灰の降る海
小国家群の、海沿いに点在する街や村が、思わぬ臨時収入に沸いたのは周辺住民にとって記憶に新しい出来事だった。
中型の船を多数出し、可能な限り浅い海を航行。荷物を送り届ける。
もちろん、危険はある。
海とは、大型の海棲魔獣が多数生息する、人間に非友好的な領域だ。
昼間に、なるべく浅瀬を選んで行われる細々とした漁業だけが、人間にとって安全な海との付き合い方だ。
さらに、船は小型であればあるほど安全だ。
あまりに小型だと転覆の危険なども大きくなるが、かつて大型船での外洋航海による、未知への挑戦が計画された話の顛末は、子供でも知っている。
湾を出た瞬間に、大海蛇に一呑みにされたのだ。
どうやら、大型船は獲物か、敵とみなされたらしい。
以後、大型船は設計すらされず、『大きな船』とは中型船を指す。
その中型船にしても、十年に一度ぐらいは、大海蛇に目をつけられて沈められる事がある。
だから、夜間を含む航海日程で、荷物を輸送するとなれば、それは一種の賭けだった。
けれど、陸上輸送もまた、分の悪い賭けになって久しい。
"病毒の王"。
かのおぞましき大魔法使いは、現在三大国を蹂躙する、自然災害に近い存在だ。
だが、重要度の低さゆえか、さすがに限界というものがあるのか、小国家群に属する街や村は、まだ襲われていなかった。
しかし、余裕のある物資を『援助』という名の下に売りつけようと隊商を組めば、三つに一つぐらいは無残に全滅させられるのだ。
ゆえに至った結論は、『海上輸送』。
海蛇の方が、"病毒の王"よりはまだマシという訳だ。
実際、それは正しかった。
"病毒の王"に比べれば、伝説の大海蛇の方が遙かにマシだった。
小国家群の中でも最大の規模を誇る港町、セレステン。
食料を中心とした物資が高値で売れ、船を仕立てた商船主と、水夫として乗り組んだ船乗り達が一財産を築いたのは、つい先日の事だったのだ。
だから、それを見た者がいれば、それは現実の事とは思えなかっただろう。
世界の全てが、赤かった。
海が、燃えていた。
積み込みを待っていた中型船だけでなく、小型の乗り合い漁船から、一人用の小舟に至るまで。
その全てが火を放たれ、無情な現実を照らす松明と化していた。
商船主の館と、船乗り達の登録所。そしてそれぞれの家。
その全てが、今は無人になっていた。
炎に気付き、駆け出すべき住民達はいない。
火を消すべき火消し組も、治安を維持すべき衛兵達も、大切な船を守るべき船乗り達も、野次馬さえも。
松明になった船から飛んだ火の粉が、一軒の家に燃え移り、ゆっくりと芦葺き屋根の木造家屋は炎に舐められていく。
そこに至ってなお、誰も出てこない。
火が燃え移り、家々が順番に燃え落ちていく。
その住民達は、全てが刃に切り裂かれ、牙に噛み裂かれ、死んでいた。
火の粉と灰が熱によって発生した上昇気流によって空へ舞い上がり、じきに熱を失って地上に舞い戻り、再び舞い上がるのを繰り返して拡散していく。
海に落ちた火の粉は消え、海に落ちた灰は海をほんの少し白く染めた。
その繰り返しで、地上は黒と白に、海は白く染まっていく。
歴史あるセレステンの町並みが、灰燼に帰す。
その瞬間を目撃し、語り継ぐ者は誰もいない。
しかし、焼け跡を見た者達が語り継ぐだろう。
胸に刻まれた、二度と消えぬ恐怖を。
大海蛇に飲まれた大型船のように、何よりも雄弁に語るだろう。
『海上輸送』という手段が、"病毒の王"を挑発し、死神の大鎌の前に自らの首を差し出すも同然の、狂気の沙汰であると。
そしてもう、船を作り、海に漕ぎ出すという行為そのものが、命の惜しくない者だけが行う、賭けなのだと――
「――以上です。陛下」
リズが、陛下への報告を終えた。
「うむ。このルートでの補給は最早ないと見てよいだろう。大義であった」
「いえ」
私は頭を下げる。
小国家群に所属する沿岸部の街や村を片端から攻撃したが、それらは船を沈め、船乗りをそれなりに仕留めればそれでよし、とした。
入念な調査をしている時間も、予算もない。
適当に船乗りとおぼしき家々を襲い、引き上げる。
それの方が遙かに簡単なのだ。
唯一の例外が、港町セレステン。
小国家群における最も有名な港町であり、中継点として船への補給を担う、今回の海上輸送の要でもあった。
セレステンの商船主組合が中心になり、小国家群の港町・漁村が協力して実現したのが、今回の大規模海上輸送だ。
ゆえに私が選んだのは、徹底的な破壊。
今回の攻撃目標の中で唯一、一人も残すなと命令した。
一つだけ誤算があるとすれば、火が燃え移って、町自体がほぼ全焼した、という報告だ。
私の計画では、セレステンに訪れて異常事態に気付いた者が、家々を回って、時間経過で酷い有様になった死体を発見し続ける……という、ホラー映画のオープニングのような光景が、本計画に求めた地獄絵図だった。
もちろん、灰になった町を見ればそれなりのメッセージは伝わるだろう。
けれど、炎とは綺麗なものだ。
更地同然になった焼け跡よりも、変わらぬ町並みの中、死に絶えた住民という方が、演出効果は大きかったはずだ。
しかしそれでも、セレステンは滅びた。
打算の方が多かっただろうが、人類の盾たらんと魔族の脅威を排除すべく日夜奮闘する国々へ、支援物資を送るという愛に溢れる美しい計画は、潰えた。
人が人に手を差し伸べる事さえ、"病毒の王"を敵とする行為なのだと、多くの者が悟るはずだ。
打算では、もう動けないだろう。
「ご苦労だった。また何か、褒美を考えなくてはな」
「いえ、それが我らの仕事です。……ただ、今回の作戦に参加した者には、それなりの危険手当を弾んだ事をご報告させて頂きます」
「無論だ」
陛下が頷く。
「ならばその分の追加予算を、褒美という形にしよう。それならば、そう不満の声も上がるまい」
「はい。ありがとうございます」
強いて言えば、暗黒騎士団と獣人軍の一部、特に若い者を中心に、徹底的な防衛戦を展開する現状に焦れて、華々しい戦果を求め、派手な戦闘を望む者達がいると聞いている事だけが不安要素だ。
そういった者達にとって、外征によって『華々しい戦果』を上げている"病毒の王"陣営は羨望と嫉妬の視線を向けるべき存在だ。
獣人軍に関しては、ラトゥースが抑えてくれるだろう。
暗黒騎士団に関しても、ブリジットの事を私は信頼している。
けれど、そういった不満は、中々なくならないものだ。
私が何を言っても、届かないだろう。
彼らにとって私は、認めたくないとしても――"戦争の英雄"だ。
既に功績を積んだ私が何を言っても、実感が伴わなければ、その声は届くまい。
最も国境に接する部分が多く、こちらから攻めやすいのは、ランク王国だ。
今や、"ドラゴンナイト"のいないランク王国一国なら、おそらく勝てる。
だが、そうすれば、私達は絶対的な優位を失う。
私達は『防衛側』だ。
防衛側は、攻撃側より少ない戦力でよい。
城壁や補給線が充実していれば、というただし書きは付くが、その点をリストレア魔王国はクリアしている。
"ドラゴンナイト"がいない今、空からの偵察で機密が露見したり、戦力の少ない部分を叩かれる危険も少ない。
困難な手段は、相手に選ばせるものだ。
なのに、何故か不利極まる、敵国の領土へ攻め込んでの領土拡大と、その領土の防衛戦という夢を見る人達は何なのだろう。
いずれ、どうにかするつもりではある。
困難は相手に選ばせるものだ。
いつか、決戦が避けられないとして、それは今ではない。
「陛下。それでは、失礼致します」
「うむ」
陛下に一礼して、退室した。