二人きりの秘密
一体、どうして私はこんな体勢になっているのか。
ベッドに押し倒された状態で、笑顔のリズを見上げる。
「……リズ?」
「マスター。その恰好、本当に似合ってますよ」
「え、そうかな?」
彼女に褒められると、純粋に嬉しい。
「はい。最高のプレゼントですね」
「やっ、ちょっ!? リズ!」
リズがドレスの胸元に指を掛けて、ごく自然な動作で一番上のボタンを外したので、私は慌ててそれを押しとどめた。
「なんですか?」
恐ろしい事に、心底不思議そうにしているリズ。
私の方が、おかしいのだろうか。
おかしいのは、私の方なのだろうか……?
……そもそも、どうしてこのドレス、背中にボタンがあるのに、前からも開くのだろうか。
「プレゼントって話はどこへ」
「プレゼントのラッピングは、ほどくのが楽しいんですよねえ」
などと言って、肩布を二本の指で挟んで、弄ぶリズ。
にこにことしているが、目が本気だ。
"最適化"はしていないし、暴走もしていない。
していないが、完全に本気だ。
リズが、私の両手で止められている右手をそのままに、左手でするりと肩布を首の後ろから引きぬいた。
「首が無防備極まりありませんね」
そう言って、豊かな胸を押し当てるようにくっつきながら、私の首筋に軽くキスをするリズ。
なんというマッチポンプ。
跡が残らないぐらいに軽く、何度も唇で触れられて、その、甘く、くすぐったい感触に身をよじる。
「な、なんでこんな急に」
リズが、ついばむようなキスを止める。
そして、心底不思議そうな声再び。
「……え、マスターがいつも私にしていらっしゃるような事をしているだけ、ですけど?」
なんという自業自得。
そう言えば、リズがウェディングドレスをわざわざ着てくれるのが嬉しくて……いつも、テンションが上がる。
別にメイド服でもテンションは上がるし、生まれたままのリズも大好きだけど。
「じゃあそういうわけで、今から夜の部です」
「や、まだ日も高……」
あ。
中身は確認していないけど。
……あの、食卓の上に用意されていた、銀の覆いがされた夕食らしき物は。
この後、食事の準備をせず『夜の部』を行うためだった……?
彼女の予定の厳密さと、緻密さに慄然とする。
ふと気付くと、さっきまで空気を読んで控えていたバーゲスト達が、ベッドの下の影に、音もなくそっと潜り込んでいた。
――そういう空気だ、という事。
リズが私の肩に左手を置いて、身体を寄せると、耳元に唇を押し当てるようにして、ささやいた。
「……私にされるのはいや? デイジー」
ここぞという時にだけ敬語をやめて、名前を呼ぶのは、卑怯だと思う。
何度呼ばれても、何度こんな風に過ごしても、どうしても彼女のささやき声に私の耳は弱くて、固まる。
その隙を逃すリズではなかった。
「それとも、こっちの方がいいですか? ――"病毒の王"様?」
私は、熱くなった顔を両手で覆って、かすれ声を絞り出した。
「どっちも……すき……」
彼女が、名前をくれた。
色んな呼び方で、『私』を呼んでくれる。
リズが、私の事を呼んでくれるから。
私は、この世界で生きていたいって思えた。
顔から手を外してリズの顔を見た途端、目尻に涙が滲み、視界がぼやけて、ぎゅっと目を閉じた。
私は、のしかかるようにして押さえ込んでいる彼女の事を、私に出来る精一杯の気持ちを込めて、ぎゅっと抱きしめた。
「大好きだよ、リズっ……!!」
リズが、ベールと髪の間に手を差し込んで、私の髪を撫でてくれた。
その優しい感触に、彼女の顔を見たくなって、目を開ける。
一瞬、目を強く閉じていた時に見える真っ白な空白が広がり、それからじんわりと戻る視界に映るのは――満足げなリズの、とろけるような笑顔。
「私だって、あなたのことが大好きですよ。……マスター」
私と彼女は、ただの主と従者だった。
最初は、それで良かったのに。
メイド服を着たダークエルフさんと一緒にお仕事をして、身の回りの世話をしてもらって――それだけで、良かったのに。
いつからか、それだけでは足りなくなった。
仕事の上では必要のない会話が、したくなった。
名前を縮めて、呼ばせて欲しくなった。
私の全てをあげるから。
あなたの全てが欲しい。
いつからか、お互いにそう思うようにまで、なった。
リズの、熱を湛えた金色の瞳をじっと見つめている内に、自然と距離が縮まっていって……――
玄関のベルが鳴った。
さっと緊張が走り、目と目で会話する。
すぐに黒妖犬達からも、訪問者の情報が伝わってきた。
「レイチェルだ……」
可愛い孫が、訪ねてきていた。
確かにまたゆっくり話そうねって言ったけど。
言ったけど。
リズが素早く身体を起こし、私の後ろに回り、腰のリボンをほどいた。
私も手早く手袋を脱ぐ。
リズが背中のボタンをほんの数秒で全て外し、私は帯を緩めると、ドレスを下に引きずり降ろすように脱いで下着姿になった。
ドレスとセットになっているガーターベルトとかは……分かるまい。
最後に、リズが私の頭からベールを取り上げた。
鍵が開けられる。
――それが、いつもの流れだ。返事がない時は入っていいし、外出しているようだったら、家の中で待っていてと。
一応、見られてまずい物は隠しているし、レイチェルは常識人だ。非常識な時間に訪問したりはしない。
今だってそうだ。
でも、今は。
「お前達」
それだけで、バーゲスト達が漆黒の矢のようにベッドの下から飛び出した。
一匹がドアノブに飛びつき、残りは身体で押し開けるようにして寝室のドアから出て行く。
さらに残った一匹が、ドアがばたんと閉まらないように前足で押さえた。
「お? お前達がお出迎えー? うりゃ! ここがいいの? よーし」
楽しそうなレイチェルの声が聞こえてきた。
よし、パーフェクト。
でも、こんな時だけど、私の『孫』だなあ。
私と彼女の間に、血縁はない――あるはずもない――けど。
氏より育ち、というこの世界にあるのかも分からないことわざが頭をよぎる。
なにしろ、歩き始めるより前に、うちの黒犬さん達を遊び相手にしていたのだ。
黒妖犬達が――今のこの国で竜に次ぐ存在感を持つ魔獣が稼いだ時間で、急いで若草色のローブと深緑のローブを重ね着する。
靴を履いて、護符は……いい。室内だから外していた。それで行こう。
最後に、リズを見て、頷く。
「よろしく」
「はい」
そして一秒を争うのだけど、まだベッドの上にいるリズの頬にキスをした。
「ま、ますたー?」
「また夜にね。絶対ね」
そして返事を待たずに、踵を返す。
ドアを開けて部屋を出ると、バーゲストを一匹伴って、なるべく落ち着いて見えるようにゆっくりと、茶色いベストを着て銀髪を小振りのポニーテールにしたダークエルフ――レイチェルの前に姿を現す。
リビングでバーゲストを撫でていた彼女は、私の気配に顔を上げた。
「あ、デイジーおばあちゃん? 出かけてるのかと」
「ちょっと部屋にいてね」
嘘はつかない。なるべくなら、その方がいい。
私が陛下に信用されたのも、多分、私が一言も嘘は言わなかったからだ。
割と適当な事は言ったけど。
「――今日は? 何か、聞きたい事でも?」
「それはたくさんあるけど。……おいおいね」
聞きたい事は、いくらでもあるはずだ。
なにしろ、私はかつて"病毒の王"を名乗った、六人目の魔王軍最高幹部。
それを追って軍内外の史料を丁寧に集め、成り行きもあったにせよ、魔王陛下や最高幹部にインタビューまでしたのだから。
しかし彼女は、バーゲストを撫でながらにこっと笑った。
「ただ、休暇が終わる前にもうちょっと一緒に過ごしたくて」
可愛い事を言ってくれる。
ただ、ちょっとタイミングが悪かった。
「レイチェル、いらっしゃい」
そこにリズがやってくる。
いつものメイド服を一分の隙もなく着こなしているし、マフラーの色もお馴染みの深い赤だ。
「もうちょっと一緒に過ごしたいって、来てくれたんだって」
「それは嬉しいですね」
リズが自然と私の隣に並ぶ。
「例の物は」
「クローゼット」
お互いにほとんど唇を動かさず、声が届かないように軽く魔法まで使って、最低限の会話で状況を把握する。
魔法を使う際の魔力反応を極限まで抑えて、気付かれないまでにするのも、仮にも近衛師団にスカウトされる腕の見せ所だ。
「お茶でも淹れましょうか」
「あ……これは?」
レイチェルが、テーブルに置かれている、銀の覆いがされた皿を指差す。
「今日は、部屋の整理をしていたんですよ。だから夕食も軽く済ませられるようにと」
息をするような自然さでもっともらしいカバーストーリーを語るリズ。
しかし、『新しい服が増えたので』『部屋の整理をする』事になるので、解釈によるが、嘘は言っていない。
「あ……ごめんなさい」
「いいえ。来てくれて嬉しいですよ」
リズの言葉に、嘘はない。それは私達の本心だ。
ただ、できることなら明日の同じ時間に来て欲しかった。それだけだ。
「お茶を淹れてきますね」
「あ、私がする! いつもやってもらってばかりじゃ、悪いから」
そう言ってレイチェルが立ち上がる。
「悪いという事はありませんが。ではお願いしますね。茶葉の位置などは変わっていませんから」
「はーい」
勝手知ったる、という自然さで、台所に消えて行くレイチェル。
バーゲスト達が、尻尾を揺らしながらその後を追った。
二人してその様子を見送る。
一匹、私のそばに残ったバーゲストの頭に手を置いて、軽く撫でた。
赤ん坊の頃から知っている子が大人になったのだなと思うと、ちょっと感慨深いものがある。
しかし、昼間――そろそろ夕方だけど――は、いつ来客があるか分からない。
やっぱり夜だな。
そう思った瞬間、リズがちょっとだけ背伸びして、私の頬にキスをした。
「り、リズ?」
くすりと微笑むリズ。
「また、夜に。絶対ですよ?」
「……もちろん」
また、夜に。
二人きりで、ゆっくりと。
こればっかりは、可愛い孫にも秘密だ。