もういない英雄
――念のために新品を用意したメモ帳を一冊書ききって、予備の二冊目を取り出すほどの長いお話だった。
ティーポットまるごとだったのは、このためだったらしい。
しかしそのせいで、すごくトイレに行きたくなって中座してしまった。
利尿作用のあるハーブが混ざっていたかもしれない。
身体強化魔法があれば多少やせ我慢は出来るが、尿意は、今でも研究はされつつも、未だに魔法でなんとかならない分野の一つだ。
しかし、トイレから戻ってきてみると、ちょっと冷静になった。
確かに"病毒の王"の印象は変わった。非道を否定するものではないが、部下や友軍に対してまでそうだったのでは、ないらしい。
それは記録とも矛盾しないし、認めてもいい。
――けれど、"病毒の王"が、そっくりそのまま、この"第五軍"魔王軍最高幹部様が語るような存在だったと信じられるかというと、それはまた別の話だった。
「……随分と長く話し込んでしまったな。話したい事は尽きぬが、話を終えるには、ここらがいい頃合いだろう」
サマルカンド様が、ソファーに戻ってきた私に、静かに声をかける。
気が付けばポットもカップも空だし、確かにいい頃合いだった。
「……私の言葉は、君にはオーバーに聞こえるやもしれぬな」
あ、はい。
というか、自覚あったのか。
「あのお方も、そうだった。……我らの言葉をオーバーだと言い、自分が英雄のように祭り上げられるのを、あまり好んではいなかった。――"第六軍"に属する者の立場を慮らなければ、あのお方は影に徹していたかもしれぬ」
「……そうなのですか?」
「うむ。全てとは言わぬが、演技もあっただろう。……演技などなくとも、我らはあのお方の魅力をよく存じておるが、それを知らぬ者達に誤解されてはたまらぬし、そのような振る舞いも、むしろ信頼を深めるものであった」
信頼が重くないですか? ……とは言えない。記者のマナーは大事。
いや、むしろ人としてのマナーかもしれない。
「なればこそ、我らはあのお方の事を、それぞれの言葉で表現した。……英雄とは、そのように生まれるものだ」
「……それが、実像とは違う虚像になる事も、あるのではありませんか?」
彼は頷く。
黒い山羊髭に手を差し込むようにして、顎を撫でた。
「そのような側面もあったゆえ、否定はせぬ。しかしあのお方は我ら部下に虚偽の報告を許さなかった。――どのような都合の悪い事であれ正確に報告せよ、と厳命した。……当たり前に聞こえるかもしれぬが、意外と難しいものだ」
「はい、分かります……。記者も同じですから……」
情報に裏付けがない事もある。
それがどれほど正しく思えても、それが特ダネでも。
嘘や虚偽を広めてはいけない責任があり、それを選ばないプライドが要る。
「安心感のある……『職場』であった。私が生きた時間、そして"第六軍"が存在した期間を思えば、それほど長い期間ではなかった。しかし、あのお方の側でお仕えした時間は……何物にも代え難い」
横三日月の瞳が細められた。
「アットホーム……とでもいうのか。親もなく子も成せぬデーモンにとっては、ただ知識として知っているだけの物だったが……家族というのは、もしかしてこのようなものかしれぬ、と思ったものだ」
「……アットホーム、ですか」
アットホーム。……『家庭的』。
敵国の内政基盤を破壊するために存在した部署には、恐ろしく似つかわしくない言葉だ。
その長たる"病毒の王"は、その手で、人類絶滅を果たしたのだ。
「……"病毒の王"に対する、"結婚の守護聖人"という評価については、どう思われますか?」
「婚姻に関する法律を、シンプルに整備された功績を鑑みれば、ゆえなき呼び名ではなかろう」
私は続けて聞いた。
「不死生物として初の、正式に法に認められた異種族婚を行った事については?」
「ご結婚された時は我が事のように喜ばしかったもの。我らは皆、お二方の恋路を応援しておった。種族の違い、立場……あの二人が結ばれぬ理由はいくらでもあったかもしれぬ。しかし……あのような二人が結ばれてはいけぬというなら、決まり事の方が間違っている」
生者と不死者の恋物語は、多くが悲恋で終わる。――少なくとも昔語りは。
今はもう、そうでもない。
種族の違いに悩み、迷いつつも結ばれるタイプのお話はかなり人気だ。
具体的に言うと、販売・貸本共に、ランキング上位の常連。
もちろん同種族同士の恋物語も沢山あるが、異種族間恋愛の物語は、二種族にまたがるので両方の種族が感情移入しやすく、人気なのではないか――という分析を読んだ事があり、納得のいくものだ。
私には恋人がいないが、これからの長い人生で出会えればと思う。
私が好きになった人が、あるいは私を好きになった人が、デーモンやアンデッドだったとして、あるいは同性だったとして。
読んできた物語のように、悩みも迷いもするだろうが、多分それは、昔ほど絶対的な障害ではない。
「"病毒の王"は……どうして退役したのですか? なぜ、英雄として軍に留まり続ける事を選ばなかったのですか?」
退役の理由は、語られていない。
ただ"第六軍"は解体され、"病毒の王"は姿を消した。
それが歴史。それが正史だ。
サマルカンド様は、目を伏せた。
そして沈痛な声で、呟くように言った。
「……私は、あのお方の『葬式』に参加した」
「……亡くなられて……?」
「……棺の中の遺体が……重くて……もう、私とあのお方の間に契約はなく……それでも、私の主はあのお方だけだった……」
重々しく、悲しげに、痛ましげに、今はもういない人の事を、悼むように。
私も、呟くように謝罪する。
「……すみません。辛い事を、思い出させて」
「よいのだ。……あのお方の遺体は、今もイトリアの戦没者墓地に眠っている。名の知れた方ゆえに、あえて無名の墓地の一つに……」
特ダネだ。
でも、私はそれを喜べないでいた。
沢山の人を殺した人だ。……でも、沢山の人に慕われた人だ。
その消息を知っても。
……その墓がどこにあるかを知っても、嬉しくは、なかった。
「……"第六軍"がなくなる少し前に、あのお方はこう言った。『私は、この国が好きだ。だから、お前が私のためにその力を使いたいというならば、この国のために――この国をより良い国にするために戦ってほしい』と」
臨終の言葉だろうか。
それとも死期を悟っての言葉だろうか。
「私はその言葉に従って……今も魔王軍にいる……」
どちらにせよ、それは責任のある者の言葉だった。
「"第六軍"、序列第一位、魔王軍最高幹部、"病毒の王"は、もういない。それでもあのお方は、いつまでも我らの主であらせられるから……」
それで、取材は終わりだった。




