

 湯が沸く音。

 茶碗が触れ合う音。


 ひとつひとつの音が、丁寧だ。

 急いでいない。

 でも、止まりもしない。


 オレの生活は、午後から夜にかけて動く。

 ホテルのシフトは基本的に午後からで、夜十時まで。

 チェックインの時間帯が一番忙しい。


 だから、朝はすれ違う。


 父が一日を始める頃、

 オレはまだ、始めなくていい。


 それが、ここ数カ月のリズムだ。


 悪くない。

 お互いに、干渉しすぎなくて済む。


 オレは昔から、そういう距離の取り方が得意だった。

 近づきすぎず、離れすぎず。

 相手が嫌がらない位置を、自然と選べる。


 そのせいか、

 周りからは信頼されることが多かった。

 慕われることも、少なくなかった。


 でも、同時に、

 なぜか必要以上に嫌われることもある。


 理由は、よく分からない。

 何かをした覚えもない。

 でも、確実に溝ができる相手がいる。


 それも含めて、

 「うまくやっている」人生だった。


 ——外から見れば。


     *


 父が出かける気配がした。


 今日は土曜日だ。

 たぶん、母のところに行く。

 それが、ここ数カ月の決まった流れだ。


「行ってくる」


 短い声。

 返事を待たない声。


「いってらっしゃい」


 布団の中から、そう返した。

 声はちゃんと出たと思う。


 玄関の戸が閉まる音。

 鍵の音。

 家の中が、また静かになる。


 起き上がって、カーテンを開ける。

 海は見えないが、空の色が少しだけ明るくなっている。


 今日は、仕事だ。


 そう思った瞬間、

 胸の奥で、わずかな引っかかりがあった。


 嫌だとか、行きたくないとか、

 そういう感情じゃない。


 ただ、

 「いつも通り」という言葉が、

 少しだけ、手前で止まった。


     *


 午後、ホテルに着く。


 地方にある、田舎のホテルだ。

 観光地と呼ぶには地味で、

 かといって、何もないわけでもない。


 島の端に、古びた建物が海に寄り添うように建っている。


 ロビーは、いつもと同じ顔をしていた。

 チェックインの準備。

 予約の確認。

 特別な団体も、厄介な名前もない。


 フロントに立つ。

 スーツを整える。


 ここまでは、何も問題がない。


 問題がないことに、

 オレは少しだけ安心している自分に気づいた。


 ——最近、

 この「問題がない」という状態を、

 期待している。


 そのことに気づいた瞬間、

 胸の奥に、薄い違和感が残った。


     *


 チェックインが始まる。


 最初の客は、

 年配の夫婦だった。


「こんにちは」


「こんにちは。いらっしゃいませ」


 声は、いつも通り出た。

 間も、表情も、問題ない。


 手続きを進める。

 説明をする。

 鍵を渡す。


 それだけのことだ。


 でも、その途中で、

 ほんの一瞬、言葉を探した。


 探した、というほどの時間じゃない。

 誰も気づかない程度の、わずかな間。


 それでも、

 オレには分かった。


 ——今、少し遅れた。


 夫婦は、何も気にしていない。

 にこやかに礼を言って、エレベーターに向かう。


 うまく終わった。


 それなのに、

 胸の奥に、ざらついた感触が残る。


     *


 次の客。

 次の客。


 どれも、問題なく対応できる。


 道を聞かれる。

 夕食の時間を確認される。

 温泉の場所を聞かれる。


 答えは、全部分かっている。

 頭では、迷う理由がない。


 それなのに、

 言葉が出るまでに、

 ほんの一拍、間が空くことがあった。


 遅れる。

 でも、失敗はしない。


 対応は正しい。

 客も困っていない。

 クレームにもならない。


 だからこそ、

 オレの中だけが、

 確実に消耗していく。


 外から見れば、

 オレはこのホテルに馴染んでいる。

 同僚とも、客とも、関係は悪くない。


 信頼もされている。

 仕事も任されている。


 でも、それは全部、

 外側の話だ。


 内側では、

 何かが、まだ置ききれていない。


     *


 夕方、ロビーが一段落する。


 窓に映る自分の姿が、

 いつもより、少しだけ疲れて見えた。


 理由が分からない疲れほど、

 厄介なものはない。


 身体が痛いわけでもない。

 頭が回らないわけでもない。


 ただ、

 全部の動作に、

 微妙な調整が必要になっている感覚。


 まるで、

 少しだけ狂った時計を、

 無理やり使い続けているみたいだ。


     *


 夜十時。


 業務を終えて、ホテルを出る。


 外は、もう暗い。

 潮の匂いが濃い。


 家に帰ると、父はいつも寝ている。

 昼を一緒に食べて出勤するのが、日々の繰り返しだ。


 母のところでは、長くは話さない。

 でも、行く。


 それが、父なりの、

 続け方だ。


 台所には、買ってきた夜食が置いてある。


 それを見ながら、

 オレは思う。


 今日一日、

 何か問題が起きただろうか。


 ——起きていない。


 全部、うまく終わった。


 それなのに、

 胸の奥に、

 「戻れない」という感覚が残っている。


 何に戻れないのか、

 まだ分からない。


 ただ、

 今までと同じやり方を、

 同じ気持ちで続けられない。


 そんな予感だけが、

 はっきりと残っていた。


 オレは電気を消して、

 静かな家の中に立っていた。


 父は、また早朝に起き出す。

 オレは、早くても七時を過ぎないと起きない。

 動き出すのは、八時くらいからだ。


 そのズレは、

 ここ数カ月で生まれた。


 でも今日、

 そのズレが、

 初めて自分の中に入ってきた気がした。


 少しだけ。

 本当に、少しだけ。


 でも、確かに。


     *


 翌日は、目覚ましが鳴ってから起きた。


 カーテン越しの光は、昨日よりはっきりしている。

 朝だ、と分かる明るさだった。


 台所から、音がする。

 包丁がまな板に当たる、乾いた音。

 父だ。


 顔を洗ってから、台所に行くと、

 父はもう昼の支度をしていた。


「今日は、昼、食べてくのか」


「うん。時間あるから」


 それだけのやり取りだった。

 特別な会話はない。


 食卓に並んだのは、簡単なものだった。

 焼いた魚と、味噌汁と、漬物。


 父と向かい合って食べる。

 テレビはついているが、音は小さい。


 父は、よく噛んで食べる。

 昔より、食べる速度がゆっくりになった。


 オレはそれを、ただ見ていた。


 こうして昼を一緒に食べてから出勤するのが、

 ここ最近の流れだった。


 朝はすれ違って、

 昼で一度、顔を合わせる。


 ちょうどいい距離だと、思っている。

 少なくとも、今は。


     *


 午後、ホテルに着く。


 ロビーの空気は、昨日と変わらない。

 静かで、少しだけ潮の匂いが混じっている。


 スーツを整えて、フロントに立つ。


 身体は、ちゃんと動く。

 頭も、回っている。


 昨日の違和感は、

 もう意識していなかった。


     *


 声をかけてきたのは、

 一人で来ている女性客だった。


 年齢は五十代くらい。

 背筋が伸びていて、荷物も少ない。


「すみません」


「はい。いかがなさいましたか」


 自然に声が出る。

 いつもの調子だ。


「ここ、静かですね」


 それは、感想のようでもあり、

 確かめるようでもあった。


「ええ。

 平日は、特に落ち着いています」


 女性は、ロビーを一度見回した。


「音が、少ないですね」


 確かにそうだ。

 このホテルは、音が少ない。


 人の声も、

 物音も、

 どこか抑えられている。


「そうかもしれません」


 オレがそう言うと、

 女性は小さくうなずいた。


「……ここに来ると、

 考え事が止まる気がします」


 一瞬、言葉に詰まった。


 どう返せばいいのか、

 分からなかったわけじゃない。


 でも、

 仕事としての答えが、

 すぐに浮かばなかった。


「ゆっくりしていただけたら」


 そう答えるのが、精一杯だった。


 女性はそれで十分だというように、

 微笑んだ。


「あなた、感じがいいですね。

 押しつけがましくない」


 褒め言葉だと分かっていた。

 でも、どう受け取ればいいのか、

 やっぱり分からなかった。


 女性は会釈をして、

 そのままエレベーターに向かった。


 オレは、しばらくフロントに立ったまま、

 何もしていなかった。


 胸の奥に、

 小さな余韻だけが残っていた。


     *


 夕方前、

 フロントの裏で、同僚が困った顔をしていた。


「この予約、ちょっと見てもらえる?」


 声をかけられる前に、

 状況が分かった。


 端末を覗き込む。

 予約の内容と、部屋割り。


 少しだけ整理すれば、

 問題はない。


「この部屋を、こっちに回せば大丈夫」


 オレがそう言うと、

 同僚は画面を見て、

 すぐに理解した。


「ああ、なるほど」


 操作は同僚がやる。

 オレは横で見ているだけだ。


 確認が終わると、

 同僚は椅子にもたれかかった。


「ほんと、こういうの早いよね」


 軽い調子だった。

 感心というより、

 当たり前のような言い方。


「慣れてるだけ」


 そう返すと、

 同僚は笑った。


「助かった。

 オレだったら、もう一回全部確認してた」


 その言葉を聞いたとき、

 肩のあたりが、少し緩んだ。


 気づかないうちに、

 力が入っていたらしい。


 オレは、

 こういう場面では、

 昔から同じ役割だった。


 前に出るわけでもなく、

 引っ張るわけでもなく、

 でも、自然と頼られる。


 それを、

 久しぶりに実感した気がした。


     *


 夜、業務を終える。


 昨日と同じように、

 ホテルを出る。


 外は暗く、

 風が少しだけ冷たい。


 家に帰ると、

 父はもう寝ている。


 昼に一緒に食べた食卓は片づけられていた。

 いつものように買ってきた夜食も置かれている。


 それを見て、

 胸の奥が、少し落ち着いた。


 今日も、

 大きな出来事はなかった。


 問題も起きていない。

 失敗もしていない。


 それでも、

 人の言葉や、

 人との距離が、

 昨日より少しだけ近く感じられた。


 戻れない、

 という感覚は、

 まだ残っている。


 でも、

 無理に戻る必要はないのかもしれない。


 そんな考えが、

 自然に浮かんだ。


 少しだけ。

 本当に、少しだけ。

第4話は、

何かが大きく変わったわけではないけれど、

これまで当たり前だった距離やリズムが、少しだけずれ始めた一日の話でした。


父との暮らし。

仕事での立ち位置。

人との会話の間。


どれも壊れてはいません。

むしろ、うまく回っています。

それでも、ほんの一拍だけ遅れる瞬間が増えてきた。


今回は、その「遅れ」を無理に戻そうとせず、

ちゃんと感じ取った主人公の回です。


まだ答えは出ていません。

でも、同じやり方を続けられないことだけは、

少しずつ自覚し始めています。

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