狂気に似た幸福
そもそも"血の契約"とは、契約を重んじる……お互いに与え合う関係を求めるデーモンという種族において、唯一、完全に相手に全てを委ね、服従を誓う、最も重い契約だ。
デーモンの恋物語では、言葉よりも確かに愛を示す要素としてよく見る。
でも実際には、恋人や、結婚相手に使われる事はまずない。
有名なのは先代魔王陛下とその伴侶たる、先代の"第五軍"序列第一位"旧きもの"だろうか。
"イトリア平原の戦い"までに、他に数組が"血の契約"を結んだと言われているが――逆に言えば、今よりもデーモンが多く、契約による魔力向上などのメリットがあった時代でさえも、それだけ事例が少ない。
別に登録などは必要ないので、個人的に契約している者達がいないとは言い切れないが。
デーモンについての理解を深めるために行われたリストレア・タイムズの調査によると、"血の契約"のやり方と、重さは……多分全てのデーモンが最初から知っているのだと言う。
契約の名において下された命令への拒否権はない。契約者の危機を見逃す事も出来ず、嘘をつく自由さえない。
対等とは、とても呼べない。
呪いの一種と呼ばれる事さえある、隷属の鎖。
デーモンも、それ以外の種族も、気軽な気持ちで"血の契約"を結ぶ事も、まして恋仲であろうと、相手にそれを強要する事もしないように教えられる。
「……どうしてそのような結論に至ったのかを、もう少し詳細に説明していただいても、よろしいでしょうか……?」
頑張って、精一杯丁寧に「何言ってるか分からないからもうちょっと詳しく」を言い換えて言う。
"血の契約"とは、かつては刑罰として使われた事もある、クソ重い契約だ。
正確には、その選択を突きつけられたデーモンは、全て処刑か自死を選んだので、刑罰として使われた過去はない。
現在、リストレアの法律にある"血の契約"に関する記述は、その強要を犯罪と定めた物のみだ。
「――それを、遠回しに要求されたのですか?」
「自らの意志で、と言った。そこに誘導も、立場による強制もない」
彼は、きっぱりと断言した。
「公式には、ランク王国の"ドラゴンナイト"壊滅の戦功に対する報奨として"病毒の王"様が私を戦力に望んだために、私は助命された。"第五軍"より"第六軍"へと所属が移り……その際に、"血の契約"を受け入れた事になっているが、私から申し出て、あのお方は、その場でお受けされたというのが真実だ」
「……本当に……どうして、そのような?」
死よりは、隷属を選ぶ可能性は、ゼロとは言えない。
デーモンの犯罪は、そもそもデーモンの数自体が少ない事もあって、今も昔も少ない。種族の人数の割合から言っても、犯罪率は低い。
『死か"血の契約"か』という選択にしても、それを突きつけられた例自体が、少ないのだ。
「……記者殿は、命を狙われた経験はあるだろうか?」
「……いえ。あいにくと、平和な人生を送っておりまして」
小説や演劇では、おばあちゃんに心配されたように、危ないネタに首を突っ込んで、事件に巻き込まれる記者は定番の要素だ。
フィクションの世界では、犯罪組織が暗躍していたりもする。
しかし、現実的に魔王軍の目をかいくぐれる犯罪組織のリアリティがないので、大抵はリストレアではないどこかを設定される。
昔はそういうのもいたらしいが、"病毒の王"にちょっかいを出して潰されたという噂。
軍にそういった記録はないのだが、信じている人は、アンダーグラウンドな犯罪組織を潰すために水面下で行われた作戦が記録されるはずがないと主張。議論は、平行線を辿っている。
妙な説得力はあるが、それを信じると、証拠と文責を重んじて、記事に記者名を記して発表するリストレア・タイムズの記者失格のような気もする。
「……護衛がいない隙を狙った事もあり、ほとんど一人。黒妖犬が数匹いたが、上位悪魔である私にとっては脅威たり得なかった。あのお方もまた同様。……ゆえに、暗殺は成功するはずだった」
「では、なぜ……?」
暗殺が成功していれば歴史が、変わる。
建国王たる初代魔王陛下のように、歴史の分岐点になる英雄はいるものだ。
"病毒の王"は、にわかには信じがたい、荒唐無稽な話が多いだけで。
「……あのお方は、抵抗も命乞いもなさらなかった」
「え?」
「黒妖犬さえ慮り、私に飛びかかろうとするのを制止した。彼我の戦力差を勘定に入れ、敵わぬと見るや、自らの命を差しだそうとした」
「……それ、は」
不死生物は生に執着しない者も多い。
既に一度死んだ身で、何を恐れろと言うのか――という訳だ。
しかしそれでも、それは危険な仕事に就けるかどうかであって、あっさりと死を選べるかは、また別の話。
蘇った身ではそれは果たせぬとしても、未練のようなものを持っていなければ、アンデッドにはならないとも言われているのだ。
「あのお方の言葉は、当時の私には理解しがたいものだった。……だが、自らの生死よりもなお、国家の行く末を案じておられた。……そうだな。信じられるだろうか?」
今さら何を言うのか。
それを言えば、信じられないような頭おかしい事しか言ってないのに。
「あのお方は、暗殺に来た私の命さえ心配されたのだぞ?」
「…………」
ここで、「信じられません。そんな奴いるはずないじゃないですか、もー」って言ったら失礼だ、というぐらいの、記者のマナーはあった。
いくら「気負わずともよい」と言われていても、だ。
「……本音を言えば、私はこの国に愛着を持っていなかった」
「そう……なのですか?」
長年魔王軍で働き、"第六軍"に来るまでも、ことさらに英雄的という事はなくとも、上位悪魔と呼ばれるに相応しい功績を積んだひとの言葉とは、思えなかった。
「私は、ただの道具だった。高い魔力と、強い戦闘能力を持つだけの」
疲れたような哀愁の込められた言葉に、私は反射的に反論していた。
「え、でも……"第五軍"は、悪魔で構成されていますよね。同じ種族……なのでしょう?」
「今までの歴史で、同じ種族ならば、上官が部下を道具のように使い潰さなかったとでも?」
「…………」
黙り込む。
「あのお方は、後に処遇が決まり、正式に"第六軍"へ配属され、改めて忠誠を誓った私に、『道具ではない』と言って下さったのだ。……このお方の道具であろうと思ったのに、あのお方は私を、本当の意味で『部下』として扱って下さった」
横三日月の目が閉じられる。
その頬を、静かに涙が伝った。
「自分自身というものを、初めて手に入れた気がした……」
悪魔と不死生物には、軍への所属義務があった。
リストレアが、建国以来、六度の侵略を跳ね返し、独立を保ち続けたのは、リタルサイド城塞の城壁にデーモンをずらりと並べ、こちらは防御魔法を展開し、眼下の敵へ攻撃魔法を叩き込むという戦術がシンプルにして最強に近かったからだ。
リストレア魔王国以外の国では、デーモンは存在さえ……生存さえ認められなかったと聞く。
アンデッドも同様。
どうして、そんな風にしていたのか分からないほどに野蛮な慣習だ。
しかし、かつて悪魔は、ほとんど全て"第五軍"に属していた。それ以外の軍に属していたごく少数も、部署は違えど魔王軍には違いない。
この国は、デーモンを戦力とみなした。
アンデッドもそうだ。呼吸も食事も要らぬ種族として、鉱山や採石場を中心に……危険な重労働を割り振られていた。
それがなければ生きられぬ、生命力の供給を盾にして。
種族特性を生かした役割の分担と言えば聞こえはいい。
しかし、職業選択の自由さえないそれは、奴隷労働と呼ぶ事さえ出来たのではないか。
実際の所、"第四軍"は同じ不死生物同士という事で、仲は良かったようだし、労働環境も危険ではあっても、劣悪と言うほどではなかった。
有毒ガスに崩落……おそらく獣人やダークエルフでは簡単に死ぬような環境だったのは間違いないが、アンデッドには致命的ではない。
鉱山のトロッコなどの技術が、後に路面電車に転用されたとも聞く。
「……うむ。失礼した。あのお方の尊きお姿を思い返すと……」
サマルカンド様は、目尻を黒い体毛に覆われた指で拭った。
涙が、跡形もなく消える。
「……いえ。サマルカンド様から見た、"病毒の王"様の事を、どうかお聞かせ下さい」
「うむ。語りきる事など出来ようはずもないが、最低限の事は話したいと思っている。……手を付けられていないようだが、飲まれるがよろしい。長い話になる」
お言葉通り、ティーカップを取って一口飲む。
あ、意外にもブレンドハーブティー。
王城の応接室で出たお茶からすると、大分グレードが落ちる。
陛下との謁見時に出されたコーヒーもかなり高級そうだったし。
自宅でもおばあちゃんちでもよく飲む、馴染みの味。ランダムブレンドなので味はまちまちだが、それもひっくるめて定番の、庶民の味だ。
「……すまぬな。来客はそう多くないせいで、高級品は用意出来ぬのだ。経費削減もあり……」
「い、いえ! 飲み慣れた味ですから!」
「そうか。私もだ」
もう少し、親近感。
意外と、庶民派だ。
「では、日常における"病毒の王"様の、部下に対する慈しみの深さなど話そうか」
少しずつ話題を変えて話し続ける彼の言葉は、過剰にさえ思える修飾語で飾られていた。
しかし、内容そのものに脚色はなく、百年前の日常が、その当事者だけが語れる密度をもって描き出される。
整備された休暇制度に、匿名で行われる職場満足度アンケート。――今では当たり前の概念、『福利厚生』の提唱。
当時としては画期的とさえ言える細やかな気遣いは、非道な悪鬼には似つかわしくない。
この応接間についても聞いた。今もそうしているように応接室として使われているが、談話室とも呼ばれ、普段は職員が自由に集える休憩場所なのだと言う。
――当時から。
そんな話を聞いていると品のいいソファーや椅子の、何故か脚を中心に刻まれている細かな傷跡にさえも古色を感じ、ふと、ありし日の事を思う。
屋敷に詰めているのは少数だったが、"病毒の王"を囲んで、ささやかなお茶会が開かれる事もあったと言う。
自分は食べられないだろうに。
そう言うと、サマルカンド様は微笑まれた。
先日取材した近衛騎士のハーケンも屋敷付きで同僚だったと言うが、彼のような不死生物も、『形だけでも』という事で、ティーカップに水を入れたりして参加した事もあったと、事例を紹介してくれた。
今では、雰囲気を楽しむために、不死者が生者と同じ食事を取る事もある。――それは、"病毒の王"様が広められたものだと。
魔力を込めたり、より見た目に気を遣ったり……そんな風にして、楽しめるように。
そう言えばおばあちゃんも死霊なのに、「こういうのは雰囲気が大事なんだよ」と言ってご飯やおやつを美味しそうに食べる。
"病毒の王"は、確かに非道の悪鬼であり、戦争の英雄だった。
けれどそれと同時に、部下に慕われ、談話室に集う部下達を見守る……そんな姿が浮かんでくるようだった。
――張り上げずとも胸にしみいるような渋い声色と、自信を持った語り口によって、"病毒の王"のイメージが書き換えられていった。