第四章『赤』
第四章 『赤』
木咲苺子はまだ目覚めない。
肉食の畸形に襲われてから一日が経つが、一向に目を覚ます気配がない。傷はまだ癒えること無く、苺子の体を蝕んでいる。幸い欠損は殆どなかったが、失血が酷かった。
遭遇した畸形は、こちらの速度を上回ってくる。一瞬の油断が命取りになる。ニュースでは今や爆撃のことばかりで、野犬のことには触れられない。人々から野犬――畸形への警戒が薄れることも危険だった。
違界の最初の爆撃からも二日が経つ。今の所、静かだ。不安になるほど。
「イチゴちゃん、目、覚まさないっすね……」
斎の車椅子を支えながら、千佳は呟いた。苺子の目は固く閉ざされている。
斎の脚を治療してもらった病院が苺子の入院する病院と同じだったので、こうして何度も様子を見に来ている。爆撃で負傷した人々が大勢押し寄せる中、苺子は一人で病室の白いベッドに静かに沈んでいる。違界関係の患者なので、一人にするよう結理が手を回したらしい。
「畸形とやらに遣られたって話だけど、そんなのがまだ近くにいるかもしれないって、どうやって避ければいいんだよ……」
事情を聞いた斎は苦い顔をする。夜しか出ないという話だが、そんな恐ろしいものが夜に出てくるなんて、落ち着いて眠れない。斎は今、両脚が動かせない。徒でさえ足の速い畸形に、車椅子では到底逃げられない。
「それを何とかするのが、私達よ」
病室の入口の脇に、梛原結理が腕を組んで立っていた。斎と千佳はハッと振り返る。結理の後ろには清依も片手をズボンのポケットに突っ込みながら立っていた。
「ウリちゃん! でも何とかするって、危なくないんすか!?」
「危ないからと言って誰も何もしなければ、被害は増えるばかりよ。こういう脅威に対して防波堤にならなくてはいけないの。大丈夫よ、太刀打ちできないあなた達よりはずっと勝算はあるわ」
普通の人間より武器を持つ人間の方が強いのは理解できるが、武器を持った人間と獰猛な獣ではどちらが強いのか。獣との戦闘は初めてなのか、いつもよりも少々弱気な口調である気はする。気の所為ならば良いのだが。
「無理だと思ったら、逃げてもいいんだからな!?」
その言葉は想定外だったのか、珍しく結理はきょとんとした。暫し斎の目を無表情で凝視し、居心地を悪くさせた。
「頭の装置が手に入れば勝てるわよ。私が畸形如きに殺されるとでも?」
本気なのかはったりなのか。
「装置は天才技師の紫蕗くんが作ってくれてるから、装置で負けるってことはないでしょ」
「そうね。私も会いたかったわ」
「会ったら姉さんもびっくりすると思う」
本当は会っているのだが結理は気を失っていたので、紫蕗の姿を見ていない。清依は、見た時の驚きは直接見る機会があった時のために取っておいてほしいと思い、何も言っていない。今でも思い出して驚く。あんな年下の子供が紫蕗だったとは。
飄々とした違界人達の話についていけず、斎は苺子に目を移した。結理や清依もこうならないとは限らない。
「――おっと、それじゃそろそろ装置受け取りに行ってくる」
清依は一度苺子のベッド脇まで歩を進めて目覚めない彼女に手を振り、結理を振り返る。
「お願いね、清依」
結理にも手を振り、清依は消えた。
「苺子のことはあなた達に任せるわ。目を覚ましたら、連絡をちょうだい」
「わかったっす!」
額に手を当て敬礼のポーズをする千佳と、軽く頭を下げる斎をそれぞれ一瞥し、結理はくるりと踵を返して病室を後にした。
『お願い』と言われても見守ることしかできないが、千佳と斎は苺子に目を落とす。
「あの、何かさらっと消えてくの、超かっこいいんすけど」
「わかる」
「私も自分の装置とか欲しいっす。戦うとか怖いことは抜きで。魔法少女みたいな可愛い装置が良いっす」
「気持ちはわかる。頼めそうな雰囲気の時にでも」
「頼めそうな雰囲気、つまり平和っすね」
早くこの騒動が終わってほしい。二人はそう強く思うのだった。
(この辺りのはず、だけど)
未夜の指定した合流場所の海辺に降り立ち、清依はきょろきょろと辺りを見渡した。転送の瞬間を人に見られないよう砂浜近くの木々の中に出現した。人影は視認できない。
紫蕗に会いに来た時は陸地だったので沖縄の海は今初めて見たが、陽は沈みかけているが、独特な蒼がとても綺麗だと思った。違界には無い色だ。
手近な流木を拾い、ぶんぶん降りながら砂浜を歩いてみる。この辺りは爆撃の被害は無さそうだ。
(人の多いとこ狙って攻撃してるよな。相変わらず性格悪いって言うか)
海を眺めながら溜息を吐いていると、背後で砂を踏む音がした。
「おーそーいー」
振り返ると、岩場から飛び降りてきたらしい未夜が立っていた。
「すまない」
「ごめん遅くなっちゃった! 待った? って言うのは女の子だけにしてよ」
「…………」
何と言い返せば良いかわからず、未夜は黙ってしまった。
「いや、何か違界関係の対応してたから遅れたとか? 別に怒ってねーし」
「攻撃された辺りの見回りをしていた」
「そーそー。そういうのでいいわけ。姉さんなんてオレのからかい全部去なしてくるしな」
未夜は清依の性格が今一掴めずにいたが、そうか無視しておけばいいのかと学んだ。
「それで、装置の方は?」
「ああ、預かってる」
ごそごそとコートのポケットの中から、片耳タイプの防御展開装置を取り出す。未夜や清依が使用している物よりやや大きいが、充分小型と言える大きさだ。
「さすが天才技師! これなら姉さんも満足だ」
受け取り、空に翳して見る。試着はしないが、重さも然程変わらず戦闘でも気にならないだろう。
「紫蕗くん何か言ってた?」
「いや、装置を預かっただけだ」
正確には宰緒から受け取ったのだが、紫蕗からの伝言は無かった。
「そ。じゃ、未夜くんはもう、ルナくん……だっけ? 警護に戻っていいよ」
「青羽ルナは違界だ」
「ん……? んん!?」
結理が執心する青羽ルナが危険に巻き込まれないよう、守るように未夜は言われているはずだが、その彼が危険な違界にいる?
「何で!? 姉さんそのこと知らないんだけど!」
「紫蕗が連れて行った」
「紫蕗くんが違界に行くのは知ってたけど……未夜くん、それ姉さんが知ったらボコられない?」
何故引き止めなかったのかと、追及されるのは目に見えている。どういう経緯なのかは置いておいて、青界の人間を故意に違界へ連れて行くことは理解できない。
未夜は過去の一件を思い出し硬直した。青羽ルナが絡むと碌なことにならない。
「とりあえず報告義務があるから姉さんの耳には入れておくけど、仕方ないなぁ、ちょっとだけフォローしとく」
「助かる……」
相当酷い目を見たことがあるんだろうなと、目線を落とし冷や汗を流す未夜を見て清依は察した。
「それじゃ未夜くん。他に何か無いならそろそろ戻る」
「無い、はずだ」
結理の恐怖の所為か、途端に自信が無い。恐怖で捩じ伏せるのは楽だが、畏縮しては正確な情報が得にくい。結理ももう少し柔軟になれば良いのにと清依は思うが、人の命が係わってくると厳しくせざるを得ない気持ちはわかる。難しい問題だ。
「紫蕗くんが出掛けてる今、未夜くんにここを全部任せることになるけど、頑張って」
緊張した面持ちで未夜は頷いた。下手を働かないように入念に見回りをしなければと改めて背筋を正す。
とは言え未夜一人で全て対応するのは難しいだろう。襲撃を待つ受け身ではなく、違界に頭を叩きに行かねば、この騒動は終わらない。違界に行った紫蕗が上手く遣ってくれることを願うしかない。そこに青羽ルナが連れて行かれたことは問題ではあるが。
清依はひらひらと手を振り、早急に結理に装置を届けるべく姿を消した。
残された未夜は辺りをぐるりと見渡す。誰も人がいないことを確認する。
病院周辺は天利がいるので、他の見回りをすることにする。
見回りと言っても目で怪しい所を探すしかないのだが。爆撃機なら電波を拾えないかと思ったが、最初の攻撃の時は電波が拾えなかった。違界で電波が拾えなかった時は違界の雑音の所為かと思ったが、青界でも反応しない所を見ると、どうやらあれは電波が発生しない物のようだ。どうやって空を飛ばしているのか、未夜には見当がつかなかった。紫蕗なら当たりをつけられただろうか。違界に行く前に訊いておけば良かった。
見通しの良い海辺を黙々と歩いていると、犬を連れた人間が散歩していた。襲撃があっても散歩をする余裕はまだあるらしい。暖かい春にぴちりとコートを着て歩く未夜を不審そうに横目で見ながら、犬と人間は通り過ぎていった。襲撃の悪夢を振り払おうと、日常生活に縋っているのかもしれない。
大層な襲撃の後から、青界の国が何もしていないわけではない。調べてはいるようだが、国内にも国外にも怪しい爆撃機を飛ばした痕跡は無い。どころか、急に現れて急に消えたという話ばかり出てくる。違界から転送されてきた物なのだから、青界の何処にも痕跡が無いのは当然だ。そのおかげで身動きが取れず対応が遅れているのである。集団で夢でも見ていたかのように。破壊された痕や死傷者がいなければ、夢だと思われただろう。
未夜も情報収集のために青界のニュースは確認しているが、進展は無い。違界は青界から見えないのだから、怪しい動きは何処にも無いとしか言えない。怪しい動きが無いとニュースが流れれば、人々は警戒を弛める。非常に不味い状況と言えた。
攻撃されれば未夜は向かうが、どうしても受け身で後手に回ってしまう。攻撃される前に気付きたいが、現状それは難しい。
犬と人間の姿が完全に見えなくなった頃、微かに銃声を耳に捉えた。散歩の人間の方向ではない。住宅地の方向だ。
足をそちらへ向け、地面を蹴る。同時に空を一瞥するが、暮れる空には何も飛んでいない。
電波を辿ってみるが、防御展開装置は装着していないようだ。城の中に防御展開装置を装着する習慣は無い。当然か。
もう一発、銃声が響く。先程より近い。
音を頼りに住宅の角を曲がると、男が倒れていた。真新しい鮮血が流れている。脚と胸に一発ずつ。気を失っているのか死んだのか、動かない。
その先に白い服を着た男がいた。未夜に気付き、銃を構え直す。
(雑兵が投入されていたとは)
走る速度は落とさず姿勢を低くし、袖の中から紐のような物を噴出する。紫蕗の持つ糸のような武器より劣るが、充分有能な武器だ。線が太い分視認は容易だが、速度は使用者次第。これを未夜は何年も掛けて使い熟せるようになった。
「――!」
男の首がぼとりと地面に転がった。白い服が見る見る真っ赤に染まっていく。司令塔を失った体もぐらりと傾き、地に沈んだ。
その手で次の角に潜んでいた人間の首も落とす。城の人間は殺気も気配も消せないようだ。城の外の人間とは積み重ねた戦闘の場数が違う。
(この辺りにはもういないか……少人数で分かれて行動してるのか)
もう息の無い城の人間達を、死体専用だと持たされている収納装置に仕舞う。通常の収納装置にも仕舞うことは可能だが、普段使用する物と死体を一緒に収納したくないという要望から供給された物だ。違界人の死体をそのまま放置するのは面倒の元だ。今回も例に漏れず回収しておく。
撃たれた青界の人間は意識が無いが、他にも城の人間が潜んでいるかもしれない状況で一人に時間を取られたくない。非情ではあるが、置いていく。代わりに周囲の家のインターフォンを押しておく。先程の銃声で住人が外に出てきてくれるかはわからないが、閉めきったカーテンの隙間から少しくらい様子を窺ってくれることを願って押しておく。倒れている男が目に入れば、医者を呼ぶくらいはしてくれるだろう。
(最初から住宅地を狙っているということはやはり、殺すことが目的か?)
爆撃機を警戒して空を見上げていたが、地上の警戒も強めなければならない。一人では無理だと未夜は思ったが、その一人さえも心が折れてしまえばもう、他には誰もいない。一人だけでも遣れるだけのことは必死に遣らなければ。
結理に装置が届けられたかはまだ不明のため清依に連絡を入れながら、未夜は住宅地を走った。
* * *
――銃声が聞こえた。気がした。
スーパーマーケットで買物を済ませて出てきた雪哉は、荷物持ちの拓真と共に立ち止まった。気の所為かもしれなかったが、その音は二人共に聞こえた。周囲の人々には聞こえなかったようで、表情は変わらない。その音を日常の中で危険な音だと脳に認識されなかったのかもしれない。
「聞こえたか? 拓真」
「オレは親から少しそういう教育を受けてるからわかるけど、ユキは地獄耳だよね」
「うるせ」
自転車の籠にそれぞれ荷物を載せ、周囲を見回す。
「続けて二発だったと思う。威嚇射撃じゃないね」
「近いか?」
「こっちが風下になってるから、思ってるよりは遠いかも」
「どの辺かわかるか?」
「さあ……正確にはわからないけど、住宅地の方だね」
「……お前にそんな特技があったとは」
「わかって訊いてたんじゃないのか」
冷静を装ってはいるが、相手が銃を所持しているのなら、どう対抗すればいいのか考えがつかない。殺されないためには逃げるのが一番確実な方法だが、爆撃機もまたいつ空を飛ぶかわからない。
進展も無く脅威も見えないニュースばかりということもあり、こうして普通の日常を送ろうと外に出る人間も少なくない。雪哉もまた、家の食堂の定休日にこうして買い出しで外に出ているわけだが。
自転車に跨り、周囲に意識を向けながら漕ぎ出す。
日常を送ろうとする人間もいるが、恐怖で震えて避難する人間もいる。こんな状況のため学校は休校となり、避難所として開放されている。それがどれほどの意味があるのか、まだよくわからない。丈夫な建物であるのは確かだが。
「避難って言っても学校に地下とかシェルターがあるわけでもねぇし、実際どうなんだろうな」
「一箇所に集まることで、心細さだけは緩和できるんじゃないかな。守る時も、あちこち意識を分散させなくてもいいし」
「心細さ、ねぇ……」
逆に意図して狙われてしまうと袋の鼠だ。
「学校じゃないけど、それこそ洞窟とか?」
会話を続けながらも耳を澄ませているが、あれから銃声の類は聞こえてこない。
「……発信機つけて俺が彷徨いた場所、全部危ないよな? やっぱり……」
こんなことになるなら、記憶探しなどと言ってあちこち徘徊しなければ良かった。
「否定はできないね……。ユキの家も、学校も……。でも、こっちに来てしまえばどの道もう発信機なんて気にせず自由に動き回るんじゃないかな……」
「花菜を安全な所に行かせたいが、何か思いつく所はあるか?」
「県外かな……でも今、飛行機に乗るのは、ちょっと怖いね」
「だよな……」
それこそ転送装置で移動すればと考えるが、本格的に違界が攻めてくれば、何処にも逃げ場など無いだろう。
「だったらもう一緒にいてあげた方が、花菜ちゃんは安心するんじゃないかな」
「それは吝かじゃねぇけどよ……」
一緒に避難しても、誰が守ってくれるのか。
「やっぱり武器は必要だよな……」
「怪我の多いユキには必要だと思うけど、渡すと率先して怪我しに行きそうだから」
「俺そんな馬鹿じゃねぇし」
「ここまで説得力の無い言葉も珍し――」
また銃声が聞こえた。微かに、だが。
「さっきの奴か?」
「わからない……けど方角は違う。さっきと距離は違いそうだけど、転送できるなら移動時間を考えても無意味だ」
「!」
耳を澄ませる拓真に向かい、雪哉は唐突に思い切りペダルを蹴って飛び掛かった。
「えっ!?」
行動に理解が及ばないままガシャンと大きな音を立てて自転車が倒れ、買い出した食材が籠から跳ねる。それも気にせず、雪哉は拓真の腕を痛むほど強く掴み引き摺るようにして近くの頑強なコンクリート壁の建物の陰に、倒れ込むように転がり込んだ。
直後、腹の中の物が全て飛び跳ねそうなほどの轟音が辺りを揺らした。
おそらく一瞬だった。だが何十秒も続いていたかのような感覚があった。暫くは強く目を閉じ音が去るのを待つ。
きつく閉じた目を恐る恐る開けると、そこにあった日常が跡形も無く崩れ去っていた。
「な……」
乗っていた自転車は無惨に瓦礫の下で拉げていた。
「何か飛んでるのが見えた。話には聞いてたが、爆撃機って思ったより小さいな……」
「無人機らしいから、その分小さくできるんじゃないかな……」
雪哉に腕を引かれていなければ自分も今頃あの自転車のように潰れていたのだろうと呆然としながら、半ば上の空で拓真は答えた。冷静に会話しているように見えるが、頭は全く働いていない。現実が上手く嚥下できない。
雪哉が転がり込んだ建物は上の壁が崩れているものの、下の被害は亀裂だけで事無きを得ている。隣の建物は天井が落ちて潰れていた。偶然か意図的に選択したのか、雪哉がいなければ拓真は死んでいた。話に聞いていた通り本当に爆撃機は音がしなかった。耳に頼っていては駄目だ。
「花菜が心配だ。早く家に帰る」
「あっ、待ってユキ!」
立ち上がりかけた雪哉の腕を引く。上げた腰を再び下ろして地面に膝を突き、怪訝な顔で拓真を見る。
「本当は渡さない方がいいんだろうけど……」
ポケットから折り畳み式のナイフを取り出し、雪哉に差し出した。武器を持たせると死に急ぎそうだが、持たせず死ぬ方が後味が悪い。
「いいのか?」
「自分から突っ込んでいくのは駄目だからね? いざって時のために、一応渡しておく。この騒動が終わったら、その手でちゃんと返して」
ナイフを受け取り、握り締める。拓真の仕様が無いという気持ちは伝わった。
「安心しろ。ちゃんと返す」
今はまだ必要ではないとナイフはポケットに入れ、立ち上がる。拓真に手を差し伸べると、しっかりとその手を掴んだ。
自転車の籠から飛び出し潰れた卵を見下ろし、周囲に目を遣る。あちこちから黒い煙が上がり、呻き声が聞こえた。無傷でいることが奇跡のようだ。助けを呼ぶ声も聞こえる。
「本当はここにいる人達に手を差し伸べるべきなんだろうが、俺は妹が大事だ。ここにいる人達を見捨てることになっても、俺は花菜の所に行く」
稔が命を賭して守った花菜を、知らない間に失いたくない。
「……うん」
自分に言い聞かせるように口上を述べる。生徒会長だった彼は、学校の生徒全員のことを考えていた。あの時とは違う口上に、拓真は静かに頷いた。綺麗事ではない、皆のためではなく、自分や最も身近な人のために動こうとする雪哉の方が人間らしいと拓真は思った。
「それでいいと思う」
雪哉は兄を失っているのだ。これ以上彼から何も奪わないでほしい。
「両親も買い出しだよね? 花菜ちゃんを一人にしておけないよ」
拓真が、近くにいる人達を見捨てられないと引き止めるような『良い人』じゃなくて良かったと雪哉は思った。
「ありがとな」
足元を確認し瓦礫を踏み越え、二人は呻き声を背に走り出した。振り返り暮れる空を見上げるが、爆撃機はもう見えない。離れた場所で煙が上がっているのが見えた。
「弾が切れると違界に戻る、ってとこか」
「小さい分、積める弾も少ないみたいだね」
道を塞ぐ瓦礫を攀じ登りながら、状況を分析する。そうしていないと感情がぐちゃぐちゃに砕けてしまいそうだ。
あちこち散乱する瓦礫と動かない人間が、焦燥と恐怖を駆り立てる。瓦礫の下から食み出す動かない人間の肢体から目を逸らしながら走る。
あの角を曲がれば家はすぐそこだ。止まない瓦礫の道が不安を煽る。ここまで瓦礫が転がっているとは、思いたくなかった。
「!」
角を曲がり食堂が目に飛び込むと、二人は言葉を呑み込んだ。
「花菜!」
食堂の半分ほどが瓦礫と化している。定休日だったのは不幸中の幸いか。裏から住居に入ろうと、小さな瓦礫を退かし、歪んでしまったらしいドアを抉じ開ける。窓は割れているが、それ以外は幸い居住場所に目立った損傷はなかった。
迷わず階段を駆け上がって勢いよく花菜の部屋のドアを開け放つ。
「!?」
花菜は俯せに床に倒れていた。床に硝子片が落ちているが、カーテンが閉まっているためあまり飛び散ってはいない。
「大丈夫か花菜!?」
急いで駆け寄ると、ゆっくりと花菜は身を起こした。良かった、動けるようだ。
「兄ちゃん……? 喜久川先輩……?」
「何があった!?」
身を起こす助けをしながら、雪哉は焦燥を呑み込む。自分が取り乱していては、花菜が不安になるだけだ。
「凄い音がして……揺れて、びっくりしちゃって、転んだの……」
「そうか……」
それは一人で嘸かし怖い思いをしたことだろう。雪哉は花菜を強く抱き締めた。半壊した食堂が目に入った時は肝を潰したが、無事で本当に良かった。
「花菜ちゃん、怪我してる。転んだ時に擦り剥いたんだろうね」
膝から少し血が出ていた。慌てて花菜を離し、雪哉もそれに気付く。
「絆創膏取ってくる」
忙しなくバタバタと部屋を出ていく。その間拓真は近くの箱ティッシュを借りて血を拭った。
「花菜ちゃん、これから避難するから、必要な物があれば持って行こうか」
「避難……あの、何があったんですか?」
花菜は一度違界に足を踏み入れている。真実を話しても下手に混乱はしないだろう。嫌なことも思い出すかもしれないが、この状況を適当な言葉で言い包められない。鬱ぎ込んで部屋から出られなかったことも知っているが、外に出れば嫌でも現実を突き付けられてしまう。
「最近、近くで爆撃があったのは知ってるよね? 違界の人が攻めてきたんだ。ここも今、その爆撃に遭った」
「違界……」
不安な顔が更に曇る。兄の稔のことが脳裏を過ぎったのだろう。残酷だが、誤魔化すこともできない。
花菜は潤む目を擦り、クロゼットから白い小さなリュックサックを取り出した。新品の鞄だ。
「稔兄ちゃんが誕生日にくれた鞄です……」
誕生日の件は拓真も雪哉から聞いていた。稔が死ぬ前に用意していた物だ。同時に雪哉にもプレゼントがあったと、拓真は何度も万年筆を見せられたが、花菜には見せびらかしていないだろう。
「うん。大事な物は持って行こう」
片手が塞がるハンドバッグではなく両手が自由に使えるリュックサックという所は、転びやすい花菜への稔の配慮だろう。
バタバタと消毒液と絆創膏を手に戻ってきた雪哉に、少しだけ状況を説明したことを伝えると、彼は目を伏せて複雑な苦い顔をした。できれば言いたくなかったという顔だが、これから外に出る以上それは不可能だ。
「――よし、これで大丈夫だ。行こう」
絆創膏を貼り、手を引いて立ち上がる。怪我には不安があったが、蹌踉めいたりはせずいつものように歩けている。
外に出ると、来る時は必死すぎて考えていなかったが、瓦礫が散乱する道を花菜が歩けるとは思えない。海辺の岩場なら花菜は一人でも遊びに行っているが、瓦礫は不安定すぎる。
「花菜、背中に掴まれ。背負う」
「え? う、うん」
しゃがんで背を向ける雪哉に多少躊躇いつつも、花菜は言われた通り素直に背に跨った。
「――よ、っと」
立ち上がると、普段の景色よりも上からの目線で、遠くまで瓦礫が見渡せた。
「高い……」
「怖いか?」
「ううん、大丈夫」
百八十センチメートル近くある背の高い雪哉の後ろからひょっこりと頭を出しながら、花菜は首を振った。普段他人の頭の天辺を見る機会の無い花菜は拓真の頭を珍しげに見下ろす。
「ユキはでかいからなぁ」
「とりあえず学校行ってみる」
遠くで銃声が聞こえる。悠長に話している場合ではない。
学校は避難所になっている。人が集まっているなら、今後どうすれば良いのか何か聞けるかもしれない。身軽な拓真が先を行き、足場を確かめる。雪哉は片手で花菜を支えながら、片手だけで不安定な瓦礫に手を突く。
酷い有様だった。違界の脅威が去ったとしても、もうこの壊れた家には住めない。中には元クラスメイトの家もあった。二階建ての家だったはずだが、一階ほどの高さになっていて、壁に穴が空いていた。中から声や物音は聞こえない。留守だと祈るしかない。火が出ている家もあるが、この瓦礫では消防車もすぐには来ることができないだろう。
瓦礫の所為で時間が掛かったが、学校が見えてくる。遠目でも屋上が欠けているのが見えて、嫌な予感がした。
「っ……」
三年間通った学校は、半壊していた。目立つ大きな建造物は重点的に攻撃されたらしい。それでも半壊で済んでいるのは、分厚く丈夫なコンクリート壁だからだろうか。
大勢の人が中にいただろう体育館も屋根が落ちている。瓦礫から引出された人々がグラウンドに血を流し呻きながら並んでいた。
ここはもう、避難所として機能していない。
「何処に行けば……」
他に当てが無かった雪哉はぽつりと不安を漏らしてしまった。他の学校に行くこともできるが、こんな有様を見ては足が向かない。
「オレの家族と合流しよう。オレより親の方が慣れてるはずだから」
「……わかった。何処にいるかわかるか?」
「家にいると思うけど……ここから少し離れてるから、爆撃を免れてると思う」
再び走り出そうとした時、近くで銃声と悲鳴が聞こえた。学校の敷地の中だ。
「行くよ、ユキ」
「ああ……」
人が集まると心細さは緩和されるかもしれないが、同時に狙われてしまう。相手の目的にもよるが、違界人の狙いは殺戮だ。これではっきりした。
銃相手には逃げるしかない。助けられない。中には知り合いもいるかもしれないが、どうにもできない。
天利なら銃相手でも戦えそうだが、あの病院はここから遠い。乗り物が無い今は時間が掛かりすぎる。
今は必死に瓦礫を越えて拓真の家族に助けを求めるしかない。拓真の家が無事なら、車もある。瓦礫で通れない道は迂回して病院に行くのも手だ。一気に道が開ける。
瓦礫で手が擦り剥けても構わず走った。一刻も早く、花菜を安全な場所に連れて行くために。足元の瓦礫に集中しなければ。
「ユキ、疲れたら代わるから」
「……大丈夫だ。花菜は……軽いから」
それでも少し、息が上がっている。先程からずっと背負いながら走り通しだ。疲労も相当溜まっているだろう。
少し手を貸そうと、拓真は前方の足元を確認して振り返った。
「ユキ……」
伸ばしかけた手が、止まってしまう。いや、動かせなくなった。言い掛けたまま、固まってしまう。呼吸が乱れていく。
いつからだ……?
いつから、こうなっていた?
白い首筋に、鮮やかな赤が流れていた。
両腕はだらんと垂れ下がり、力無く揺れている。
「花菜ちゃんが……」
――花菜の首が、無い。
雪哉がそれに気付いていないはずがない。首筋にぬるりとした生温かい感触が流れていることに。息が上がっているのは、走っている所為じゃない。認めたくないことに、動揺しているからだ。
拓真は震える声を絞り出すが、真実を口にしてもいいのか。口にしてしまったら、どうなるのか。全身が寒くなっていく。
「ユキ……!」
花菜の首の断面は後ろが低く前が高くなっている。背後から切られたのだ。おそらく雪哉の首と共に撥ねようとした。だが届かなかった。背後には今、誰もいない。他の人間を殺しにでも行ったのか。銃声ばかり聞こえていたので、音の出ない刃物を持つ者もいる可能性を考えなかった。
雪哉は瞳を震わせながら、睫毛を伏せた。
「……言わないで、くれ」
本当は気付いていた。いつからか、首筋に伝うものがあることを。足元に集中していて、いつからかということはわからない。ふと背中の重さが変わっていることに気付き、それでも不思議には思わなかった。そんな余裕は無かった。一刻も早く安全な場所に行くために目の前に転がる残酷な現実を、見ない振りをしたのに。これは、その罰なのだろうか。
「わかってる……わかってるんだ……」
認めたくないだけだ。目が視線の所在を探して虚ろに揺れる。そしてそのまま震える足で歩き出そうとする。死んでいることを、認めたくなかった。
「!」
不意に視線を感じ、拓真は周囲を見渡す。これは――殺気だ。ポケットからスタンロッドを抜くが、相手が銃ならば、スタンロッドでは防げない。それとも――花菜の首を切った刃物使いか。
先を急いで前ばかり見ていた時は気付かなかった。これが違界なのかと、拓真は奥歯を噛んだ。カマキリの畸形の奇襲があった後、違界のことを更に親から教えてもらっていた自分がもっと注意すべきだったのに。
この状態では雪哉は動けない。拓真が一人で状況を打破するしかない。
「ユキは下がってて」
もう何も奪わないでほしいと願ったのに。
雪哉の服を引き、建物の陰へ転ばせる形になったが、地面に伏せさせる。背負っていた花菜もごとりと置物のように力無く地面に投げ出された。
瓦礫の陰から出てきた人間は、銃を持っていた。姿を見るや銃弾が脚を掠める。今度は警戒を絶やさない。刃物使いもきっと近くにいる。
「っ……!」
反対側の瓦礫から、刃物が飛び出してきた。――こいつだ。
振り下ろされる刃をスタンロッドで受け止める。みしりと、重い。こんな細いスタンロッドで、剣の重い攻撃を受け止めきれるのだろうか。ロッドに罅が入るのが見えた。
(受け止めきれない……!)
ロッドから片手を離し、刃を流しながら空いた手でもう一本持っていた折り畳み式ナイフをぱちりと握る。以前畸形と戦った時、ロッドは容易く斬られてしまった。それによりロッドだけでは不安を覚え、ナイフも持ち歩くようになった。あんなことはもう二度と御免だと思った。備えていて本当に良かった。
ばきりと音を立て、ロッドは真っ二つに折れる。
流した刃が頭を逸れて肩に落ちてくる。伸ばしたナイフで再び刃を受けた。ぎりぎりと嫌な音が耳を突く。
その瞬間だった。静かに赤い液体を撒き散らし、腕が宙を舞った。
「え……」
拓真の腕ではない。剣を握った手が瓦礫に叩きつけられて転がった。
同時に刃物使いの胴が真っ二つになり、ぐしゃりと地面に崩れる。
銃口を向け直した人間の銃身と体も二つになって落ちた。
「なんで……」
拓真は呆然とするしかなかった。一瞬、自分の腕が飛んだのかと錯覚した。
それは鎌鼬のように、瓦礫を蹴ってふわりと拓真の前に降り立った。
学園祭を襲った、両腕にカマキリの大鎌を生やした畸形の少女だった。突然謝りに来たという話は聞いていたが、また雪哉を狙ってきたのか? こんな時に。
「ゴミ、生きてる」
少女は振り返り、地面に力無く伏せる雪哉の無事を確認した。
瓦礫の家々を跳び越え、少女と同じ大鎌の両腕を持った少年も瓦礫に降り立つ。少年も雪哉を一瞥する。少年の方は、拓真は初めて見る。話だけは雪哉から聞いていた。
「オマエ、誰」
少女は拓真に軽く刃先を向けた。攻撃かと身構えるが、どうやら違うようだ。
「一応会ったことはあるんだけどな。脚と腕を遣られたんだけど」
眼中に無いのか少女は小首を傾ぐ。
「マト、こいつ誰」
「僕は知らないけど、ディアが暴れた時に傷付けた人かもしれない」
ディアという少女よりは、このマトという少年の方が話ができそうだった。
「ディアはもう、あなた達に危害を加える気はありません」
「本当にそうか? 花菜ちゃんの首を落としたのが、その鎌じゃないって証拠は?」
人間を容易く両断できる鎌なら、充分に有り得る。何しろ花菜の首を落とした犯人を誰も見ていないのだから。
「僕達はこの騒ぎが何なのか知りたくて動いていただけです。あなた達を見つけたのは偶然で、その時にはもう首の無い死体でした」
首の無い死体。拓真は雪哉を振り向くが、彼の耳には届いていないようだった。伏せたまま力無く動かない。
「こいつ、何言ってる? 私、殺してない」
ざくざくと瓦礫に鎌を刺し、困っているのか哀れんでいるのか、複雑な表情をする。表情と言ってもあまり変化の無いほんの少しの感情だが。
疑いは晴れないが、助けてくれたことは事実だ。それだけは、見ている。下手に疑って争うより、一時でも味方と認めてしまえば、これほど心強い味方もないかもしれない。
ディアはきょろきょろと、何かを探すように辺りを見回す。まだ敵が潜んでいるのかと拓真は警戒を強めるが、そうではなかった。
「それは?」
マトは気付いているようだったが、ディアはまだこの首の無い体を花菜と認識していないようだ。
地面に転がる首の無い体を見下ろす。雪哉はゆっくりと身を起こすが、魂が抜けたように座り込んで俯いて動かない。
「……花菜ちゃんだよ」
彼に聞こえないよう、拓真は小声で話した。ぴくりと、ほんの少しディアの表情が陰った。気がした。
「聞きたいことがあるんですが、これは一体何の騒ぎなんですか? これは、違界と変わらないような……」
ニュースなど見ていないのだろう、マトは眉を寄せる。
「違界の人が襲ってきてる。詳しいことはわからない」
「そうですか」
感情の籠もらない声だった。
状況を完全に把握している者などここにはいない。聞きたいのはお互いだ。
ただ、違界人が理由が何であれ襲ってきていることだけが事実だ。
マトは鎌を引き、ディアに何やら耳打ちする。ディアはこくんと頷いた。
「ディア、この人達を守ってあげて」
「隠れなくていい?」
「緊急事態だから、いいよ。でもこっちの世界の人達をできるだけ怖がらせないように」
「ゴミ、守る」
ゴミというのは雪哉のことらしいが、酷い渾名をつけられたものだ。
「ディアを使ってあげてください」
拓真に向き直り、マトは深々と頭を下げた。
「……ユキ、行こう」
立ち上がろうとしない雪哉の腕を引き、無理矢理立たせる。さすがに雪哉を背負うのは難しい。自分の足で歩いてもらわなければ。
首の無い花菜から引き離すのも酷だが、死体を連れて行けない。雪哉にはもう彼女を背負う力は残っていない。
マトは器用に鎌を動かし、花菜の背から赤の混じった白いリュックサックを引き上げた。拓真に手渡し、もう一度頭を下げる。
ディアは切れない鎌の背で雪哉の背を押す。早く行けと促しているのだろう。拓真は雪哉を引き摺るように、支えながら瓦礫の中を再び歩き始めた。マトはついてこなかった。避難所の人達を助けに行くのだろうか。
先程よりも速度が落ち、いつ喜久川家に辿り着くかわからないが、ディアは何も言わず静かに後ろをついてきた。乗り越えるのが困難な大きな瓦礫は、ディアが鎌で斬り開いてくれた。あの鎌にスタンロッドを斬られたことを拓真は思い出す。瓦礫を容易く斬る鎌を、華奢なロッドが受け止められるはずがない。
「――ぁ」
小さな瓦礫に引っ掛かり、雪哉が地面に膝を突く。普段では有り得ないことだ。危険の最中だが、少し休んだ方が良いだろうか――
「わからない……」
ぽつりと、聞き耳を立てないと聞こえないような声で、雪哉が零した。
「確かに触れてたのに、いないのがわからない……」
軽くなった背中が、随分と小さく見えた。拓真より背丈があるのに。まだ首筋に赤が伝っていることに気付き、拓真はハンカチで拭ってやった。首筋に血なんて流しているから、雪哉まで斬られたのかと気が気ではなかった。
「なんで……」
俯いた顔から、髪の隙間からぼろぼろと滴が零れた。ディアは不思議そうに覗き込もうとしている。
何と声を掛けていいか、すぐに言葉が出なかった。兄の稔に続き妹の花菜までもその手から零れ落ちてしまった。気安い慰めなど逆効果だ。苦虫を噛み潰したように唇を噛みながら、見下ろすしかできなかった。
「花菜……」
花菜はこんな兄を本当は疎ましく思っていたかもしれない。最初に花菜を嫌ったのは雪哉だ。雪哉のことを本当はどう思っていたのかなんて、わからない。雪哉も本当はまだ花菜のことを好きになりきれなくて、まだ嫌う気持ちが残っているのかもしれない。稔からの最期のプレゼントで嫉妬して、それが答えだと思った。二人への嫉妬だと気付いても、晴れやかに好きなどとは言い切れなかった。
――なのに、なのにどうしてこんなにも、涙が止まらないのだろうか。
雪哉は震える手で、ズボンのポケットに手を入れた。
「!」
そこに何が入っているのか、拓真は覚えている。
雪哉は拓真から借りた折り畳み式のナイフを手に、刃を首に翳した。
「やめろ!」
躊躇いが無かった。止めるために拓真は必死に手を伸ばしたが、届かなかった。
代わりに拓真の剣幕に異常を察したディアが、鎌でナイフを弾いた。ナイフは空高く舞い、カシャンと瓦礫に跳ねた。
「何をしようとしたかわかってるのか!?」
何処も見ていない虚ろな目の雪哉の胸座を掴み上げた。
「そのナイフは! 死ぬために渡したんじゃない! その手で返せって言っただろ!」
「…………わからない……何も……何で稔も、花菜も……俺を置いて行ったんだ……」
「……!」
「いないはずないのに、何処に行ったんだ…………家……? そうか家に……帰ったのか……?」
胸座を掴んだ手が震えた。雪哉の目は何も見ていない。がくがくと力無く揺すられるだけだった。
(混乱してる……どうしよう、このままじゃあんまりだ)
手を離すと、ぐったりとしていた。涙を止めてやれない。
拓真は違界の行商の千名艸弥から買った睡眠スプレーで、雪哉を眠らせることにした。拓真が背負うことになるが、仕方がない。
ディアは交互に顔色を窺うが、眠らせるだけだと言うと大人しく引き下がり、瓦礫に頭を突っ込んだ。
何をしているのかと様子を見ているとやがて顔を上げた。口に先程弾いたナイフを咥えている。鎌の両手ではナイフは掴めない。だから口なのかと納得した。
戻ってきたディアからナイフを受け取る。
「返す」
ああそうか。さっき返せと言ったから、拾ってきたのか。
ナイフを畳んでポケットに突っ込み、雪哉を背負う。眠っているので、余計に重く感じた。
花菜のことがあったので背後を念入りに確認し、注意を払いながら足を引き摺るように雪哉を運んだ。