14 金の糸
「しょっぱい」
私の頬をなめたリュカ様は、そう言って顔を放した。
「!……」
びっくりした。
リュカ様の黄金の瞳が怪しく光って、私を見る。
「な、な」
なにするんですか!
そう言って怒りたかったのに、口は開かないし、体に力も入らない。心臓だけが、まわりに音が聞こえそうなぐらい、ドキドキと鼓動を打っている。
しばらくの間、私達は無言で見つめ合ったけれど、ふいにリュカ様が笑い出した。
「ふっ、ははは。人の涙なんて初めて舐めたけど、別においしいものじゃないね」
「え?」
「ごめんって。ちょっとふざけただけだよ。あんまりきれいに泣いてるから」
「ふざけ……って」
「うん、さあ、糸もできたし。これはどうやって乾かすの?」
バシャッと大きな音をたてて、リュカ様はバケツの水を捨てた。そして、底に張り付いた糸の塊を持ち上げた。
冷たいしずくが顔にとんだ。
「あ、それは、外に干します」
頬にかかった水を拭うと、熱もすっと引いていく。
この人は、こう言う人だ。
自由に遊びまわってる王子様。
世間での評判通りなんだから。
誤解してはだめ。そうよ。そんなことあるわけない。
私は色なしなのだから。
「え? じゃあ、今すぐ使えないの?」
「はい、乾いてからじゃないと、くっつくので。あの、糸ができたら王宮にお持ちします?」
「うーん。すぐに金色の糸が欲しいんだけどな」
「あ、それなら」
気まずい空気を振り払いたくて、私は、さっと立ち上がって、裁縫箱を取りに行く。
中には、金色の糸が残っている。
良かった。これだけは売らずに取っておいて。
「ああ、これこれ。もらっていい?」
「もちろんです。リュカ様の色なので、あ」
リュカ様の手が裁縫箱の中から、金色の糸束をつまんで取り出した。それと一緒に青い糸も。
青い糸を目で追った私を見て、リュカ様は何も言わずにそれを裁縫箱に戻してくれた。
「他の色の糸はどうしたの?」
「薔薇色の糸は、全部売りました」
薔薇の色に染めた魔物蟹の糸は、良い値段で売れた。売る前に、アンドリューさんがいくつかの実験をしたらしい。普通に縫うことができるのかとか、色落ちしないかとか。
私が刺繍をしたら、薔薇の香りがしたけれど、他の人の刺繍ではそんなことはなかった。色が変わることもなかった。
最高品質の珍しい刺繍糸として、高値で売れたそうだ。大人気なので、もっと持ってきてほしいって。
「そうか。俺も、アリアちゃんの刺繍したハンカチが欲しかったんだけどな」
「私の刺繍なんて。王宮にたくさんいるお針子さんには、かないませんから」
「そうかな? でも、アリアちゃんの刺繍は特別だから」
特別。そう言ってもらえると嬉しいけれど。
薔薇の匂いや治癒の効果のある刺繍は、確かに珍しいけれど、香水やポーションで置き換えられるのに。
「今度、俺にも作ってよ」
「はい。そんなものでよかったら。いつもいただいてばかりなので。あ、あの、髪飾りもありがとうございます。リュカ様のお金で買ったって」
「ああ、気にしないで。アリアちゃんは、金色を身につけるといいよ」
「はい。ルルーシア様の侍女だって分かってもらえるからですよね。助かります」
「うーん、まあ、そういう意味じゃないんだけどね」
リュカ様はふんわりと笑った。
その後、マーサが来て、リュカ様が持ってきてくれた食事を温めてくれて、二人で食べた。
ほとんどは、リュカ様のお腹に入ったけれど、私も少しずつ食べる量が増えてきた。
「狩りに行くから、残念だけど、しばらく来れない」
そう言って、リュカ様が帰った後、裁縫箱を片付けていると、髪が顔にかかった。耳にかけようとしたら、その感触がさっき干したばかりの魔物蟹の糸みたいだなって思った。
もしも、糸と同じように、私の髪も染めることができたなら……。
裁縫箱を開けて、青い糸を取り出す。
お兄様の青色。お母様と同じ公爵家の青。
水の魔力が私にもあるって分かったのだけど、
――もしも、私にこの青があったなら
髪に触りながら、心の中で願う。
「ふふ、ばかみたい」
私の髪は銀色のまま。染まることはない。
貴族の髪色は生まれた時から変わらない。染めることなんてできない。私は一生無色のままだ。
でも……。
それでも、水の魔力があるって言ってくれた。
それがほんの少しでも。
両親と同じ魔力を持っていることが、うれしくてたまらなかった。
教えてくれたリュカ様に感謝した。
リュカ様って、とてもいい人なのかも。
ちょっと強引で、自分勝手なところはあるけれど。
いつもおいしいお菓子を持ってきてくれるし、勉強も教えてくれる。
魔物蟹の巣も、取り除いてくれたし。
それに……。
リュカ様の唇が触れた頬に手を当てる。
……ううん、やっぱり、勝手な人よ。
お兄様とは全然違うんだから……。
侍女教育を受けて、家に帰って宿題をする。それから、マーサと一緒に食事をする。ギルお兄様からは手紙が届くけど、会うことはない。
そんな毎日を過ごしていると、玄関でノックの音がした。
もしかしてリュカ様?
そう思って、ドアを開けたら、
「アリア! どういうことだ! 王女の侍女になるなんて!」
ギルお兄様が立っていた。
久しぶりに会ったお兄様は、とても険しい顔をしていた。
「お兄様?」
今まで、そんな風にどなられたことはない。
びっくりした私は、立ちすくんでしまう。
「侍女として学園に行くなんて。そんなこと、絶対だめだ! アリアは色なしで病弱なんだから、家で静養していないといけないんだ!」
いつもは柔らかく微笑みを浮かべるお兄様が、青い目を険しく光らせて近寄ってくる。
こわい。
大好きなお兄様なのに、なぜかそう思ってしまった。
それに、お兄様の言葉を受け入れることができなかった。
「わたし、色なしだけど、病弱じゃない。だから、学園に行っても大丈夫だし、侍女教育でもほめてもらってるの」
病弱で家にこもってないといけないなんて、そんなことなかった。乳母にそう言われて育ったけど、外に出ても大丈夫だった。髪色を隠す必要はあったけど、買い物にも行けたし、この前は、生まれて初めてお店で食事した。楽しかった。
そう続けたかったけど、唇を指で押さえられる。お兄様の冷たい指先が私の言葉を止めてしまう。
「だめだよ。アリアはそんなことしてはいけないよ。学園はとても危険な場所だ。行く必要なんてない。アリアは今のままでいいんだ。頼むから、僕を不安にさせないでくれ。アリアに何かあったら、生きていけない」
お兄様はいつものように私をぎゅうっと抱き寄せて、髪にキスを落とした。
「王女に無理強いさせられたんだね。かわいそうに。きっとあの方は自分の研究に、色なしのアリアを使おうと思っているんだ。僕が何とかしてあげるから。父に言って、陛下に嘆願してもらおう」
そんなの、だめ。公爵様に迷惑はかけられない。それに、私は、侍女として王宮に行くことが嫌じゃなくなってる。少し、期待しているから。色なしの私にも、できることがあるかもしれないって。
でも、お兄様の青い瞳を見上げると、口が開けなくなる。
言わなきゃいけないのに。こうして、お兄様に迷惑をかけ続けることなんて、ダメなのに。
私は、お兄様に守ってもらわなくても、大丈夫。
ちゃんと言わないといけない。
言いたいの。
「お兄様、あのね。ブリーゼさんのこと……」
私のためにブリーゼさんと結婚しないで。
そう言いたかった。ずっと。
「ブリーゼ嬢? ああ、気にすることはない。今日も、まとわりついて来たけれど、振り払って来た。もしかして、彼女に何かされたのか?」
「それは……、そういうのじゃなくてね」
やっぱり、お兄様はブリーゼさんのことを好きじゃないんだ。迷惑に思ってるの? だったら、結婚なんてしないで。
「お兄様には好きな人と結婚してほしいの。だから、私のための婚約なんて、やめて」
ああ、やっと言えた。心の奥底では、お兄様には誰とも結婚してほしくないって思ってた。だから、好きな人と結婚して、なんて言葉は、今までは言いたくなかった。でも、今なら、お兄様に伝えられる。私よりも大切な人ができてたとしても、それでお兄様が幸せになるのなら。きっと、祝福できる。少しだけ、自分に自信がついた今なら。
私はお兄様の腕の中から逃れて、口角をあげて微笑みを作った。
「お兄様には、愛する人と幸せな結婚をしてほしいの」
「アリア。何を言ってるの?」
でも、お兄様は、心底訳が分からないと言う顔をしていた。
「貴族の結婚とは、後継者を作るための手段だよ。青の公爵家の次代を生むことが、僕の義務だ。結婚は好きな相手とするものではないよ」
そして、面白い話をしたとでもいうように、小さく笑った。
「アリアは純粋でかわいいね。たしかにブリーゼ嬢はいろいろ厄介なところがある令嬢だ。結婚して、子供が生まれれば、別宅に閉じ込めて、外に出さないようにしよう。そのための契約結婚だ」
そんな。
優しいお兄様の口から出てくるなんて、到底信じられない言葉だった。
貴族の義務? 確かに、三大公爵家は後継者を必要としている。広大な領地の結界に魔力を補充できるような跡継ぎは、絶対に必要だ。
でも、そんな……。子供を生ませて閉じ込めるなんて。
そんなひどいことをお兄様が考えているなんて。
「お兄様。ダメです。そんなの。お兄様には幸せになってほしいの」
「幸せ? アリアがこうして僕の側にいることが、一番の幸せだよ」
首を振る私を閉じ込めるかのように、きつく抱きしめて、お兄様は優しくささやいた。
「大切なアリアが、元気に生きてくれることが、心の底からうれしいんだよ。だから、危険なことはしないでほしい。王族の横暴は僕が何とかするからね。病弱で外に出れないって分かってもらえれば、命令も取り消されるだろう」
違う。私は病弱じゃない。
それに、私は……。
お兄様の腕は私の背中にしっかりと回されて、びくともしなかった。
大好きなお兄様。私のことを一番に考えてくれる優しいお兄様。
でも、それなのに……。
なぜ、この腕の中から逃げたいと思ってしまうのだろう。