袖の中のもふもふ
九戦目。
そろそろ大詰めだ。
ハーケンはよくやってくれた。
今度は私が、観客を魅せなければならない。
「"病毒の王"様。さっきの死霊騎士様ぐらい、正々堂々と戦って下さいね?」
「もちろんだとも。私は常に正々堂々と振る舞っているつもりだ」
「……それでは、試合開始です!」
流された。
何を言っても無駄だと学習したのだろう。
人が何かを学習するというのは、簡単な事ではない。
誰もが、『当たり前』を持つ。
十八歳までに知った偏見が常識だという言葉もあるが、積み重ねた偏見と常識を分けるものは、何もないのだ。
ゆえに、学ぶ事は、時に痛みを伴う。
痛みを伴わない教訓に、きっと意味はない。
だからこそ私は、今日ここで、『最小限の痛み』になるべく奮闘しているのだ。
まあそれはそれとして、私は微笑みを浮かべた。
「とっておきを見せてやろう」
「これ以上、手品などに……!」
「おいで」
ちょい、と深緑のフード付きローブの裾をつまみあげ、ばさり、と振った。
ぞるり、と黒い影の塊が練兵場の床に落ちる。
不定形の塊が、即座に一つの形を作った。
夏の日差しの下に出来る濃い影をほどいたような、全身の艶やかな体毛。
ふさふさの愛らしい尻尾。
ぴんと伸びた愛らしい耳。
一匹の、黒い犬。
「うちの可愛い黒犬さんのお披露目だ」
黒妖犬。
「――ってマスター! なんですそれ!?」
「おい! 今何をした!?」
リズとレベッカが相次いで叫ぶ。
会場もざわざわと、不安に満ちた空気に包まれる。
「"病毒の王"様……? それは……そのー?」
そろそろとバーゲストから距離を取った、引きつった顔の審判役の犬耳さんに、安心させるように微笑んだ。
「黒妖犬だよ。その反応を見ると知ってるみたいだけど、私に従うから大丈夫」
「先の試合の後……召喚具による召喚生物の召喚は禁止って言いましたよね……?」
「いつ召喚したの?」
私は笑みを絶やさずに辺りを見回した。
「――私がいつ『召喚具』を使って『召喚生物』を『召喚』した?」
「で、ではそれは?」
「私の事が好きすぎて、『うっかり』ローブの裏の影に潜んでいたみたいだね。これは仕方ない、うん」
わざとらしくうんうんと頷いて見せる私。
「そういう茶番いいですから」
「言うようになったね」
「ひうっ」
「いや、褒めてるよ。――さて、この子は私に従属しているバーゲストだ。もちろんバーゲストをローブの裏に潜ませておくのは攻撃呪文には相当しない。念のため確認するがルールには、『従属した魔獣の使用を禁ずる』という文言が?」
「あるはずないです……もう好きにやっちゃって下さい……」
「さて、そういう事だ。牙は立てないように言ってあるから、ハーケン相手よりかは勝ち目があるぞ。頑張れ」
「ああ。所詮犬ころ一匹……!」
若手暗黒騎士が叫ぶ。
「――犬ころ?」
イラッとした。
「悪い。心の余裕をなくした」
「今さら遅いな。すぐにこいつを倒して――」
「おいで。お前達」
ローブの裾を持って、ばさばさと振る。
ぞるり。ぞるり。ぞるり……。
「……は?」
呆けたような声が、若手騎士から漏れる。
さらにローブをばさばさと振る私。
ぞるり。ぞるり。ぞるり……。
最後に、両袖を振った。
ぞるり。ぞるり。
「暗黒騎士として以前の、基本的なマナーを教えておいてやろう。――人のペットを馬鹿にするもんじゃない。食い殺されても文句は言えないぞ」
総数十二匹のバーゲストをローブから振り落とし、取り囲ませる。
バーゲストは、中位に分類される魔獣だ。
一匹でも並の兵士では勝てないが、暗黒騎士なら十分に勝ち目がある。
今回は相手の武器が木剣なのと、訓練なので、牙は木剣だけ狙って使うように言いつけてある。
まあ五分五分といったところだろう。
――あくまで訓練であり、私はきちんと相手に勝てる可能性を残している。
しかし、数が増えると話は違う。
黒妖犬は、数が増える度に危険度が跳ね上がっていく。
十匹という数は、精神魔法の安全限界というのもあるが、それ以上の数が危険すぎるからだ。
「な……これ……?」
バーゲストが一糸乱れぬ動きで、じり……と一歩踏み出し、距離を詰める。
群れの連携は恐らく魔法的なもの――リズの言葉が身に染みる。
明確な繋がりを、感じる。
私は、この群れの最上位なのだから。
「ハーケンの方が勝ち目あったかもな。訓練だからと手加減してくれる優しさを持った紳士だから」
バーゲストは、単独で中位に分類される。
そして群れる性質を持ち、群体として厳密な個を持たぬゆえの、魔法的な連携能力を持つ。
犬科は、連携して狩りをする。ただの犬や狼でさえ素晴らしい連携を見せるが、黒妖犬のそれは芸術だ。
そしてもう一つ恐れられるのは、敵を見定める目の上手さ。
勝てると見込んだ相手だけを襲い、不利とみれば素早く逃げる。
賢い魔獣ゆえに、報復を恐れて、あまり人里を襲わないのだけが救いの、恐るべき魔獣だ。
多対一が、バーゲストの戦い方。
それも相手が一人で、武器が木剣となれば。
暗黒騎士でさえ、ただの獲物だ。
「あ、お前達。牙を使うなと言ってたな。あれ、なしだ」
バーゲスト達が、一斉に牙を剥いた。
「ひっ……」
ダークエルフの褐色肌でさえよく分かるほど、顔色が蒼白になった。
「降参! 降参する……!」
「それで?」
「だから、降参する!」
必死な声には耳を貸さず、私は重ねて問いかけた。
「――それで? 私が聞きたいのはそんな言葉じゃないんだが?」
「え……」
「お前は、うちの可愛いバーゲストを『犬ころ』と呼んだ」
また一歩、一糸乱れぬ動きで輪が狭められる。
「それは、"第六軍"へ属する全ての者への侮辱だ」
「……っ……謝罪……そう! 謝罪する!」
「随分と偉そうな事で……」
さらに一歩、輪が狭められた。
唸り声すら上げない。
隣のバーゲストと見合う事もない。
ただじりじりと、包囲の輪を狭めていく。
「ああ……そうだ。『降参』したな? つまり殺害を禁じる訓練規定に縛られないというわけだな。暗黒騎士団との関係は悪くなるだろうが、陛下が問題にしなければ罪にさえ問われない。お前一人の命が『たかが人間の最高幹部』の地位と釣り合うか……試してみるか?」
誰も、一言も発しない。
事の成り行きを、固唾を呑んで見守っている。
「っ――この通りだ!」
彼は、片膝を突き、剣を自らの前に置き、頭を下げた。
綺麗な、騎士の礼。
「貴方に従属する魔獣を、犬ころと侮辱した事を、騎士の誇りに懸けて謝罪する。偉そうと受け取られるかもしれないが、これが私の知る最高の礼儀だ。――どうか、謝罪を受け入れて頂きたい」
「…………」
彼が顔を上げた。
「そして、それが叶わぬなら、どうか、これは暗黒騎士団とは関わりなき事として処理してほしい」
中々いい顔だ。
私は笑った。
「それは、受け入れられないな」
「っ……」
周囲の緊張が、ピークに達する。
「――お前は、暗黒騎士団を背負って、ここにいるのだぞ」
バーゲスト達が、するりと包囲の輪を崩して、私の周りに戻ってくる。
尻尾を振ってすり寄ってきた子の首筋を順番に撫でながら、緊張を終わらせるための一言を告げる。
「謝罪を受け入れよう」
緊張が解け、ざわめきが戻ってきた。
彼は、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございます……"病毒の王"様」
「その礼は、後ろに言うのだな。――団長殿も、お前の仲間も、私が首を横に振れば切り込んできたぞ。木剣でバーゲスト十二匹と戦う事すら、厭わずに」
彼は、弾かれたように後ろを見た。
ブリジットは軽く木剣の柄に手のひらを載せているだけだったが、他は皆、臨戦態勢だ。
いかに暗黒騎士団とはいえ、普通は木剣でバーゲストを相手しきれる物でもない。だがそれでも、時間を稼ぐためにでも、彼らは戦っただろう。
視線を私に戻した彼は、深々と頭を下げた。
これで、あと一人だ。