通過
「え……嘘だろ、これ、動いて……」
がたっと音を立てて同僚がたじろいだ。その場の全員がモニターから目を離せない。
「魚影……?」
誰かがぽつりとつぶやいた。その瞬間、俺の脳はその影を魚影としか認識しなくなった。だが、揺らぐ理性がそれを拒否する。画面に映る影の大きさは、俺が知るどんな生物よりはるかに巨大だったから。
「この影が生物だとしたら、体長1kmを超える……だからそんなはず……」
弱弱しくなる俺の言葉の後には誰も続かなかった。艇内にはエンジンと水の揺らぐ低い音と、周期的なソナーの機械音しか聞こえない。
影はものすごい速度で近づいてくる。
近づいてくる。
「近いぞ……誰か、ライトを」
真っ青な顔をした上司が指示を出すと、同僚がもたついた手でパネルを操作した。その影がいるであろう方向に強力なライトが光った。
俺の頭の中では様々な憶測が広がっていた。ただ少なくとも潜水艇に向かっているわけではなく、近くを通過して俺たちが入ってきた亀裂を目指しているのではないかと濁った頭で考えていた。
「ろ、録画、開始しました」
部下が言う。少しずつ落ち着きを取り戻してきた艇内で影の正体をその目で見たい俺も含めた全員は詰め寄るようにライトが照らす方向を窓から覗き込んだ。
モニターを振り返ると、影は距離にして2km程のところまで接近していた。進行方向からして潜水艇に最も近づいている。ライトが方向を微調整する。
「見えた!」
上司が叫び、艇内がざわつく。みんな理解できない感情を垂れ流している。
完全な暗闇に忽然と浮かび上がったそれは、まさに白いザトウクジラだった。そう、シルエットだけは。
でこぼことした体表は日光に当たらないせいかアルビノの鯨のように真っ白に染まり、強力なライトの光を反射して弱く輝いている。
その巨大な尾ひれでゆっくり水をかき、しかしながらその大きさゆえにとんでもない速度で泳いでいる。
人間の想像をはるかに凌駕するその巨体はそれを見る者に根源的な恐怖を植え付けていった。
大きすぎて、距離感がつかめない。2000m先にいるはずなのにすぐ近くを泳いでいるように感じる。やはり体長は1km以上ありそうだった。
「白鯨……」
無意識に口から出たその言葉は騒がしい艇内の喧騒に溶けて消えていった。
窓から顔を離したその時、遠くから轟音が響いた。
おそらくそれは、鯨が向かっていたであろう亀裂の方から。
その音に全員の意識が持っていかれる中、1人だけモニターを見ていた部下が、畏怖したような無機質な震え声で静かに言った。
「前方に同じような魚影、いや、魚群が……10頭以上、こっちに移動中です」
そういってゆっくり振り返った彼女の顔は恐怖で引きつり青くなっていた。同じく青い顔のままの上司が口を開いた。
「全速力で帰還する。方向転換だ」
エンジンが大きな音を立てた。