行ってらっしゃいと行ってきますの挨拶
リズの立てた『予定』を順調にこなし、お昼を大分回った頃には、私は大変満たされていた。
積極的で……でも、一線を越えないスキンシップを中心とした彼女との触れあいは、新婚時代を思い出すほどだ。
その時から、夫婦生活に関して一体何が変わっているのかと聞かれれば、あまり思いつかなかったりもするけれど。
私は、たまに(元)部下から結婚や恋愛の相談を受けたりしている。
特に昔……まだ私が魔王軍最高幹部だった頃は、不死生物とダークエルフで、さらに女同士である私達のような夫婦は、珍しかったから。
私は、かなり真面目に受け答えしているのに、何故かしばしば相談は「相談に乗ってもらっておいてなんですけど、そろそろノロケやめてもらってもいいですか」という風に終わった。
私はただ、なるべく正直に、リズとの生活と、それに対する自分の気持ちを語っただけだ。
なお、リズが同席している時は、よく肘打ちで黙らされた。
(――生涯、リズを愛する事を誓うよ)
いつかの誓いは、まだ色褪せていない。
結婚式当日は、結婚式以外に『色々と』ドタバタしていたし、さすがに全てを覚えているとも言えないけれど。
貰った祝福の言葉と、リズのウェディングドレスの愛らしさ、自分が誓った時の気持ち――そして、リズがそれに応えて誓ってくれた事は、忘れない。
ウェディングドレスの愛らしさに関しては、しばしば新しい記憶が加わっているし。
……冬季休暇中にまた、着て貰おうかな。
レイチェルの件の、ほとぼりが冷めてからの方がいいかな。
会話が一段落した所で、隣のリズがちらりと、壁に掛かった時計を見る。
「マスター。そろそろ、エリシャさんの所へ行ってくれますか?」
「分かった」
頷いて、並んで腰掛けていたソファーから立ち上がる。
空気を読んでローブの陰に潜んでいた黒妖犬が一匹、ローブの裾から滑り落ちるように這い出て、ふとももあたりに顔をこすりつけてくる。
それに手を伸ばして応えながら、かがみこんで、首筋に頬を埋めた。
「……これから出るのに、なにやってるんです?」
「さっきまでの火照りを抑えようと」
まだ少し頬に、熱が残っている。
さわさわと頬を撫でる黒い毛に、その熱を移すようにほおずりした。
肩にのし、と頭の重みが掛かるのが、また幸せだ。
慣れ親しんだもふもふに触れてちょっと落ち着いた所で、再び立ち上がる。
玄関まで見送ってくれるリズを、振り返った。
「ねえ、リズ。なにか忘れてなーい?」
「忘れ物……ですか?」
私は、自分の頬を、人差し指で軽く叩いて示して見せた。
「行ってらっしゃいのキスとか」
「……習慣になっていない事を、さも、いつもしてたかのように言うのやめてくれませんかね」
リズがため息をつく。
もっともだ。
なんて言いつつも、彼女は私の元に身を寄せて、頬に顔を近付けると、軽くキスしてくれる。
それで行ってらっしゃいの挨拶は終わったものと思って、意識を玄関ドアの方へ向けた瞬間、私はリズに動きを封じられた。
アクションを起こす瞬間の動作が、一つ前の動作と全く連動していないために、反応が一瞬遅れ、その一瞬が戦場では致命的な物となる。
その一瞬の隙を突いて、拘束するように私の背中に手を回して抱きしめたリズが、ほんの少し背伸びして、私の耳に唇を寄せた。
「行ってらっしゃい、あなた」
注ぎ込まれた熱い吐息に、背中にゆっくりと電流が這い上がっていくような痺れが走る。
じんわりとしたびりびり感が脳天に達した所で、リズが私を解放した。
深い金色の瞳には、悪戯っぽい光。
そして身体を離すと、さっきの顔は幻だったのかと言うぐらい素早く切り替えてキリッとした表情になり、着ているメイド服が似合う優雅さで、綺麗に一礼した。
「行ってらっしゃいませ、マスター」
お嫁さんとメイドの使い分けは、心臓に対する火力が高すぎて、卑怯すぎる。
「そんな事されたら、火照りがおさまんないでしょ……」
私はその場でうずくまり、寄ってきた黒妖犬の首筋にまた顔を埋める事になり、黒犬さんが嬉しそうにぱたぱたと尻尾を振った。
リズの不意打ちはやっぱり、可愛すぎて心に来る。
私は、もう一度ぐりぐりとバーゲストの首筋に頬を押しつけて、オーバーヒートした精神を安定させるべく努めた。
少しして、三度目の正直とばかりに立ち上がる。
でも、玄関ドアから家の外に出る前に、もう一度だけ、リズを抱きしめた。
ほんの少しだけかがみこんで、ダークエルフの長い耳に唇を寄せる。
「ありがと、リズ。行ってくるね」
軽く手を振ると、今度こそエリシャさんの所へ行くために、ドアノブを捻ると、バーゲストを一匹連れて外へ出た。
ドアの鍵を掛け、踵を返した彼女――リーズリット・フィニスは、ゆっくりと、その場にうずくまった。
とたとたと、残っていた留守番役の黒妖犬の内の一匹が寄ってくるのをつかまえると、首筋に顔を埋めた。
時間差でじわりと赤く染まった耳先が下がり、赤いマフラーの先端がゆらゆらと不安定に揺れる。
「そんな事されたら、火照りがおさまらないでしょう……」
黒妖犬が、嬉しそうにぱたぱたと尻尾を振った。