6 眩い光の中で
日光が瞼の向こうから薄く差し込んでくる。エリオとの共同生活は、3日目に突入した。
光の強さから言って、もうとっくに朝だった。が、せっかくだからもう少し寝ていたい。今日は、仕事が休みだった。
しかし、シューゼは、朝ご飯を作るために起きなくてはならない。もう1人で暮らしているわけではなかったから。
まだ寝ぼけ眼のまま廊下に出て、台所へと向かう。トス、トス、と鼓動よりも遅いテンポで足を出す。そうして、ゆっくりと台所の前にたどり着いたところで、シューゼは目を瞑ったまま、今日は何にしようかと頭を傾けた。
「――――今日もおいしそう」
それから30分後、階段を下りてきたエリオが目を大きく見開いて言った。シューゼはその笑顔を見て、朝ご飯を作って良かったなと思った。と、同時に、現金なやつと自分を腐す。
食卓の上には、ボウルに入ったトマトとレタスのサラダ、イエロービーンズのスープ、それとリンゴと穀物のポリッジが並ぶ。
「今日は、粥?」
「昨日の市場では、偶然リンゴが安く手に入ったからね。合わせれば、たぶん穀物類もおいしく食べられるんじゃないかなって思ったんだ」
この町では、貧民に回ってくる穀物は基本的に硬いものばかりだった。そのため、貧民はそれをポリッジ、いわゆるお粥にして食べるしかなかった。
「食べてもいい?」
「もちろん」
「じゃあ、いただきます」
▼ ▼ ▼ ▼
「お待たせ。ごめん、待たせちゃって」
昨夜と同様に、帽子で髪と顔を隠したエリオが遅れてやって来る。家から、5分ほど離れたところでシューゼとエリオは合流した。
「誰にも見られなかった?」
「えっと……。たぶん。窓から出たし」
「時間ずらし、効果あるといいね」
これは、一緒に家を出ると近所の人に何かしらエリオを詮索されてしまうだろうからと、エリオが提案したことだった。
それから少し歩いたところで、街並みをキョロキョロと眺めながらエリオが尋ねた。それは、炭鉱尾に向かう道とも市場に向かう道とも違った。
「今日は、友達に会いに行くでいいんだよね」
「うん。でも、まっすぐ行くとすぐ終わっちゃうし、せっかくだからちょっと遠回りして行きたいなと思って。エリオは、こっち側に来たことあった?」
「ううん。……でも、なんか他の街並みとは違うというか、他よりも舗装されてる?」
「そう。この地区は『エツナラム』。唯一、公共機関がある街で労働手形の発行や住民登録、商店なんかの登録もここで行われるんだ」
「公共機関の街……」
「僕たちの住む貧民街が、南西の『スースラ』。これから向かう、僕の友達をはじめとして多くの職人が住んでいる南東の『ヤングル』。昨日行った、夕方から夜中にかけて動き始める歓楽街、北西の『ガブア』。そして、『エツナラム』」
「ガラクタを表す『スースラ』に、機械の意味を持つ『ヤングル』。それに、黄昏の別称『ガブア』に、昔話に出てくる神々の聖域の一つ『ザンザバル』。それぞれ、ちゃんと意味があるんだ」
エリオは、子供が自分の歳を数えるように指を1つ1つ折って確認する。そして、数え終わると、エリオは町の中心の白い巨塔を見つめた。
「……そして、その4つの地区の中心に、あたしたちの貴族街」
「そういうこと。貧民たちは決してその姿を拝むことのできない、壁で囲まれた陸の孤島のさらに孤島『貴族街』。その5つで、この町は構成されているんだ」
「どうして貴族街には名前がないの?」
「……それが、僕たち貧民からの最大の軽蔑だから。この貧民街にとって、“名前がない“ということは、“町から認められず、貧民にすらなれなかった者“という意味と同じなんだ」
「……そっか」
「エリオはさ、その人を表すものってなんだと思う?」
「その人を表すもの?」
「例えば、その人の衣食住だとか。その人の持つ人間関係っていう人もいるよね」
「ああ、そういうこと」
「僕はね、その人の好きな本や話だと思うんだ」
そう言うと、シューゼは少し暗くなってしまった雰囲気から一転、駆け出して大きな施設の前に行く。
「だからさ、エリオのことをもっと教えてよ。ここで」
「ここは……?」
「ここは、この町最大の公共施設『大図書館』。まあ、貴族たちが持つ所蔵庫ほど本はないかもしれないけど。それでも、ここで僕たちはいろんな本を目にすることができるんだ」
そう紹介したシューゼの後ろには、おでこに時計をつけた青い屋根の大きな建物が鎮座していた。
「文字は、禁止されてないんだ」
その入り口に目をやると、人足は大盛況というほどではなかったが途絶えることなく行き来していた。
エリオはその光景を見て、
「……こうして適度な娯楽と学びがあるから、この町の人は満足して上を見るのをやめるんだね」
と、ため息を吐くと、シューゼの後に続いて木造りの入り口を潜った。
大図書館の中は、3階建てで広々としていた。
綺麗に整頓され、背の低い人ように梯子も用意されている。机と椅子の数だって十分だ。
「すごい……!」
「良かった。そう言ってもらえて」
「……シューゼには、思い入れのある本みたいなのはあるの?」
「思い入れのある本か……」
すると、シューゼの頭には1つの温かな思い出が浮かんできた。
「そういえば昔、お母さんと一緒に世界樹の童話を読んでいた記憶がある。……んだけど。僕、お母さんのことはあまり覚えてなくて。その記憶も、本当に記憶なのか。それとも、夢や妄想の類なのか、分かってないんだ」
「その本は、見つけたの?」
しかし、シューゼは首を振って、
「それが、その読んでいた本のタイトルも思い出せないんだ。というか、断片的な装飾だけで……。だから、その本だって存在しないのかも」
少し寂しそうに、そう答えた。
「でも、好きな本なら他にもいっぱいあるし。それに奥には……」
「――――だったら、探そう」
「え?」
「それが妄想じゃなくってこの図書館にあったなら、君とお母さんの思い出だって嘘じゃないってことに、少しはなるでしょ? それって、きっと大切なことだよ」
「でも……」
でも――――もしそれが無かったら?
「でも、もうどんな題名だったかも覚えていないし……」
躊躇する、シューゼ。しかし、そんな心情はいざ知らず、エリオは、
「一目見れば、思い出すよ。きっと、その夢は見るべくして見たんだ。だって、人生は必要な時に必要なものと出会うようにできてるから。あたしとシューゼが出会ったように、ね」
と言って、一切の悪意なく微笑んだ。
目を引くような大広間の、奥の奥に広がる埃っぽい空間に並べられた本棚の中から、思い出に眠っている本の表紙をいちいち取り出して確かめていく。
「これは?」
すると、エリオがシューゼに尋ねた。しかし、その表紙を見て、シューゼは首を振る。
「……違うか。でも、きっと子供の頃に読んでたから、童話かあるいは図鑑か絵本だと思うんだよね」
エリオは、夢の中の本を見つける気満々だった。一方で、シューゼは重い足取りで、その後をトボトボとついていく。
「そういえば、シューゼはどんな本が好きなの? その思い出の本以外で」
「……え?」
「好きな本や話が、その人を表すんでしょ?」
「僕は……」
そうして、シューゼは初めて本棚に目を向ける。
「僕は、これが好き」
シューゼはそれから、自分が気に入っている本を指さしていく。すると、エリオはそれをいちいち手に取り、内容を確かめた。
『英知の樹』、『危なっかしい魔法使い』――――この世界を描いた多種多様な本が目に飛び込んでくる。――――『滅竜伝記』、『悪魔と共に旅をして』――――しかし、そのどれもにも母の本の心当たりがなく、だんだんと不安になっていくシューゼ。
気づけば、いつしかエリオの足音が早る鼓動と重なって、シューゼは先を行くエリオの歩みを止めようかと手を伸ばしかける。
「――――ねえ」
と、その時、シューゼの手を止めたのは、
「今あげたの全部、外の本だね。やっぱり、シューゼも外に出たいの?」
という、エリオの呼びかけだった。
「あたしたち、考え方が似てるのかも」
「え?」
「さっき、その人を表すものは何かって聞いたでしょ? あたしは、その人の願望だと思う。どう希望を抱いて、どう生きるか。どう生きながらえるか。……で、本はその人の理想や願望を表す。ね? ちょっと違うけど、でもほとんど同じでしょ?」
「僕も外に……」
シューゼは俯いて、
「僕は……」
と、言い淀む。すると、エリオは立ち止まって、首を振った。
「別に答えなくてもいいよ。当たってるかどうかなんて。言葉にするのは、恥ずかしいかもしれないし勇気がいるかもしれないから。……だけど、無理に否定もしないでね」
エリオが見せたその微笑みは、シューゼの胸の内を知ってか知らずか。だけど、シューゼは自分ではなく、心の中にいる本当の自分に笑いかけられた気がした。
「自分の本当の願いは、自分しか知らないし肯定してあげられないんだし。それに、あたしたちってまだ望みとか情熱とか、そういうの捨てて生きられるほど器用じゃないと思うよ」
本棚のほうに向き直ると、エリオは本を再び指でなぞっていく。そして、
「あ、これは? 深緑色に、金の縁取り。えっと、『世界樹物語』? あ、短編集だ」
と、不意に1冊の本を手に取り、シューゼに見せた。
シューゼは、自然とそれをエリオから受け取る。それだけで、今まで眺めてきた本たちとは違った。
ペラッとページを捲る。その時、目に入った初めの一文が、頭の中に眠っていた母の声で読み上げられた。
(短編集……。そうだ。確か、あの時の僕は母の膝に寝ながら、窓の外を眺めていて……。それでいて、その時間をとても好きだったような気がする)
ページを捲るたび、色の無かった夢が色を思い出して、音のなかった世界に音が生き返る。
――――だって、人生は必要な時に必要なものと出会うようにできてるから。
緑色のカバーに金で彩られたタイトルと世界樹。
一見、長編の古典文学の書物のような見た目をしているが、開いてみればそれは様々な色彩によって、まるでそこで動植物が息をしているかのように描かれた秀逸な童話集であった。
「何か思い出せた?」
気づけば、目の前で心配そうにエリオが顔を覗き込んでいた。
「……夢の中で鳥が鳴いた。クワッて。それと、窓の外に青が広がっていた気がする。潮の匂いがして、オルゴールが鳴ってて……」
すると、シューゼの手元で開かれた絵本を、隣に並んでエリオが眺める。
「それは、本を読んだだけじゃ知り得ないことだよ。――――君が、この世界の外にいたってことなんじゃないかな」
「……え?」
「ねえ、シューゼ。君も来なよ。もし、外に出られることになったらさ」
妙に質感を持った声でエリオが言う。しかし、シューゼが顔を上げると、次の瞬間には、
「……鮮やかな絵。ね、次のページは?」
と、絵本の話題に戻ってしまった。
▼ ▼ ▼ ▼
「絵本、借りられなくて残念だったね。あと話の中の空想の町は出てきても、旅行記とか地図とか手記とか、そういう現実的な外の話は1個もなかったし」
大図書館を出ると、エリオが言った。
「この町の図書館ってのは、そんなもんだよ。本たちは、鎖で繋がれていて盗めない。それぐらい、文字は人間にとって価値あるものだからね」
そう語りながら、シューゼはやや浮かない顔を見せる。それは、あの童話集を観てからだった。
「さて、次はどこに連れて行ってくれる?」
すると、空気を切り替えるようにエリオが期待を目いっぱいにあふれさせて聞いた。
「少し歩きながら考えようか」
「あ! だったら、あれが気になる!」
エリオがそう言って指を刺した先には、『遊技場』があった。
遊技場。
若者から老人まで、多くの世代が楽しめるような娯楽が詰められた貴族運営の公共施設で、扉を1枚挟んでいても喧しいのが伝わってきた。
「そこはおすすめできない、かも……」
「どうして?」
すると、少しだけその重苦しい扉を開けてエリオに中を覗かせる、シューゼ。
「まるで、この町の喧騒と娯楽と欲と堕落がかき集められたような場所……」
中を見て早々、エリオが呟いた。
「この町の大半の人は、虜になったようにここに通ってる。そして、その分、警備も厳しいんだ。ほら、あそこ」
そうシューゼが指差す先には、軽装ではあるが傍らに剣を携えた壮健な体つきの貴族騎士がいた。
「ここには、貴族騎士がいるんだ。だから、入らないほうがいい。ただでさえ子供は目立つし……」
「確かに。……となれば、さっさと離れて」
が、その時だった。
「――――おい、お前」
シューゼは、不意に背後から声をかけられた。くぐもった低い大人の男の声だった。
(――――貴族騎士だ)
シューゼは直感した。
エリオがリリエ・エンドであると分かる行動はなかったはず。となると、おおかた遊技場を覗いている子どもに注意しようとしたのだろう。あるいは、自分より弱いものを目的とした憂さ晴らしか。
「あ、いや、すぐに退きますから! ごめんなさい!」
「そうじゃねえ」
しかし、立ち退こうとするシューゼの肩を、ゴツゴツとした手が掴んで止めた。
シューゼは、エリオに目をやる。と、エリオは深々と帽子を被って顔を伏せていた。
シューゼは「先に逃げて」と、手を振るジェスチャーをする。と、それに頷いてエリオがその場から離れようとした。――――が、
「待てよ、そこの坊主もだ」
と、それすらも止められてしまった。
どうやってエリオを逃がそうか、シューゼの頭はそれでいっぱいだった。
(こうなりゃ仕方ない……! 僕が……)
そう決心して、シューゼはグッと手に力を込める。と、自分を呼び止める男の顎に向かって飛び上がった。――――その瞬間だった。
「お前、シューゼだろ」
「――――え?」
貴族騎士が、貧民の名前を覚えることなどありえない。よっぽどの悪さをしていれば別だろうが、シューゼに限ってはそんなことはない。
疑問が、シューゼの顔を上げさせる。
しかし、シューゼがその答えに出会うより前に、シューゼのおでこと男の顎が綺麗に激突した。
「――――ダハッ!」
と、のけ反る男の声と、
「なひっ――――」
と、情けないシューゼの声。2つの声が重なって、レンガ造りの道に倒れ込む。そして、シューゼが男の胸の上でその答えを叫んだ。
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