どうも、前世で運命に負けた者です
こちらの短編をベースに連載を開始しました▼
【ごきげんよう、前世で運命の恋に負けた公爵令嬢です】
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――あなたは前の世界を覚えてる?
「大変でございます! お、お嬢様が頭を打って正気を失ってしまわれました!!!」
家中の物がひっくり返るような大声でそう叫ばれてしまえば、いくら幼い身といえど“あ、言っちゃダメだったんだ”と気づくわけで。
「ベルが頭を打っただと!? 医者だ! 早く医者を呼べ!!」
「まぁ…! 私のベルに何て仕打ちをなさるのです神様…!」
半狂乱になる両親の姿を見て、二度とその言葉を口にしないと誓った十歳の秋。
「君は前世を覚えてるの?」
事もなげにそんな問いかけをしてくる若人(十歳)が数日後に現れるなんてちょっとどうかと思うんですよ、運命の神様。
◆
金色に輝くやわらかな髪、透き通るようなアクアブルーの瞳。佇まいだけで気品が溢れ、その仕草は芸術である。まさに神様が理想を詰め込んで作りたもうた渾身の人間なのです――と、彼を形容するならそんなところだろうか。
「ねぇ、ベル。君は前世でどんな人間だったの?」
――口を開かなければ、の話だが。
「あなた、そんなこと言ってると頭の心配されるわよ……」
「うん知ってるよ。うちの爺やはそれで倒れたし」
(いや何でそんなに堂々と…)
急いで周りを見回してメイドや執事がいないことを改めて確認し、ホッと胸を撫でおろした。我が家では“前世”のワードは数日前にタブーになったばかりなのだ。
だというのにずけずけと話題に上げてくるこの図太い少年が何故我が家に出入りできるのか。答えは簡単、彼が私の“元”婚約者であり顔馴染みだからだ。
――……いや、普通は婚約破棄したら出入り厳禁になると思うのだが、ウチの両親はそりゃあもう彼の容姿とその他諸々に虜中の虜で。
たまに実の娘の私より待遇が良いときがあるのだから、もういつの世も大事なのは顔なのねと早々に悟ったのである。
「ベル。聞いてる?」
「ええ、聞きたくないけど聞いてるわよ。私の前世でしょ?」
「そう。悪の魔法使い? 花の妖精を食べる闇エルフ? それともどこかの国のお姫様を攫う悪魔とかかな」
「ねえ、ヴィード。チョイスに悪意がありすぎるのだけど?」
ほけほけと彼は笑って「そうかな?」と恍ける。いつもこうなのだ。何かにつけて私を馬鹿にしてくるのがもはや通常運転すぎて、久しぶりにツッコんだ気がする。
「だって君いつも女の子泣かせてるじゃん。目だってこんなに吊り上げてさ」
そう言って私の顔の真似なのか、ヴィードは指で目を吊り上げて歯をイーッと剝きだした。そこら辺のご令嬢を泣かせてしまうほど己の顔つきがキツいのは自覚済みなので今更そんなことでは怒らない。
ただ、彼が私の真似をしたところで多分大人達はそれを見て“かわいい!”と口を揃えて言うのだろうから顔が良い者は本当にお得だなと思っただけである。
「私の前世は普通の侯爵令嬢だったわ。……今と同じね」
ベルアンナ・フィアトラール――奇しくも前世と同じ名前と顔を授かり、生まれた場所も地位も全く同じの今の私。一瞬、大人になった私は長い夢だったのかしらとも思ったけれど、両親が二人とも違うことに気づいてから少しずつその“ズレ”を認識してきたのだ。
“前の世界の自分”。皆そういうものがあると思っていたのである。そうしてつい先日、うっかりメイドのリリアに例の質問を投げてみれば――こんなに大騒ぎされるなんて思ってもみなかった。
――だって、この家の皆は私に興味なんてなかったはずなのに。
「じゃあどこかの貴族のお嫁さんになって最期は三人の子供と孫に見守られながら天に昇ったの?」
「何そのやけに具体的な例……」
「お母さまが読むご本にそんな感じのお話があったんだ」
もともと大人びてマセた発言が多いなとは思っていたが、そういう理由かと納得しつつ、改めてヴィードに視線を移せばバッチリと目が合い天使の微笑みをもらってしまった。
さすが世の中の女性という女性をオトしてきた顔。本当に綺麗で国の宝石と謳われるのも過言ではない。やっぱり世界で一番――――嫌いな顔だわ。
「――ベル。もしかしてまた不機嫌になったのかな」
「――いいえ。残念だけど不機嫌そうな顔は生まれつきなの」
紅茶を一口飲んでニコリと笑顔を浮かべてみる。……多分、目の前のヴィードの表情から察するに私は上手く笑えてないのだろうなぁと思った。
ヴィードリッヒ・アストラリア・グレイシード。忘れもしない前世の私の婚約者だった男。――私を捨ててアストラリア王国の王となった男。
両親も違う、周りのメイドも執事も皆違う――だから安心していたのに。
八歳の時に持ち上がった婚約話で、知らぬ間に顔合わせをセッティングされたうえ何の予告もなくこの顔を見た時の心情を察してほしい。未だに今世の中で最悪ランキング堂々の1位だ。あの時自制してこの男を殴り飛ばさなかった自分をものすごく褒めたい。
そうして穏便にそして確実に、後腐れなく婚約破棄まで持っていけるよう徹底的に素行の悪い娘になりきってようやく願いが叶ったというのに。
二年ぶりにまともな生活ができるわと喜んでいたところで、婚約を破棄した翌週に会いに来るこの男の神経は昔と違い随分と図太いものであった。
「ベルの百面相は本当に面白いね。で、どうなの?」
「何が?」
「だから、君の前世の最期。愛する人と添い遂げられたのかって話」
「――子供たちに囲まれてはいたけど夫はいなかったわ。終生は修道院で暮らしていたしそもそも出会いなんてなかったもの」
「……へぇ、それはそれは」
何とも夢のない終わりだね――とでも言いたいのか。少しだけ口角が上がったその顔にこの紅茶を投げつけられたらどれだけスッキリするだろうか。いやまあそんな無謀なことはできないけど。
「君、それなのに僕との婚約話を破談にしちゃって良かったの? 噂に尾ひれはつきものなんだからお嫁の貰い手が無くなってしまうよ?」
「そうなったら勘当でもしてもらって平民の旦那様を探しにいく、わ……」
――ヴィードがにっこりと笑った。それはいつも通りの笑顔で、いや、いつも通りのはずなのに何だか圧力を感じる笑顔で。
「――そうやって、またいなくなるんだね」
「――……殿下…?」
「君にそう呼ばれるのは嫌いだって言ったろう? ベルアンナ」
――よく知った顔が脳内にチラつく。ありえない。だってそんな素振りは今まで一度も見せなかったじゃない。
あまりの動揺に無意識に立ち上がり後ずさりしかけて――突然腕を引っ張られてしまえば後はもうヴィードの腕の中に倒れ込むしかできなかった。
ヴィードに背を向ける形で膝の間に挟まれ、肩に顎が乗せられる。掴まれた両腕を振りほどこうにも変な体勢のせいで上手く力が入らない。
「君に嫌われてるだろうなぁとは思ったけど。まさかこんなに用意周到に婚約破棄にまで持っていかれるとは思ってなかったよ――よくもまあ僕がいない間に上手く進めてくれたもんだね」
「ヴィード…リッヒ様、お久しぶりでございますね」
「うん久しぶり。やっと挨拶ができて嬉しいよ可愛いベル。でも堅っ苦しいのは嫌いだからいつもみたいにヴィードって呼んでね」
猫なで声のように囁かれ後ろからギュッとお腹に手を回される。――おかしい。本当にあのヴィードリッヒなのだろうか。前の彼は品行方正で紳士的でとても穏やかな、虫さえ殺せないほど気弱な気質だったはずなのだが。
口が悪い彼は、彼ではないのだとある種の安堵感があったのに、今やそれらがガラガラと崩れていく。
「あーあー、ネタバラシはもう少し後のつもりだったんだよ。君が婚約破棄なんて実行しちゃって挙句の果てには平民に嫁ぐとか言い出すからつい我慢できなくなっちゃった」
「いや、えーっと……これはいったい…?」
「おや、まだ混乱してるのかいベルアンナ。今世の君の頭の回転は良かったはずだけど」
――それは暗に前世の私は頭が弱かったということか。そこまで分かりやすく喧嘩を売られたのなら買わねば女が廃るというものだ。
前世で田舎町に身一つで放り出され、人生の荒波に揉まれに揉まれた私に怖いものなどもうない。
「お言葉を返すようだけどヴィード。貴方こそ前はもっと素敵な人ではなかったかしら? 例えば婦人にこんな乱暴は働かないし、もっと慈しむように見守る殿方だったと思うのだけど」
ふと拘束の力が弱まり恐る恐る後ろを振り返れば、またあの謎の威圧感のある笑みが返ってきた。
前言撤回。この顔のヴィードは普通に怖い。何かろくでもないことを言い出しそうな気しかしない。
「今世はお利口さんでいるのは早々にやめることにしたんだ。欲しいものが手の届くところにあって我慢するのも馬鹿げてるしね。
僕だって伊達に十数年も王様してたわけじゃないんだよベル。汚い大人は手段を選ばないんだ――今度はもう逃がさないから」
(――逃がさない…って)
何を言っているのだろうかこの男は。呆れて溜息が出そうだ。
「……そもそも貴方が先に婚約破棄をしたんでしょう」
聖なる光と共に舞い降りた神秘的な彼女と結婚するために。……本物の“運命の相手”のために。
……悔しくて、認めたくなくて、その言葉は口に出せなかったけれど、ヴィードには充分伝わったのか彼はまた私の肩口に顔をうずめた。
「うん、そうだね。先に裏切ったのは僕の方だ――君をたくさん傷つけてごめん」
「……ら、……っ」
「ベル…?」
「今さら、何で謝るんですか…ッ!!」
不意に怒りが爆発して、ありったけの力でヴィードの手を振り払う。それと同時に我慢していた涙がついに零れ落ちてしまった。
「君を泣かせたのはこれで二度目か……許されないことをしたのは分かってる。理由を言ったところで、償いをしたところで、きっと君の傷は消えないしもう無意味だということも」
「分かっていらっしゃるならどうかこのままお引き取りを――」
「ごめん、できない――今度こそ君と一緒にこの先を歩みたいんだ。……だからどうかもう一度信じて、僕の運命の女」
「……っ! “運命”なんてもう信じないわ。絶対に今世では貴方を好きになんてならないんだから!!」
こんなに大声を張り上げたのなんて前世でも今世でも初めてかもしれない。
少しだけ傷ついたような表情を見せるヴィードに、ほんの少しの罪悪感が芽生える。――私は悪くないはずなのに、何でこんなに悲しくなってしまうのだろう。
「分かった、そこまで言うなら僕と勝負をしよう、ベル。君が僕をまた好きになってくれるのが先か、僕が君を諦めるのが先か。君が勝ったら僕はもう二度と君の前に姿を現さないと約束する」
「……いいでしょう、受けて立ちます。期限は?」
そう問いかけた瞬間、ヴィードは先ほどの殊勝な態度から一変しニヤリといつものあくどい笑みを浮かべた。
「僕が死ぬまで、かな」
「…………はぁ????」
急に何を言い出すのだ、この男。
「それくらいじゃないと僕は君のこと諦めないよ。……どうする? 降参して僕のお嫁さんになってくれる?」
「それじゃあ私、貴方以外と一生結婚できな――」
――いや、待てよ。別に律儀にそれを守らなくても彼に勘づかれる前に誰かと結婚してしまえば普通に彼も諦めるのでは?
ふとそんな考えが過り少しだけ希望が見えたと喜びに浸ったの束の間。
「……君は分かりやすいねぇ。確かに、法的に人妻には手を出せないから勝負を強制終了させる手段としてはアリだ。――でもベル、忘れてない? 僕、王族なの。金と権力だけは腐るほど持ってるんだよ。相手の男、無事に済むと思う?」
ニッコリと。それはそれは良い笑顔を浮かべたヴィードが楽しそうに爆弾発言を落とした。それは一国の主になるであろう人がしていい発言ではないですけど???
国家転覆される典型的な愚王のようなセリフを堂々と吐く彼に唖然としながら、思わず頭を抱えてソファに座り込む。
斯くなるうえは国外に逃亡するしかないのかと考えたところで、どうせそれも監視されて不発に終わるのだろうという暗い未来しか見えない。
「さあベル、これで分かったろう? 僕から逃げるのは不可能なんだよ」
「――いいえ、こうなったら真っ向勝負だわ。前も独り身で何とかなったんだもの。時間をかければ貴方も諦めるはずよ」
「……ま、しょうがない。君と恋人期間を長く楽しめると思って気長に待つことにするよ」
そう言って何故かヴィードの方がやや呆れたように溜息をついてくる。
おかしい、無茶苦茶なことを言ってこちらを困らせているのは紛れもなく彼のはずなのに、何一つ解せない。
そのまま彼は優雅に立ち上がったかと思えば急に私の前に跪きだして、思わず心臓がドキリと跳ね上がった。
「ベルアンナ、これは勝負とは関係ない僕個人の約束事だから気にしなくていい。――たとえ君が僕を好きになってくれなくても今度こそ君に目一杯の幸せを贈りたいんだ。それだけは絶対守ってみせるよ」
(……それは、卑怯でしょう)
ボロボロに泣き崩れるまで恨んだこともあるのにこんな簡単に絆されてしまうなんて。そんな自分自身が許せないのに、その言葉をどうしようもなく嬉しいと思ってしまったのもまた事実で。私ってもしかしなくてもチョロいのかしらと情けなくなってくる。
「ただ、やっぱり僕以外の男に幸せにされるのは癪だから、それは全力で邪魔するけどね」
――……さっきの言葉で止めていれば恰好よかったのに。
ドキドキと跳ね上がっていた心臓が急激に冷めて真顔になりかけたが、結果的に正気に戻れたのだからまあ良しとしよう。
「――さて、そろそろ怖い番犬たちが帰ってくる頃だし、僕も帰る支度をしようかな」
「?? 犬なんてウチで買ってないわよ?」
「将来の義兄と義妹――って、ああ…ちょっと遅かったみたい」
珍しくげんなりとした表情を見せるヴィードが部屋の入り口を見つめた瞬間、ドンッと激しい勢いでドアが開かれた。
「――おや、珍しいお客様だ。満足なおもてなしもできず大変失礼いたしました、皇太子殿下」
「いえいえ、お気になさらず。わざわざ兄上に足を運んでいただけただけありがたい限りです」
「……これはこれは。殿下も意地が悪いお方ですね。我が家の嫡女は誠に残念なことに先日婚約が破談になってしまったのです。殿下を義弟と親しく呼べる日がもう二度と来ないなんて――本当に残念ですよ」
(え、あれ……お兄様、すごく機嫌悪いのかしら)
兄は毒舌家ではあるが、それを分かりやすく見せるのは身内だけで、他人には必ず“良い人”の外面を被るのだ。
もちろん王族であるヴィードの前でもそれはそれは見事な猫を被っていたのに。
「そんなに僕のことを気にかけてくれてたなんて光栄ですよ、兄上」
「……私はもうただの臣民なのですからどうかそのお言葉遣いはお止めください、殿下」
「ふふ、兄上こそ僕をからかっているんですね? こんなに仲睦まじい僕たちが破談なんてありえるはずないでしょう。――後日、王宮からの招待状が届くでしょうから彼女の送迎をまたよろしくお願いしますね」
「「――は?」」
奇しくも兄と声が重なり、同じタイミングでヴィードの顔を凝視する。――彼のその笑みはハッタリなどではなく勝算がある時の笑い方だ。
(ってことは婚約破棄の件はまだ保留なの!?)
そんな馬鹿な。素行の悪さに加えて妃教育も全て最低ランクを取ったのだ。普通なら問答無用で婚約者候補から降ろされて然るべきだろうに。
万全を期して王妃様との対面で“自分は妃など到底務まる器ではない”と直訴までしたのに…!!
あまりに予想外のことにヴィードを再度見つめれば、彼は天使の微笑みを携えながら悪魔のような耳打ちをこっそりしてきた。『汚い大人は手段を選ばないと言ったろう?』と。――いや、貴方今は一応十歳なのに何でそんな権限あるの。
「――というわけで、兄上は僕のことを堂々と義弟と呼んでいただいて構わないというわけです」
「――……なるほど、いずれかの機会にそうお呼びできる日がくると良いですね。――ベルアンナ」
「は、はい」
「私が居ては邪魔になるだろう。お前が門前まで丁重にお送りして差し上げなさい。――殿下、それでは御前を失礼いたします」
そう言って、最後に一礼しながら兄は扉の向こうへと消えていく。
兄の姿が見えなくなってから緊張で張り詰めてた息を吐き出せば、隣からヴィードの笑い声がクスリと漏れた。
「何笑ってるの」
「いやぁ、彼も報われないなぁって思っただけ」
その言葉の意味が分からず首をかしげていれば、「分からない方が都合がいい」と、またも謎の言葉を残しヴィードは私の手を引いてさっさと門前に向けて足を運びだす。
「――もし君が孤児だったら手っ取り早く囲めたのかな」
「……何、急に。怖いこと言わないでよ」
「んー? 前世の君の家族は相手するのは楽だったけど個人的には好きではなかったし、今世はどちらかと言えば好ましい分類だけど相手するのはちょっと面倒だなぁって思っただけ」
「そうかしら…? 今も前もあんまり変わんないでしょう? 」
頭を捻って昔の家族を思い出してみるが、ぼんやりとした印象しか残っていない。あんまり口を利かなったのも原因の一つかもしれないが、別に思い出せなくて悲しいともならないので、早々に頭の中の朧気なそれらは雲散していった。
「今度は愛されてるよ、ちゃんと」
不意に足を止めたヴィードの視線が真っ直ぐ私を射貫く。
前の両親だって、私を愛してると言っていたのに。それと何が違うのか。――そう聞こうとして、でも何だかそれを聞くのが怖くて思わず口をつぐんでしまう。
結局何も言い返す言葉が出てこず、まごついてる私の手をヴィードはそっと握ると手の甲に軽い口づけを落とした。
「もちろん、僕の方が君を愛してるけどね」
「な……っ!」
急な口説き文句は心臓に悪いので止めてほしい。
昔のヴィードリッヒはもちろんのこと、以前のヴィードもそこまでストレートに伝えてくるタイプではなかった故に、そんな耐性は一欠片も身についてないのだ。
「やっぱり勝負は僕の勝ちかな」
「~~~っ、絶対負けないんだから!」
息を巻いて言い返してみたものの、ヴィードは只くすくす笑うのみだ。
何が何でもその余裕を崩してみせると変な意気込みのようなものが湧き上がってくる。――そう、その時の私の感情はいろんなものが混ざりあっておかしかったのだ。
――チュ
と、軽いリップ音を残して私の唇がヴィードの頬に触れたのは一瞬で――しかし、そのほんの一瞬だけでくすくすと笑っていたヴィードの声はピタリと止み、変わりにその顔を真っ赤にさせた彼の姿がそこにあった。
「ふふ、私だってやればできるんだからっ!」
前世の記憶の中でも常に余裕綽々だった彼の表情を崩せたのが嬉しくて。謎に自信を取り戻した私は上機嫌のまま彼を馬車まで送り届けたのである――が。
「――ベルアンナ、勝負の内容分かってる? 君に惚れさせても君が不利になるだけだよ」
まだ少し頬に赤みが残った顔でヴィードに指摘され、ようやくいろんな意味でやらかした事に気づいた。我ながら気づくのが遅すぎる。完全に変な意地で暴走した数分前の己を思い切り引っぱたきたい。
「こ、これからだから! まだ勝負は始まったばかりだものっ! 見てなさいよ!」
言い訳にもならない言葉を並べ立て、一応は客人である彼に早々に背を向けるという不躾極まりない行動をしながら全力で元来た道を走り帰る。……きっと赤くなってるであろう自分の顔をヴィードには絶対見られたくなかったためにそれはもう必死で走った。故に。
「あーあ、ほんと可愛いよねぇ。僕の奥さん」
「……失礼ながらまだご婚約のみの関係かと存じますが」
「問題ないよ、ベルを僕から奪う奴は全て消し去ってやるもの。――今度は僕が運命を書き換えてやる」
――そんな主従の不穏な会話があったことなど全く知らずに済んだのは、ある意味幸いだったのかもしれない。
END
息抜きの一作なのでいったん区切りますがいつか続いたらいいなぁと思います。