エリシャブランド
――"エリシャブランド"。
『女の子の可愛さを引き立てるために』という揺るぎない信念を掲げ、その信念の通り、女性に支持される服飾ブランドだ。
戦前からある店で、今その一角は、服屋はもちろん、靴屋や布屋を含む、リストレア随一の服飾街となっている。
エリシャブランドは、王都以外にも、リストレア全域――大陸全土――に店舗を展開しているブランドだが、ここが創業店にして、本店だ。
当時を知る者としては、変わりようが感慨深い。
店の外観の品の良さは変わっていないが、こぢんまりしていた当時とは、似ても似つかない。
昔は店の裏が工房になっていたが、今は店の『裏の建物』が、丸々一つ工房だ。
隣を歩く黒犬さんの首筋を軽く叩く。
「ここで、待っててね」
黙ってきちりと座り込み、待ての姿勢になるバーゲスト。
リストレアでは、犬に関しての規制が緩い。
獣人達にとっては猟犬として、ダークエルフにとっては自身より鋭敏な鼻を持つ番犬として、パートナーであった歴史的経緯もあるとは思うが。
――何よりも、ほとんどの犬が、野生の本能で周りにいる人達のレベルを察するからではないか、と思っている。
なので、リードなしで店の前で待つ犬も普通に見る。
一部の店は連れての入店も可だし、一緒にいられるようにオープンスタイルの席を用意している所も多い。
木製のドアを押し開くと、ちりんちりん……と扉に付いていた涼しげなドアベルの音が来店を知らせ、「いらっしゃいませ」と、手近な店員さんが嫌味のない挨拶をしてくれる。
いつもの習慣で、リズにはどんな服が似合うかと、冬物の並んだ店内を眺めながらゆっくりと歩いて行くと、『短剣に恋をした蛇』のマークが目に入る。
流行の最盛期は過ぎ、けれど定番ファッションとして定着した、深緑と若草色のローブの重ね着。
さらに、護符三種と共に、金糸でルーン文字が縫い込まれた肩布を垂らせば――"病毒のお……じゃなくて、"猛毒の王"の出来上がりだ。
これは、劇団"蛇の舌"とのコラボ商品で、よほど気合いの入ったファンでなければ、まず街中で護符や肩布までは着用しない。特に仮面は、TPOもあるので、それこそ舞台ぐらいだ。
なので多分、護符あり、肩布なしの私は『そこそこ気合いの入ったファン』に見えている事だろう。
「あ、デイジー様。お久しぶりです」
私を見つけると、蜂蜜色の猫耳がぴこりと跳ねた。
「久しぶり。……エリシャさん」
声を潜めて、周りに聞こえないように気を遣いながら名前を呼ぶ。
なにせ、変わらない笑顔を浮かべた彼女は、他ならぬ"エリシャブランド総帥"なのだ。
彼女も人がいる時は、今のように『デイジー』呼び。
こういう時は、偽名をちゃんと決めて良かったな、と思う。
「お受け取りですね。こちらへ」
「ありがとう」
今は周りにも人がいるので、だいぶ大人しかった。
「リーズリット様のご注文は、魂が震えましたね! 私の全精力を込めて作らせて頂きましたとも!!」
バックヤードに入った瞬間、これである。
店員さんや針子さん達も何人かいたが、ちらりと見て、苦笑したのみだ。
なにせ彼女は『生涯現役』を宣言し、ブランドの信念『女の子の可愛さを引き立てるために』――もう少し彼女らしい言葉で言うなら『可愛い女の子に可愛い服を着せるために』を、行動原理とする。
私も初期はかなり出資したし、今も、主にリズの服のフルオーダーを折に触れてお願いしていて、関わりが深いお店だ。
ブランド総帥として全てを統括しつつ自身も魔力布の織り手と針子をやるのは、どう考えてもオーバーワークだと思うのだけど、本人いわく「優秀な部下がいますから!」だそうだ。
「取ってきますね」
「うん」
エリシャさんはすぐに、綺麗に梱包されてリボンまで掛けられた包みを抱えて戻ってきた。
……服の一着にしては、妙に大きいような。
「……ところで、この注文、私は中身知らないんだけど……」
「あ、それはご注文時の契約で言えません。代金は受け取り済みですので、ご自宅でリーズリット様とお確かめ下さい」
にこりと営業スマイルを浮かべるエリシャさん。
「――でも、言える範囲で言わせて頂くと、めちゃくちゃテンションが上がりましたね、ええ!」
にやりと悪い笑みを浮かべるエリシャさん。
「私はどんな服も心を込めて作らせて頂いておりますが……デイジー様やリーズリット様の注文は、服の力を信じていらっしゃるのが伝わってくるのが、たまらないんですよねえ」
うんうんと腕組みして頷くエリシャさん。
私も頷いた。
「それはもう、可愛い女の子は可愛い服を着るべき」
「この世の真理です!」
――それも全て、平和であればこそ。
私はブリジットの甲冑や軍服も、凜々しくて好きだけど。
あれは、軍装だ。
この世界が優しくて、完璧で、誰も傷付かない世界なら、きっと必要とされなかった装いだ。
私がこの服をまとったのも、そう。
これは、私の仮面だったのだ。
仮面本体だけでなく、ローブも、護符も、肩布も、杖も、名前も、その全てが。
その全てが、私を"病毒の王"にした。
"病毒の王"の衣装を着ている間、私は誰よりも人間らしく、そして同時に、誰よりも非人間的でいられた。
私は『知って』いた。
少なくとも知識では、人間がどれだけ、人間の尊厳を踏みにじれるのかを。
知ってしまっていた。
……それでも、私の事を、この恰好のまま、この名前のまま、受け入れてくれた人がいた。
自分が人間であるという事実を、呪った事さえあったのに。
人間のまま、私はあの戦争を戦った。
……それをレイチェルに、どんな風に伝えればいいのだろう。
あの城壁の上で感じた心細さと……解放感を。
薄暗い家畜小屋で心を殺されていた時の、平坦な絶望を。
自分の信念全てを懸けて、今まで自分が大切にしていた気がする全てを裏切る事を決めた時の、覚悟を。
戦争を知らないあの子に……きっと誰かを殺したいとさえ思った事がないあの子に、どう伝えれば。
レイチェルとの思い出をぼんやりと思い返していると……ふと、口元が緩んでいる事に気が付いた。
きっとあの子は、あの子なりにあの戦争を学んだ。
戦場を経験した方が偉いだなんて、思わない。
誰も殺さなくていいなら、誰も憎まなくていいなら、その方がいい。
血は繋がっていないけれど、可愛い孫だ。
話せる範囲で、話そう。
私に、大切な人がいた事を。
何もかもなくした私に、それでも優しくしてくれた人がいた事を。
その人達が、歴史を語るなら、多くの人が語らないだろう日常の中で、どんな風に私を愛してくれたのかを。
私に、"病毒の王"の名前と、衣装を贈ってくれた、女の子がいた。
私の監視であり、護衛であり、副官であり、メイドであり……後には恋人であり、伴侶。
過去には、戻れない。
全てはきっと、移り変わっていく。
それでも今の私は、人間のままだったら続けられなかった時間を、生きている。
「……ありがと、エリシャさん。開けるの、楽しみにしてるね」
思いの外、ワクワクする。
もしかして、リズは私にこういう気持ちを味わってもらうために、あえて秘密にしてくれたのだろうか。
「何よりのお言葉です。リーズリット様とお楽しみくださいませ」
エリシャさんが、にこりと笑った。