鏡映しの星空
年が終わる今日、私は一人で日の落ちた王都を歩いていた。
過ぎゆく年を思い、新年を迎えるために。
両親に一緒に行くかと聞かれたが、一人を選んだ。
考えたい事が、あったのだ。
それは、"病毒の王"の事であり、それに仕えた人達の言葉だった。
百年前に、戦争は終わった。
九十年前に、"第六軍"は解体された。
全てはもう、終わった事。
歴史は"病毒の王"を戦争の英雄と伝えるが、その非道も記している。
その上で、『人間以外の種族の存在を認めなかったから』、人間は絶滅したのだとしている。
絶滅。……一つの種族が、絶えて、滅びる。
人間だけじゃない。大型の魔獣種は、リストレアの建国に際し数種が姿を消したと言う。
昔は肌の白いエルフもいた。
……そんなに、人間と私達は、違っていたのだろうか。
ダークエルフである私にとっても、全て違うものだ。
一番近い、女性の獣人でさえ、身体の動かし方からして違う。より獣に近い男性の獣人となればさらに。
不死生物は、骸骨なら私の中にもある骨格だが、死霊ともなると、どういう感覚なのだか。
悪魔は、私達ダークエルフよりなお魔力の扱いに優れる、生まれついての魔法使いだ。
でも、個人的な知り合いもいて、人型を取る者は、ちょっと変わった獣人ぐらいの感覚でいる。
古式ゆかしいデーモンらしい姿を取り続ける者は、大抵大柄で、その長身に気圧される事はあっても、恐れる事はない。
竜だけは、人型でもないし、話す機会もない。
そもそも言葉を話せるリタル様が特別なのだ。
――もっと未来。今を生きるドラゴン達が、歴史という言葉さえ曖昧な時代から生きているらしいリタル様に年齢が追いつき、知性が深まっていけば、私達はもっと深く分かり合えるだろうか。
今はまだ一例もない、竜族との婚姻が、いつか行われるのかもしれない。
……それとも、今のようには、働いてくれなくなるだろうか。
もっと対価を要求するようになるかもしれない。
未来の可能性は、バラ色の物ばかりではない。
それでも未来を思い描く時、それがそう悪くない物であるのは。
私が、戦争を知らないから、だろうか。
私は、この大陸に人が溢れていた時代を知らない。
そして、そのほとんどが『人間』だった時代を。
物流の中継点であるリタルサイド城塞が、最後の希望だった時代を。
国境線として機能した、長大なリタル山脈が途絶える箇所に築かれた城塞。
その建築を巡る争いが、すなわちリストレアの建国戦争だ。
そこよりも遙か遠い、"闇の森"に住まう獣人達が、建国王たる先代魔王陛下に手を貸した。
それに加えて、南の砂漠を中心に暮らしていたダークエルフ達と、辺境に散っていた不死生物、そして僅かな悪魔。
当時はたった一匹のリストレアに属するドラゴンだった、白銀の鱗を持つ竜。
リタル様が重傷を負った戦いもあり、リストレアの歴史は数年で途絶える可能性もあった……と言われるほどの過酷さだった、"第一次リタルサイド防衛戦"。
今では許されないような、ありとあらゆる術式が試された、人の命があまりにも軽かった時代。
今よりも鎧は柔く、剣は鈍く、それでも現代では有り得ないほどの血を流した、混沌の時代。
先人の血でもって築かれたその城壁は、四百年の後に破られた。
建国からの不断の努力によって法と秩序が行き渡ったリストレアという国は、そこに至って、誇りの定義を書き換えた。
この国を。
この国が掲げる信念を。
この国に住まう、全ての民を。
それを守るために『のみ』、魔王軍は存在すると。
名誉と誇りの、転換点があった。
今でも、名誉と誇りはリストレアに存在する。
それがなければ、この世は地獄になる。
でも。
名誉を抱き、誇りを持つ『だけ』で守れるものなど、何一つなかった。
人間の国家にも、名誉と呼べるものがあった。同様に誇りがあった。そして信仰があった。
エルフの国にも、あっただろう。
けれど、その全てが今はもう滅びた。
私達は、少なくとも二つの種族が滅びた後の世界に生きている。
私は、戦争を記録でしか知らない。
それでも、あの戦争の意味は分かる。
あの戦争に負けていれば、私達の親は、みんな死んでいた。
周りを見回すと、人混みの中には、色んな肌の色に、耳の形がある。
骨だったり、透けていたり、一人古式ゆかしいデーモンらしい黒い体毛をまとった上背のある姿も見つけた。
人間は、私達の事を『魔族』と呼んだ。
今では、あまり使われない言葉だ。古語、と言ってもいい。
意味としては存在していても、使い所がない。人間と、それ以外を分けなければいけなかった百年前ならいざ知らず。
違う種族をそんな乱暴にひとまとめにする必要はないし、そうしたとして、それは『リストレアの国民』という一つのくくりで足りる。
リストレアという国が滅びていれば。
新年を祝おうと、思い思いの広場に向けて歩く人達は、いなかった。
褐色の肌はいても、長い耳を持つ者も、獣の耳を持つ者もいない。
悪魔と不死生物は生まれ続け、しかし狩られる。
人間の世界では、リストレアより遙かに多くの魔獣種が殺された事を思えば、空も寂しくなるだろう。
少なくとも、グリフォンライダーが駆るグリフォンも、空を舞うドラゴンの姿も、ないに違いない。
劇場で、ドッペルゲンガーの演じる舞台を鑑賞する楽しみも、ないはずだ。
それに、異種族恋愛物というジャンルはないに違いない。
そんな世界が、欲しかったのだろうか?
王城前の、王都最大の広場に辿り着く。
ごった返す人混み。肩と肩が触れそうなほどで、でも皆が気を遣っているので、混乱と言えるほどの混乱はない。
なんとなく人の波に流されながらも、ほどほどのポジションで落ち着く。
魔王陛下の来訪を知らせる鐘の音が鳴った。
ざわめきが静まり、王城のバルコニーに、ファー付きの真紅のマントをまとった魔王陛下が現れる。
多分階段状の台が置かれているのだろう。一歩ごとに、胸壁に隠れて見えていなかった部分が、見えるようになっていく。
そして、全身が見えた所で、背後の空間に映像が展開された。
映っているのは魔王陛下――のアップだ。
百年前から存在し、次世代を担う技術と期待され、改良と普及に努力がされた、映像展開用の術式。
しかし、今もってデーモンや一部のダークエルフにしか扱えない高等術式であり、一般へは普及していない。
"粘体生物生成"に代表される生命創造魔法と似た、限界点に達した系統の魔法であるとも言えるだろう。
ブロマイドの映像定着とも系統を同じくし、あちらが比較的低価格になったのとは対照的だ。
術式の改良とそれに伴う使い手の増加で、本はもちろん、リストレア・タイムズに代表される新聞もその恩恵を受けている。
アップの映像には映っていないが、背後に控えているのは大柄な黒山羊のデーモンと、紋章の縫い込まれたサーコートを着た骸骨騎士。この距離では魔力反応も顔も分かりにくいが、多分、先日取材したあの二人だろう。
護衛と同時に、映像の展開役も兼ねているらしい。
陛下が手を振ると、静寂を突き破る歓声が上がった。
耳がちょっとキーンとするほど。
凄い人気。
しかし、すぐに波が引くようにその声は収まる。
真面目な顔の陛下が、口を開いた。
「皆と共に、新年を迎えられる事を嬉しく思う」
この演説は、先代の時からそれほど特別な事は言っていない。
結婚制度が根本的に改革された時や、黒妖犬の運用が本格的に始まった時など、軽く絡める事はあったが、あくまでこれは新年の挨拶だ。
しかし陛下の声は、真剣だった。
「――この年が明けたら、リストレアは、戦後百周年を迎える。あの戦争に、どのような意味があったのかは、あの戦争を知っている者も、知らぬ者も、それぞれが考えてもらいたい」
はっとした。
陛下は、この場に集う全て……いや、この国に住まう全ての国民へと語りかけている。
私は担当ではないが、"リストレア・タイムズ"の新年号は、陛下の年越しと新年の挨拶の掲載から始まる。
でも、私が語りかけられている気がした。
「私達は、多くの同胞を失った。……私もまた、多くの戦友を、失った」
しん……と、微かにあった小声のざわめきさえも、なくなる。
「それでも守らねばならぬ物があったと信じる。――それでも守れた物があったと、信じる」
昔は、魔王軍は来たるべき決戦に備えていた。
戦いのために、戦争のために存在していた。
「滅ぼされるかもしれないという不安が、なくなった。私達は、自らの持てる力の全てを、戦争でないものに使えるようになった」
今は、もう違う。
「先代の魔王陛下は、何の隔たりもない、全ての種族が幸福になる国を目指して、リストレアという国を建国された。『誰もが笑える国を創る』――それは高い理想ではあったが、夢物語ではなかった。……今、ここにある」
陛下が、この距離でも笑ったのが分かる。
ああ、確かに。
周りを見渡すと……笑顔が多くて、自分も、思わず微笑んでいて。
それを見た誰かも、また笑って。
皆が笑顔で、新年を迎えられる。
これが、平和。
それが、彼女達先人の『戦果』だ。
私達はきっと、かつての英雄達が血を流して求めた時代に生きている。
「私は、これからも、この平和を維持するために戦う事を誓う。――共に戦ってくれる事を、信じている」
――思わずといった風な歓声が上がる。
伝統的に、魔王陛下のお話中は静かにするものだ。
けれど、そんな事を言われて、声を上げてしまうのも、無理はない。
「――リストレアよ、永遠なれ」
陛下の姿を空に映し出していた映像が消える。
続いて陛下が、腰のホルダーから短杖を抜いて高々と掲げると、攻撃魔法を夜空に打ち上げた。
特大の"火球"。爆発と発光が強くなるよう調整された、いわゆる"花火"だ。
誰が言い出したか知らないが、美しい言葉だった。
戦場で一番使われた攻撃魔法は、"火球"だったと言われる。
城壁の上の防衛戦力を焼き払うために、敵陣に叩き込んで戦力を減らすために、扉を破壊して突破口とするために――ありとあらゆる戦局で、常に選択されうる汎用性を持った攻撃魔法だ。
でも、今ではもう、"火球"と言ったらこちらを真っ先に連想する人も、多いかもしれない。
殺し、壊すための火の球ではなく、美しい火の花を。
夜空で散った花火の残光を追うように、地上の明かりが全て消されていく。
私はダークエルフだし、大抵の者が暗視能力を備えているが、それでも明かりがある状態から闇に沈むと、暗く感じられた。
肩に掛けた鞄から、蝋燭の刺さった手持ちの燭台を取り出した。
当日、屋台でも売っているが、私はちゃんと事前に用意している。
そっちの方が割安だし。
照明技術の発展で、蝋燭の需要は昔よりさらに減ったが、今でもレストランのお洒落な照明や、この年末のために生産が続いている。
闇の中で、新年を告げる、鐘の音が聞こえた。
全部で十二回鳴らされる、十二時を示す鐘が鳴り始めると同時に、魔法の詠唱が唱和していく。
私も唱え、蝋燭に火を灯した。
「"点火"」
数々の蝋燭に火が灯されていき、夜空の星々を鏡映しにしたように、地上に星空が生まれる。
戦中からの、伝統行事。
何度となく繰り返された、当たり前。
近衛騎士のハーケンさんが"病毒の王"の事を評して言った『灯火のようであった』という言葉が思い起こされる。
――この、人々が作り出した美しい光景を、"病毒の王"も、見ただろうか。
今ここにいる私のように、新年を祝った事が……あっただろうか。
私は、そんな風に思った自分に、苦笑した。
……あんな英雄が、人混みで蝋燭を灯すような事は、しないか。
バルコニーや、王城の方にいたかもしれない。
そっちの方が自然だ。
――建国歴、五百二十一年。
かつて、戦争があった。
その戦争から、百年が経った。
百年前に、未来が決まった。
私は、蝋燭の刺さった燭台を持ったまま、ゆっくりと歩き出した。
火を消さずに家まで帰れると縁起がいいという話だけど、そのために長い蝋燭や太い蝋燭を買う気にはなれない。
運試しってそういう物じゃない気がするし、何より割高だ。
そもそも、家までの距離を考えれば、突風でも吹かなければまず消えない。
――なんて事を思った瞬間に、突風が吹いて、私と私の周りの蝋燭が消えた。
……少しへこむ。
そう言えば、小さい頃の話だけど、蝋燭を燭台ごと落としちゃって、大泣きした事があったなあ。
確かあの時は、泣きじゃくる私に、おばあちゃんが自分の蝋燭と交換しようって言ってくれて――
「レイチェル。……あ、火、消えちゃった? 交換する?」
掛けられた声にはっと顔を上げると、そこには、ちょうど今、思い返していた人がいた。
若草色のローブに、深緑のフード付きのローブを重ね着して。
長い黒髪を、後ろに流して。
闇の中で浮かび上がるような白い肌が、手に持った蝋燭の光でオレンジ色に照らし出されて。
その全てが、透けている。
「デイジーおばあちゃん……」
私は、彼女の名前を呼んだ。