第六章『食』
第六章 『食』
白い世界の中で、新しい人間が産まれた。
床も壁も天井も、全てが白い。ここが何処なのか、産まれたばかりの彼はただ泣くだけで何も理解していなかった。
その少し後にもう一人、人間が産まれた。髪が真白だったこともあり、白椏と名付けられた。初めて目を開いた時、大人達は畏怖で震えたと言う。両眼が耿々と紅く輝いていたからだ。
――害毒。違界で最も恐れられる人種だ。
恐怖の対象ではあるが、大人達は丁重に壊れ物を扱うように白椏に接した。畸形の比ではないほど攻撃力が高いとされる害毒を利用するため、そして機嫌を損ねて危害を加えられないために。
二人が言葉を話せるようになった頃、先に産まれた子供は、その違いに気付いてしまった。たくさんの玩具や絵本、そして美味しい菓子。全部が白椏の物だった。望めば全てが手に入る。呼べば、泣けば、誰かがすぐに駆けつける。いつでも言えば遊んでくれる。そんな白椏が最初は羨ましかった。
いつからだろうか、次第にそれは、白椏がいなければもっと自分が見てもらえて、ちやほやされるのにと思うようになった。
それはだんだんどす黒く、嫉妬に変わっていった。その感情の名前はまだ知らなかった。
あいつさえいなければ。
あいつさえいなければ。
あいつさえ――。
あの目が気に入らない。大きな紅い目で不思議そうに見上げてくる。何も気付いていない目だ。
僅か二歳の時、大人達がいない時に、近くにあった鋭利な玩具でその紅い目を脳に達するくらい思い切り刺した。あれだけ泣いて大人を呼んでいたのに、白椏は不気味なほど声一つ上げなかった。害毒は怖くなかった――と言うより当時は理解していなかった。仕返しに何かされるという恐怖はなかった。殺してしまえば、仕返しなんてものもない。
ただ見つかれば、大人達が殺しに来るかもしれない。そっちの方が怖かった。
だからすぐにその場から逃げた。
白い床に赤を落としながら、だがこの時既に白椏は無意識に自分の力がわかっていた。無意識に異物を脳の手前で止めた。ぎりぎり少し先が刺さったかもしれないが、全て無意識なので自覚は何もない。
殺されたはずだったが、その後駆けつけた大人達に治療され白椏は無事だった。
刺した子供に知る由はなかったが、白椏は一切声を発さなかった。誰に遣られたとも、何も言わなかった。
誰が刺したのか、終ぞ知られることはなかった。
* * *
城の最上層。上空を吹く風に撫でられながら、ぼさぼさの髪を乱されながら、窓から森を見下ろす。
(呆気ないな……)
踵を返し、王の部屋の前で立ち止まる。扉を開けると玉座が見える。立入禁止にはなっているが、扉を開けてはならないとは言っていない。
暗い玉座の上には、緑色の石が鎮座している。
(何もかも、呆気ない)
よくわからない石。組成はカルシウム、マグネシウム、鉄、珪酸塩――ただの何の変哲もない翡翠だ。緑色が強く出ているのは鉄の所為か。
(誰も僕を見ない)
扉を閉じ、誰もいない廊下を歩く。
(見ないなら存在してないのと同じ)
あの忌まわしい紅い双眸を思い出す。
(全部お前の所為だよ、白椏)
* * *
ランタンの明かりが仄かに照らす瓦礫の空間で司はクロを抱き締めたまま、じっとしていた。地下鉄跡だという空間はしんとしているが、心臓の音が響きやしないかと、クロは内心びくびくと暗闇の奥の虚空を見詰める。
「……いつまでこうしてるつもりなんだ、司」
どれほどの時間このままの格好をしているのか、クロはやや呆れ気味に漏らした。クロが手を離した後、再び飛びつかれ、椅子から落ちて地面に強かに尻を打った。クロはそのままの姿勢で司の体重を支えている。
「一生」
クロから司の顔は見えないが、満足そうな声が返ってきた。子供か。
「このまま死ぬつもりか」
「それは困る」
渋々とだが漸く手を離し、クロを解放した。行き場を失った手は、膝を折って抱えるために使った。
「私はもうコアには戻れないんだろうな……」
目を足元に伏せ、珍しく弱気な言葉を口にする。クロがイルだったことで、強がっていた感情の蓋が外れてしまった。突然襲われたことに、今になって参ってしまったのだろう。王族とは言えやはり畸形だから、扱い方も違うのだろうと思う。戦力になるような畸形だったらまだもう少し大切に扱われていたのではないかと思う。そんなことを幾ら思っても、変わることはできないのに。
「……禁足地で手に入れたという転移する草とやらを手に入れて、ロゼと水藻を連れてここから出よう」
落ち込んでいたと思えばすぐに膝を叩き顔を上げる。立ち直りが早い。もう少し慰めてやりたい気持ちもあったクロは肩透かしを食らった。目付として傍にはいたが、気取られないように必要以上に接近することはなかった。クロの中ではまだ子供だった頃の司が脳裏にちらつく。
「その禁足地ってのは何だ?」
「言ってなかったか?」
「言ってない」
聞きそびれているままだ。禁足地というものが見つかってから、コアがおかしくなった。それが何なのか知っておく必要がある。
「何処から話せばいいかな……。この城を作った時にいたらしい」
「いた? 何が」
「不気味な少女の姿をした霊体だ」
真面目な顔で答える司に、クロは馬鹿馬鹿しいというような顔をした。揶揄しているのかと緊張も薄れる。クロも幽霊くらいは知っている。ただそれは本や噂の中の御伽噺だ。
すっかり呆れ顔のクロを余所に、司は構わず続けた。
「何も喋らずただそこにいるだけだったが、あまりに得体が知れないってもので、唯一反応を示した特定の石を利用し、誰も立ち入ることのない遠い島へ捨てたんだ。二度と出てこられないよう結界を施して」
「それをまた……探してた?」
「捨てたのは大昔の話だからね。今じゃ真実はわからない。でも気になるだろう? 記録も殆ど残っていない、そんなものが本当にあるのか。だから島を探した」
「……結果、本当にあったと?」
始まりが信じ難いが、島が存在するのなら、全てが嘘と言うわけでもないのかと、クロは倒れた椅子を起こし腰を掛けた。司も倣って椅子を起こす。
「そう! 長年探していたものが遂に見つかった。浪漫だろ?」
司は子供のように、いや子供の頃と同じように、キラキラと目を輝かせた。大好きな菓子を差し出された子供のように。
「浪漫ねぇ……」
対するクロは胡散臭そうに頬杖を突く。司の言うことは信じるが、直接見てきたわけではないその話を信じるには、信憑性が無さ過ぎる。
「そして結界に閉じ込められていた石と、ついでに見つけたらしい転移する草を持ち帰った――ということらしい」
そこまで言って司はハッとした。自分が今、口にしたことを反芻する。
「石……?」
玉座にあった緑色の石を思い出した。
「まさか、あの石!」
不思議には思っていたが、もっと近付いてよく見ておくんだった。何故あの時、気付かなかったのか。再び勢いよく立ち上がり、椅子が地面に叩きつけられ地下鉄跡に響き渡った。
「どうした?」
立ち上がった司を唖然と見上げる。何を興奮しているのかと、次の言葉を待つ。
「玉座に石が置いてあったんだ! それに、視線も感じた! 気の所為だと思っていたが……霊体だとすれば、視認できないのかもしれない!」
「視認できないなら、昔の人は何で少女だってわかったんだ?」
話を合わせながら、水を差すようで悪いが辻褄が合わない。誰も視ることができないなら、それは存在していないのと同じだ。
「じゃあ見えるのか……? 私にも見ることができると?」
「それはわからないが」
きょとんとする司に、答えを投げてやれない。御伽噺の正解など、城の外でも中でも、知ることはなかった。
「霊ってのは、あれだろ……? 死んだ人間の魂だとか何とか。出てくる条件がわからない」
「私も」
議論が暗礁に乗り上げてしまった。二人は口を閉じ、お互いを見詰めた。相手の顔を凝視しても、答えなど見つからなかった。
たっぷり見詰め合った後、司はばちんと机代わりの瓦礫を叩いた。少し痛かった。
「とりあえず、だ。これからの私の目的は三つだ」
指を三本立て、よく見えるように突き出す。
「ロゼと水藻を連れ出す。転移する草を手に入れる。そして玉座へ行き、石を手に入れる」
「石はどうするんだ? 逃げるのに必要とは思えない」
今までの聞いた話だと、その石はただの得体の知れないものを封じ込めているだけの物だ。
「石は気になる。知的好奇心が疼く」
真顔で駄々を捏ねた。
「……優先順位はかなり低い」
司は頬を膨らませた。こんな時なのに少し可愛いと思ってしまい、クロは反省した。仮面を取って真っ直ぐ目を見て話したのは久しぶりなのだ。本当は内心とても緊張している。
「またあそこに行くのは危険だぞ?」
「大丈夫。今度はイルがちゃんと来てくれる」
「あのな……」
目付が最早用心棒だ。
司のことは守る。今度こそ絶対に守る。そう思っているが、自ら危険に突っ込んでいくのは感心しない。またコアの者達に追われて、逃げ切れるのか。クロは銃弾を弾くことはできない。今度は司が撃たれる所なんて、見たくない。
――話を逸らそう。クロは心中頷いた。石から意識を逸らそう。それに、気になっていたのだ。司の目的の一つに。
「その、草なんだが」
「ん? 草?」
唐突に話題が石から草へ移行したため、司はまたもやきょとんとしてしまった。
「それは転移草のことか?」
その性質そのままの名前なので、間の抜けた台詞になってしまった。
「! 知ってるのか!?」
目を丸くして司は身を乗り出した。こんなに食いつくとは思わなかった。
「いや……小耳に挟んだだけと言うか、オレも詳しく知ってるわけじゃなくて」
「私は全く知らない! ならば少しでも知っているイルの方が私より知見がある」
大真面目な顔をしてそんなことを言う。そう言われると、クロは弱いのだ。
「……転送装置を作るために必要だとか言う、転移草だとかマイグレイトとか言う草じゃないのか?」
「転送装置!」
これまでで一番の笑顔を見せてきた。再会の瞬間は笑顔よりも泣いてしまったので、転送装置に笑顔を持っていかれたのが少し悔しい。
「イドが外の人間に転送装置を作らせたと聞いた!」
「オレは技師じゃないから、本当に小耳に挟んだだけで、使い方とか、全然わからないからな?」
名前程度しか新しい情報を与えられていないが、司が大層喜んでいるので良しとした。その好奇心が司とイルを引き合わせたのだ。悪いとは言えない。
「使い方はそこいらの技師に訊けばいいだろう?」
技師に巡り会えるかどうかは運次第だが。
「本当に城は転送技術について何も知らないんだな」
城に潜り込んで九年経つが、城の中で転送の話は聞いたことがない。外では小耳に挟むこともあると言うのに。城はこんなにも豊かなのに技術は外に劣り、それは皮肉にも思えた。
「何も知らないよ、城は。危険の無い閉じた世界の中でのうのうと生きてるだけだ。この世界が壊れた時に、外と中で分岐してしまった」
それは司が血を引く血筋の犯した罪だ。直接司が壊したわけではないが、罪の意識はずっと胸の奥に蟠っている。血の罪は重い。
「……最初の装置を作った人が凄かったんだろうな」
「感情共有システムか? 資料によると、感情を共有できるチップを全ての人間に埋め込んだらしいが」
「チップ埋め込んだってのは初耳だ」
落ち着きを取り戻し、二度目の椅子を起こし、座った。
「外で資料を見つけるのは大変そうだからな……外の人間が頭につける装置はその技術の応用らしいが、実はそのチップを作った人間の記録は無い」
「無い……? 全ての資料が残ってるわけじゃないのか」
外はあの有様なのでともかく、城の中にも資料が無いことには驚いた。司も腕を組みながら、思い出すように黒い天井を見上げる。
「都合が悪かったのか単なる記録漏れかは知らないが、それまでに存在しなかった全く新しい技術だったことは確かだ。段階的に試用を重ねたそうだが、そこから世界が壊れるのは早かった。まるで裏で誰かが糸を引いているかのように」
「…………」
「でも世界はしぶといね。壊れた外でも何やかんや工夫して生きてる。死と隣り合わせなのに、ね」
自由で羨ましい、と司は小さく呟いた。クロには聞こえないように。外の世界で生まれた者からすれば羨ましいのは城の中に住める者達だ。外が羨ましいなんて言えば、ぶん殴られるだろう。
また音が途切れ、静寂が支配した。司は徐ろに立ち上がり、ランタンを空間の奥へ向けた。
「イルは外でこういう地下鉄跡を見たことはないのか?」
瓦礫が転がり壁に罅も入っているが、今すぐ崩落しそうと言うわけではない。さすが地下に作られた施設だ。頑丈だ。
ランタンを持ったまま歩くので、明かりが遠離り仕方なくクロも司に従う。
暗闇に大きな段差があり、下を覗いてみる。
「線路がある」
瓦礫が散乱して所々隠れているが、等間隔に枕木が並ぶ線路だ。
「初めて見た。外にあるとしても地面の下だからな」
「ふぅん。そんなものか」
瓦礫で塞がった奥まで行ってみるが、ユトの言った通り行き止まりで、抜け道は無さそうだった。風の抜ける音も聞こえない。呼吸は自然にできるので空気の抜け道はあるのだろうが、人の通れそうな穴は無い。
「やはりここでいつまでも大人しくしていても埒が明かないな。一晩経ってそろそろ諦めてくれていればいいが、様子を見てコアに潜入しよう」
「本当に行くのか?」
この安全な場所にいてくれれば、危険な目にも遭わないのに。そうもいかないようだ。
「最低でもロゼと水藻は連れ出したい。私の良き話し相手なんだ」
そう言って司は寂しそうに申し訳なさそうに微笑んだ。学校の友人にも裏切られイルもいなくなり、その心の穴を埋めてくれた存在がロゼと水藻だった。そんな二人を置いて司だけ安全な場所に逃げることはできない。逃げたくない。今度はしっかりと、繋ぎ止めたい。
司がロゼと水藻と話している場面にはクロも多少覚えがある。とても司に懐いていた……と思う。コアに囚われた畸形の特徴として表情が乏しい所はあるが、司には心を開いているようだった。
司が連れ出したいと言うなら、クロはそれに従うしかない。目付としてではなく、再び別れないために。
* * *
水の音が聞こえる。聞き慣れた穏やかな潮騒。ぼんやりと目を開ける。
黒い空には幾らか白い星が浮かび、黒い波がゆっくりと浜に寄せる。
木陰からは星はあまり見えなかった。随分長く目を閉じていたようだ。草が頬を撫でる。体が気怠い。
再びゆっくりと目を閉じて開けた時、ぼんやりと白いものが視界を埋め尽くし、驚いて跳ね起きた。
「!?」
近すぎてぼやけていたが、人の顔だった。そいつは頭突きを躱すために後方にひょいひょいと軽捷に飛び退いた。かなり距離を取るが、おかげで姿がはっきりと見えた。
「カマキリ……」
毛先の揃っていない長い白髪が風に揺れている。大きな両腕の鎌が似付かわしくない、少女の姿。
「俺……何で……」
頭が重い。体も怠い。支えるように頭に手を遣りながら考えてみるが、何故砂浜に横になっていたのか覚えていない。
ディアは距離を取ったまま、じっと見詰めていた。何故突然頭突きを食らわせようとしてきたのか考えていた。
「ゴミ、起きた」
他には誰もいない。この状況を説明できそうな者が彼女しかいない。説明できるのか甚だ不安ではあるが。
「何で俺、寝てた?」
「!」
話し掛けられたことが意外だったのか、ディアは食い入るように凝視し、少し距離を詰めた。頭突きを繰り出しそうな気配はないと察した。
「オマエの仲間の奴、弱そうな男、オマエ見てる、よう……私に言った」
だからあんな至近距離で見ていたのかと納得した。
「その弱そうな男は何処行った? あと、俺は何でこんな所で寝てたんだ」
弱そうな男……きっと拓真のことだろう。弱いかどうかは別として、行動を共にしていた心当たりが拓真しかいない。
「すぐ戻る言った。弱そうな男、オマエに何か掛けた。それで、運んだ」
「何か掛けた……睡眠スプレーか?」
確かあいつも艸弥から買っていた。強制的に眠らされたわけだ。まだ頭が完全に覚醒していない。
後は拓真に聞くことにする。この場所に来たのも彼の指示だろう。家族と合流するなんてことを言っていたはずだが、ディアの言葉ではまだ合流は叶っていないようだ。
「おい、ゴミ」
今度はディアが話し掛けてきた。いつまでゴミと呼ぶのだろう。
「俺の名前はゴミじゃねーから、返事しません」
「!」
ディアはざくざくと砂に鎌を突き立てた。少しわかってきた。すぐに答えが思いつかず考える時は地面に鎌を突き立てる。癖のようなものだろう。
「……花菜、の……お兄ちゃん」
花菜、と言われ、びくりと体が硬直した。頭が痛い。頭を抱え、蹲った。
「あれ、何」
髪の隙間からゆっくりと覗くと、鎌の先で海を指していた。他には何も無い。船も海鳥もいない。
「海……だけど」
「うみ……知ってる。触ると、死ぬ」
「死なないが」
「ウソツキ」
「…………」
何なんだと思いながら、重い腰を上げる。本当のことを言っただけなのに、何故威嚇するのか。
重い体を引き摺り、波打際に立つ。波の音だけが穏やかだった。絶え間なく引いては寄せる波に靴の先がじんわりと濡れる。
「ほら、死なない」
振り向くと、恐ろしいものを見るような目で見ていた。
「死なない……」
ディアは恐る恐る波打際に近付き、寄せる度に後退って距離を取る。水が怖いのか?
放っておこうと、ディアから目を離して海の向こうに目を遣る。月明かりはあるが、海は黒い。
「――ユキ!」
ふと背後から声が聞こえ、呼ばれた雪哉は振り返った。ビニル袋を提げた拓真が砂浜に下りてくる所だった。
「良かった。思ったより大丈夫そう」
「……ここ何処だ?」
「だよね。それについては今から話すよ。お腹空いたんじゃないかと思って、コンビニでお弁当買ってきた――んだけど、その子何してるの?」
ディアに目を遣り、拓真はきょとんとする。波で遊んでいるようにも見えるが、必死だ。
「触ると死ぬって言ってた」
「ああ……」
何か思い当たることがあったようで、拓真は声を上げた。ちょいちょいと雪哉を木陰に手招き、座らせる。
「違界の海は強酸性だって聞いた。だから触れないって」
「そうなのか」
思い切って鎌の先を波に突き立て急いで飛び退く姿が見える。水が嫌いなのかと思った。
「何か食べれそう? 無理ならゼリーも買ってきたけど。気分どう?」
ビニル袋から弁当とゼリー飲料を取り出して見せる。腹は少し……減っていた。
「頭が痛い。あと怠い……けど食える」
「食欲があるなら何よりだ。あれだけ泣いたらね……」
「…………」
雪哉は目を伏せる。その時のことは覚えている。徐々に覚醒していく頭の靄が晴れてゆく。今度は何も忘れていない。花菜の首が無くなっていた。それは苦しいほど脳裏に焼き付いて離れない。混乱ももう殆どないと思う。おそらく混乱する体力がもう切れてしまった。涙と一緒に力が抜けた。あんなに泣くとは思わなかった。
雪哉に弁当を渡し、拓真も箸を割る。
「さっきの続きだけど、ここは見ての通り海だ」
「……おう」
「家族と合流しようと思ったけど瓦礫が酷くて、ユキを背負いながらだと登れなくて」
「そうか……寝てたから重かっただろ」
「そりゃもう」
否定はしない。
「それで、親に連絡だけ取ったんだ。そうしたら、違界の目的ははっきりとはわからないけど、爆撃機の攻撃の仕方見てたら、人のいない所の方が安全じゃないかって。城の中も人が大勢いるわけじゃないから、大挙して押し寄せることもないらしくて、隠れる所はないけど海辺は意外と安全じゃないかと思って、連れてきた」
「……確かに殺戮や破壊が目的の一つだとしたら、住宅地から離れる方がいいか」
雪哉は米を口に入れ、味がすることを確かめるように咀嚼する。きちんと味がする。気持ちがそれだけ落ち着いている証拠だろうと、黙って口を動かした。
「この辺は被害がないみたいだけど、コンビニは無人になってたから、お金とメモ置いてきた」
「律儀だな……俺は金までしか気が回んねーわ」
唐揚げを口に放り込むと、波と格闘していたディアがこちらを見ていることに気付いた。興味が移ったか、凝視しながら近付いてくる。カマキリの擬似瞳孔の所為もあるだろうが、そんなに見られると警戒する。
ディアは雪哉が口に入れた唐揚げと弁当を交互に見た。
「それ、誰の肉?」
「っぶ」
予想外の質問に思わず噴きそうになり、慌てて手で押さえた。何てことを言い出すんだこいつは。『誰』って何だ。
拓真は声を押し殺して肩を震わせている。ディアの発言ではなく、雪哉の反応が面白かったらしい。
「……違界は食べ物がないんだよね? なら見たことないか」
笑いすぎて涙目になりながら、親切に教えてやる。
「これは鶏の肉だよ。鶏、わかる? 鳥なんだけど」
「トリ、わかる。明るい時、見た」
「それとは違う種類だけど、そう。その鳥」
明るい時というのは昼間のことだろう。今は夜で鳥も眠っているが、昼間ならよく飛んでいる。
「あ、お茶いる? ユキ」
「遅せーわ」
言いつつペットボトルは受け取る。拓真はけらけらと笑っている。ディアは不思議そうに見ている。
一頻り笑った後、拓真は米を口に入れた。ディアが凝視しているが、違界では口に物を入れて食べない。青界の『食べる』行為が奇異に見えるのだろう。見られていると食べにくいが。
「その白い虫、何?」
「っ!」
箸を置き、今度は拓真が両手で口を押さえた。
「ま、待って待って。虫はきつい!」
今度は雪哉が顔を逸らして笑っていることが、彼の背を見てわかった。あんなに泣いていた雪哉が笑えている。そのことに安心したが、『虫』は無いと思う。それどころではない。
「その白いのは米だ。植物の一種で、虫じゃない。虫を食べる地域もあるが、俺は食べたことないな」
「植物……」
まだ少し声の端々に笑いが見え隠れしながら、努めて冷静に雪哉は答えた。
このまま弁当を食べ進めればまた何か予想しない表現が飛び出しそうな気がして、拓真はペットボトルを傾け呑み込んだ。
「そ……そういえば、だけどさ。ディア……だっけ? 食糧は摂取してる?」
違界の食事はボトル型の食糧を首の後ろに刺すことで摂取できる。このカマキリの両腕では一人で摂取することは難しいのではないかと思う。
「ない」
「えっ、無いの?」
「マト、持ってる。私、ない。ない、平気」
食糧はマトが管理していると察する。だがそのマトは何処かに去ったまま戻ってこない。少しくらい食べなくても平気だと解釈したが、平気でも腹は減っているのではないだろうか。違界の惨状の中を腹一杯食事に有り付くなんてできないだろうが、それを含めての平気なのだろう。
「お弁当は……いきなり無理か」
「固形物はきついだろ。ゼリーあるって言ってただろ、そっちなら」
「あ、そっか。ゼリーある。林檎味」
弁当を横に置き、ビニル袋を漁る。形状だけで言えば、違界の食糧ボトルと似ているかもしれない。硬い金属製ではなく袋状の容器だが。
「これ飲んでみる?」
ゼリー飲料のパウチを差し出すと、怪訝な顔で凝視を始めた。鎌の先で突こうとするので、それは回避する。あの鋭い鎌で突かれたら穴が空いてしまう。
「けど一人で飲めないよな」
大鎌の所為でしゃがむのに時間が掛かることを見越し、拓真はパウチの小さな蓋を捻りながら立ち上がる。
「のむ?」
「こっちの世界の食べ物。毒は入ってないよ。気になるならオレが先に飲もうか?」
「私の」
口では平気だと言っていたが、腹は減っているようだ。先程から二人が弁当を食べる所を見ていたので、口に入れる食べ物というのが気になっていたのだろう。海が死なないものだと教わりそれは嘘ではなかったので、信じる気になったようだ。
「少しずつ押すから、飲んでみて」
ディアの口にパウチの口を突っ込むと、きちんと銜えた。歯で噛み切らないか懸念はあったが、大丈夫そうだ。少しずつ慎重に押し出し、飲んでいく。雪哉はその様子を見上げながら、何だこの光景、と思った。
「ん!」
少し飲み込んで口を離し、首を捻りながら不思議そうな顔で再び銜えた。どうやら気に入ったらしい。
「オレ、昔カマキリ飼ったことあるんだよね」
「……ん? おう……?」
さすがにこんなに大きなカマキリは飼ったことはないだろうが。突然何を言い出すんだと思いながら、雪哉は卵焼きを食べた。
「それだけなんだけど」
話が続くわけではなかった。
「図鑑で見たことしかないけど、ディアは花蟷螂だよね? 鎌の部分は大蟷螂かな?」
「……言われてみれば、それっぽいな」
白い体にピンク色が差す花蟷螂は、とても美しいカマキリだ。
「花……か」
花菜の名前にも『花』が入っている。単なる偶然の一致だが、不意の関連性に雪哉は目を伏せた。
途中から自分で吸うことを覚えたディアは、残りも全て飲み干した。中身がなくなっても吸い続け、やはりパウチの口を噛み切った。
「リンゴ味、いい」
満足したようだ。食べ物への興味は薄れたのか、再び波打際に跳んでいく。
漸く落ち着いて弁当が突ける。空のパウチをビニル袋に放り込み、拓真も座って再び弁当に有り付く。米を見下ろし小さく、虫かぁ……と呟いた。
暫くは黙々と箸を進めていたが、ぼんやりと海を見ながら雪哉は拓真の傍らにある物を一瞥した。隠しているつもりかもしれないが、紐が見えている。
「……それ」
拓真も気付き、少し躊躇う。
「本当に大丈夫なら渡すけど……本当に大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんじゃあなぁ……」
「泣く体力はもう残ってねぇよ。……疲れた」
「うーん……」
躊躇いながらも、傍らに隠していた白いリュックサックを仕方なく雪哉に渡した。べったりと赤黒い血が付着したままの。花菜が背負っていた物だ。
雪哉は空の弁当の容器を置き、膝にリュックサックを載せた。金具を外し、ファスナーを開ける。
――財布と携帯電話と……。
(写真立て……?)
裏返っていた写真立てを引っ張り出し、引っ繰り返してみた。そこに写っていたのは、蒼い海の前で砂の城を囲む幼い稔と花菜と雪哉の姿だった。小学生の頃、家族で海に遊びに行った時の写真だ。花菜が事故に遭い入院し、退院した後に撮ったものだ。
拓真も写真を覗き込む。三人とも曇りのない笑顔で、とても楽しそうな良い写真だと思った。だが一つ、引っ掛かることがあった。
「いい写真だね」
「……最初は俺と稔は泳いで遊んでて、でも花菜は泳げないから、砂遊びに切り替えたんだ。楽しかった……と思う」
複雑な心境はありながらも、この時は楽しかったと覚えがある。城にトンネルを通そうとして花菜が一度砂を崩してしまい、二度目は念入りに固めた。崩した時は残念に思ったが、責めたり恨んだりはしなかった。
「でも随分……昔の写真だね」
リュックサックの中に写真立ては一つしかなかった。大事に持ち出した写真が小学生の頃の写真とは、随分と古い。
「撮ってないんだ、写真……」
「え……?」
小学生から今まで、家族で出掛けることや誕生日など記念日も何度もあっただろう。なのにこの約十年の間、一度も写真を撮られていないのかと、同じく三人姉弟である拓真は違和感を覚えた。雪哉の複雑な心情は、少しは話を聞いて理解はしている。写真を撮らない家ということも考えられるが、そうじゃない。この時は撮っているのだから。
「正確には、三人で撮った写真が、だが。俺が避けたんだ。花菜と写るのを避けた」
この写真が最後だった。それをずっと花菜は大切に持っていたらしい。花菜の部屋に入ることは何度もあったが、この写真が飾ってある所を見たことはない。きっと何処か、引き出しの中にでも隠していたのだ。雪哉に見られないように。
「……花菜ちゃんはお兄ちゃん達が好きだったんだね。ユキがこんなでも」
「そう……思うか?」
「ユキもさ、本心隠すためにシスコン頑張らなくても、堂々とお兄ちゃんを奪い合ったら良かったんだよ」
「それはさすがに……」
「ちゃんと喧嘩したことないだろ? うちは今でも喧嘩してるよ」
胸を張る所ではないと思うが、拓真は胸を張って言った。雪哉が不貞腐れることはあっても、喧嘩したという話は聞いたことがなかった。
「お前ん家、そんなに仲悪かったっけ……?」
「悪いわけじゃないけど、おやつ取り合ってユウとユイがよくやってた。偶に殴り合いに発展する」
「あー……そっちはちょっと納得……」
「だろ? オレは基本的に傍観」
「目に浮かぶ」
「だから、喧嘩しても仲悪いわけじゃない」
仲直りができるのだから、仲が悪いわけではない。そして雪哉もその性格だと、喧嘩をしても仲直りができるはずだ。
「――あ、そうだ。ちょっと貸して」
ふと思いついたことがあり、拓真は写真立てを借りる。
「こういうのってよく裏に他の写真が入ってたりしない?」
「それはドラマとかの見過ぎじゃ……」
裏返し、留具を外す。中に何が入っていても落とさないように、慎重に蓋を開けた。
「何かあったか?」
「一枚だけだった……」
「だろうな」
「けど」
落とさないようしっかりと持ち、裏面をよく見えるように雪哉に向けた。
『なかなおり』
拙い字で、そう書かれていた。最近書いたものじゃない、小学生の頃の幼い字だ。
「これ、この撮った当時に書いたものじゃないかな? ユキが楽しそうだから、仲直りしたんだって思ったんだよ。喧嘩してなくても、ユキの態度の変化には気付いてたんだ」
「なんで……」
鈍臭くて鈍感な花菜が、気付いているわけないと思っていた。気付いていないから苛つかせているのだと。でもそれは、気付いていたからこそ、あの入院で――。
「わからなくなってきた……」
「オレもユキの気持ちは複雑すぎて一生わかる気はしないけど」
「お前な」
「結局どっちなんだよ。花菜ちゃんのことマジのシスコンなのか、演技入ってるのか」
「駄目だ混乱してきた」
今更何に気付いたって、花菜はもういない。いなくなってから気付きたくなかった。
「嘘がつけない薬、呑んでみる?」
「その得体の知れないブツは勘弁してくれ」
顔が引き攣りそうになった瞬間、再び目から零れるよりも先に、目にも留まらぬ速さでディアが頭上を駆け抜けていった。
「え……?」
お互い顔を見合わせ、振り返る。少し離れた所で、刃物を持った人間が両断されるのが暗がりで薄らと見えた。
ディアはきょろきょろと当たりを見渡した後、また素速く戻ってくる。全然気付かなかった。敵がいることに。話に夢中になりすぎた。
血のついた鎌を振るディアに感謝した。ここは違界ではないが、今は一瞬も気を抜いてはいけないことを改めて肝に銘じる。
「白い服、違界の危ない人間。マト言ってた」
「ありがとう……」
ディアがいてくれて良かったと思う。心臓が縮み上がった。
話題を戻す気分にはなれず写真立ては雪哉に返し、拓真はまだビニル袋の底に残っていた物を取り出して、空き容器を袋に突っ込んで縛った。
「ゴミ捨ててくる。それとこれ、まだ頭が寝てるみたいだから、チョコでも食べて頑張って頭動かして」
「お、おう……」
放られたチョコレート菓子を受け取り、見下ろす。きっちりと自分の分も砂に置き、ディアにこの場を任せて、周囲を警戒しながら走った。
再び任されたディアは、雪哉をじっと見下ろした。
「ゴミ、捨てられる?」
「俺はゴミじゃねぇからな」
現実に引き戻され、涙は引っ込んだ。