2 赤い血が落ちると
メイドが持ってきてくれたレモンケーキは、いつもよりも酸っぱく感じた。
お兄様と一緒に食べたら、とても甘く感じるのに。一人で飲む紅茶も、なんだか苦い……。
薔薇の形の角砂糖をポトンポトンと紅茶に落として、スプーンでぐるぐるかき混ぜる。
「ううっ、甘すぎ……」
無理やりのどに流し込む。その後で口に詰め込んだレモンケーキはもっと酸っぱくて、涙がにじんだ。
ギルお兄様の婚約者。
思ってた人と全然違った。お兄様よりも一つ年下で、私の二つ年上の伯爵令嬢。くねくねした濃い緑色の髪をしていた。きっと風の魔力が多いんだ。
優しい人だったらいいなって思ってた。
お兄様と結婚できる幸せな人。
色なしの私とも仲良くしてくれたらいいなって……。
ぜんぜん、違った。
私のことを嫌ってる。
もう、ここには来ない方がいいのかな。
お兄様とも、もう会えなくなるの?
一人ぼっちのティータイムを素早く終わらせて、糸を手に立ち上がる。早く全部染めてしまおう。
小道を歩いて、目についた薔薇に近寄って染め上げる。
ポシェットの中に、染まった糸を放り込む。
選びきれないほど美しい薔薇がたくさん咲いていて、思ったよりも時間がかかった。
あと残る白糸は二つだけ。
何色にしよう? まだまだ欲しい色はいっぱいある。
オレンジとピンクのまだらに色づく満開の花びら? それとも、黄緑から黄色へと変わる蕾?
薔薇選びに夢中になっていると、すぐ後ろで気配を感じた。振り向いた瞬間、顔に何かがぶつけられた。
「これ返すわ!」
地面にひらりと落ちたのは、私がギルお兄様にプレゼントしたハンカチだった。
「ギルベルト様に近づかないでよ! ギルベルト様は私の婚約者なのよ! こんなハンカチで、取り入ろうとするなんて。色なしのくせに!」
緑色の目を吊り上げて私をにらみつけるのは、ブリーゼさんだった。
「ギルベルト様は、私と結婚するのよ。ギルベルト様が愛していいのは、私だけ! 色なしのあなたには、同情してるだけよ。ギルベルト様にふさわしいのは、魔力のある私よ!」
うつむいて、土の上のハンカチを見つめた。私の精いっぱいの刺繍。まるでごみクズのように捨てられている。
「ああ、いやだわ! これ見よがしに、青いドレスを着たりして。これ以上、ギルベルト様に迷惑かけないでよ! 不吉な色なしの姿を見せないで! さっさと出て行って!」
黙りこんで下を向いている私に、ブリーゼさんはキンキンした大声をぶつけてきた。絶え間なく続くどなり声に、頭が痛くなる。私は何も返さずに、ただ黙ってうつむいていた。
そして、しばらくたった後、もうこれ以上ひどい言葉が思いつかなかったのか、青いドレスをひるがえして去って行った。……ギルお兄様の髪の色と同じ青いドレスだ。
涙があふれてくる。そっと目をこすった。そして、ぬれた手で自分の着ている青いドレスの裾をつまんだ。
ブリーゼさんと全く同じ色のこのドレスは、今日のためにお兄様が私にプレゼントしてくれたものだ。お金がない私は、お兄様に甘えて、この青いドレスを喜んで着てしまった。
分かってる。着るべきじゃなかったのよね。
でも、お兄様はいつも、私が青を身に着けると喜んでくれるから……。本当の妹みたいだって言って……。
ドレスの裾が地面に付かないように持ち上げて、しゃがんでハンカチを拾う。
魔法が使えたことに浮かれていた。そんなもの、何にもならないのに……。このハンカチみたいに、必要とされずに捨てられるだけ。
私は無価値の色なしで、取るに足らない存在……。ただ、同情からくる優しさにすがって、お情けで生きているだけ……。お兄様は、私がかわいそうだから優しくしてくれるの?
早く家に帰って、一人で思い切り泣きたかった。
でも、帰りの馬車の時間までは、まだたくさん時間がある。
誰にも見られない場所を探して、とぼとぼと歩いた。
背丈を超える高さの薔薇が植えられた迷路は、お母様が子供の頃に作らせたそうだ。広くて複雑な迷路には、客人は立ち入れないようにしてある。
ここでなら、一人で思いっきり泣ける。そう考えて、迷路を奥まで進んだけれど、先客がいたようだ。
「ああ。ったく、出口はどこだよ」
ぼやき声とともに、ガサゴソと茂みをかき分ける音が聞こえて来た。無理やり迷路を突破しようとしているみたいだ。
こじ開けられた薔薇の垣根から、顔をかばうように腕を上げた人が出て来た。
黒い袖を肘までまくった腕からは、茨に刺されたのか、一筋の血が伝い、真っ赤なしずくが地面に落ちそうになっている。
──土に血を吸わせてはなりません
すばやく彼に駆け寄って、手に持ったままのハンカチを腕に押し当てたのは、乳母の教えが心に刻まれていたから。
地面に落ちる前に、赤い血はハンカチに吸い取られた。ほっとしながら見上げると、濃い金色が目の前にあった。
見開かれた金色の目が私を見つめている。
精悍な顔立ちの中で光る真昼の太陽のような金色の目。長いまつげまで金色だ。そして、陽光に輝く短い黄金の髪。
王族だ。
とっさに地面にひざまずいた。
「申し訳ありません!」
なんて失礼なことをしてしまったんだろう。
いきなり、腕に触れるなんて。
──土に血を吸われると、魔物に生気を奪われます
乳母の迷信を真に受けて、とっさに動いてしまうなんて。
「顔をあげて、立ってくれ」
王族の男性は、私に手を伸ばした。
「驚かせてごめん。勝手に入り込んだ俺が悪いんだ。ハンカチを血で汚させてしまったね」
畏れ多くて震える私の肩に手を置き、男性は私を立ち上がらせた。
「申し訳ございません」
もう一度謝ってから、顔をあげる。
ギルお兄様と同じぐらいの背丈。同じぐらいの年齢の男の人。
輝く金髪を短く切りそろえたこの方は、きっと第二王子のリュカ様だ。
お兄様から話を聞いたことがある。学園のクラスメイトで、一緒に生徒会に入った第二王子を誕生会に招待したのだろう。
「あの、お怪我は……?」
公爵家で改良された薔薇の棘は鋭い。王族に怪我をさせたのなら、そのままにしておくことは公爵家の不名誉になる。
「ああ、たいしたことない……ん? あれ?」
左腕をさすったリュカ様は、首をかしげた。
「傷がない?」
「見て」というように、私の目の前に筋肉質な腕が示された。拭われた血は乾き、もう出血していない。傷口はどこにも見当たらない。
「そのハンカチは、ポーションがかかっていたりする?」
冗談めかして、王子はそう言った。薬屋で売っているポーションは、傷を治すことができるけど、高級品だ。もちろん私が刺繍しただけのハンカチに、そんな力があるわけはない。
手の中の折りたたまれたハンカチを見つめた。
真っ白なハンカチは、中心部以外は赤い血に染まっていた。
でも、治癒草の形に刺繍した盛り上がった部分は白いままだ。魔物蟹の白糸は何物にも染まらないから。
……! え? 白?!
「そのハンカチって、緑色の刺繍がしてなかった?」
困惑する私に、リュカ様が問いかけた。
緑色の糸で刺繍をしてあったのに、白糸の刺繍になっている。色が抜けた?
どうして……?
訳が分からず、答えられないでいると、リュカ様は面白いものを見つけたかのようににっこりと笑った。
「話を聞かせてくれるよね」
そして、私は迷路の出口までリュカ様を案内する間、秘密にしようとした染色魔法のことを白状する羽目になった。
「つまり、生きている物からしか、色をもらえないってことだね」
リュカ様は、私から取り上げたポシェットに手を突っ込んで、糸束を取り出しながら聞いた。
「ハンカチの刺繍の緑色は、家に生えている治癒草からもらったんです。でも、なぜか消えてしまったみたいで……」
「治癒草が家に生えてるの? あれって栽培が難しいよね」
「えっと、うちの庭には勝手に生えていて」
治癒草はポーションの材料になる魔草だ。そのままでは何の力もないけれど、魔力を込めて錬成すると、簡単な傷ぐらいは治せる初級ポーションになる。
私はもちろんポーションなんて作れない。だから、治癒草をそのまま売って、少額の生活費を稼いでいる。
「ふーん、じゃあ、治癒草の色だけじゃなくて、魔力ももらって治療したのかな」
そうなの?
もしも、色だけじゃなくて魔力ももらうことができるのなら。
私は、無価値なんかじゃないの?
「この薔薇からとった色も、何か他の力があったりする?」
リュカ様はポーチから黄色の糸を取り出して、匂いをかいだ。
「薔薇の色だけじゃなくて、香りもうつってるとか?」
「!」
突然、顔の前に糸を出された。
驚いて息をのむと、薔薇の強い香りがした。
でも、それはあたりに咲き誇る薔薇の香りのせいで、糸が香っているのではなかった。そう伝えると、王子は首を傾げて、別の糸を取り出した。
「匂いはうつせないのか。……、じゃあさ、この青い糸は、何から色をとったの?」
!
リュカ様が手にしたのは、お兄様の髪色と同じ青い糸だ。
見られたくない物を見られてしまった。
恥ずかしくなって目を反らす。
「これも薔薇の色? でも、おかしいな。さすがの公爵家でも青い薔薇はまだ開発できてないよね。ちょうど君のドレスの色と全く同じだけど、生きていない物からは色をもらえないんだっけ」
リュカ様は意地悪そうな声で私を追い詰める。
「ね、ギルには秘密にしてあげるからさ、やって見せてよ」
黙ったままの私の手に、真っ白な糸が渡される。まだ染めてない魔物蟹の糸だ。
「……何色にしますか?」
リュカ様は、にっこりと金色の笑顔を見せた。
「じゃあ、俺の色で」
「え?」
距離を詰められて、すぐ近くにリュカ様の黄金の目がきらめく。
「金色の糸を作って」
目の前の黄金の輝きで、頭がいっぱいになる。手の中の糸が、ぱっと熱を持つのを感じた。
「本当だ……」
私の手を取って、糸をじっくり見たリュカ様は、ため息のようにつぶやいた。キラキラと輝く金色の糸。リュカ様の瞳の色そのものだ。
「すごいな。こんな魔法、見たことがない」
そして、にっこり笑ったリュカ様は、私に無理な命令を下した。
「王宮に来て妹に会ってほしい」
と。