おとぎ話の英雄
荒唐無稽な、おとぎ話。
一つでさえ歴史に残るほどの戦果を数多く打ち立てた、伝説の大魔法使い。
病と毒の王の名を冠した、非道の悪鬼にして、戦争の英雄。
そんなものが、本当にいたのだろうか?
そんな都合のよいものが、本当に?
その荒唐無稽さを『説明』するために私が立てた仮説。
「だから、あれは。"病毒の王"とは虚像で、"第六軍"とは、そのありもしない存在を隠れ蓑に、非道な作戦を行うための部署だったのではありませんか……!?」
陛下が目を見開く。
そして、ぱち、ぱち……と何度か目を瞬かせて……。
「……ああ、そうだったら……良かったな……」
ふっと、微笑んだ。
「あの人が、いなかったら。私達の元に来る事もなかったら。きっとあんな名前を名乗らなくてもよくて、ただの一市民として、誰も殺さないで、人生をまっとうできたろうに……」
ぽつぽつと、痛みを込めて語られる言葉の一つを、私はほとんど反射的に、オウム返しにしていた。
「……一市民?」
「以前の軍歴がなくて当然だ。あの方は終戦三年前に軍人となった。正式な階級はたった一つ。"第六軍"、序列第一位、魔王軍最高幹部のみ」
「そんな」
「だから、記録は正確だ。……軍人など、まして英雄など、向いていなかったな。そんな方が重用されるとは、世も末だ。……末、だった」
今は、世も末とは言い難い。
国内の情勢は安定し、人口は増え、死者は大幅に減った。――もちろん、当時の軍人の死亡者数を勘定に入れないでの話だ。
「あの人がいなかったら、私達は負けていただろうけど。滅んでいただろうけど。ああ、でも。それでも、あのひとが幸せなら……」
意味のない仮定だ。
リストレアが滅びると言うならば、"病毒の王"も――その名前を名乗る前の存在も、死んでいただろう。
この大陸の周りは海に囲まれていて、この世界のどこにも逃げ場なんてない。
陛下は、視線を落として呟いた。
「そんな優しい空想が許されるなら、私はそれを選んだかもしれない、な……」
その痛々しい姿を見ていられずに視線を落とすと、チョコレートのケーキが目に入る。
一部の嗜好品の値段も、戦中と比べて大幅に下がった。
これが、今の十倍もするような時代があった。
沈黙に耐えきれず、そろそろと、気まずさを誤魔化すようにケーキの半分ほどをフォークで切って、口に運ぶ。
さっきはあんなに美味しかったのに。
こんなに味がしないチョコケーキを食べたのは、初めてだ。
陛下が、すーっと息を吸って呼吸を整える。
「……"病毒の王"は、本当にいた。残されている記録、全てが真実だ。……でも、そうだな。プロパガンダとしての側面があった事は、否定しない。"第六軍"とは、目立つあの方を隠れ蓑に非道な作戦を行う部署だった」
"病毒の王"がいてもいなくても、"第六軍"がした事が、大きく変わる訳ではない。
「……それは事実だ。だから、"病毒の王"の功績とされているものを、"第六軍"の戦果と置き換えれば、違和感は薄くなるかもしれない」
陛下の言葉を聞く内に、違和感が少しずつ薄くなっていく。
説明が、ついてしまう。
私が顔を上げると、そこにいたのは、"蘇りし皇女"、"歩く軍隊"、"戦場の鬼火"……と、数々の二つ名で呼ばれた、建国初期からの最古参である上級軍人だった。
「……聞きたい事は"病毒の王"について、だったな。私がどう思うか、で答えよう」
先代の魔王陛下から指名を受けて、軍内外からの絶大な支持を背景に就任した、当代のリストレア魔王国、国王、レベッカ・スタグネット。
「あの方がいなければ、おそらく私達は負けていた。そしてあの方は、その責任を全て背負われた。……部下として、尊敬している」
彼女は、幼い声質を殺すようにして、重々しく宣言した。
「私達がしたのが、平和な時代にあっては聞くもおぞましい非道だったとして……それでもだ」
「……そこまで断言して……よろしいので?」
「私は、この立場に望んでなった。そして、この立場に至るまでの苦楽を共にした戦友達を裏切れない。これは、私の本音だよ」
陛下は微笑んで、カップを空にした。
空になったコーヒーカップが机に戻される、ことりという音。
彼女は時計をちらりと見た。
「――話は、終わりだ。それを望むならば、記事にしてくれても構わない。糾弾する事も自由だ。今のこの国は、その程度には開かれているから」
「……もしも、糾弾や、陛下の罷免の機運が高まれば、どうなされるのですか?」
多分そうなる事は、ないだろう。
陛下の人気は高い。よほど上手く煽ったとしても、それが主流になるとは思えなかった。
「何もしないよ。必要ならコメントをする。私が辞めた方がよいのなら、それで話は終わりだ」
それを分かっているのかいないのか、陛下はあっさりと言った。
「もう、私以外、責めを負うべきは誰もいない。……もうこの国に、"病毒の王"は、いないのだから」
当時の最高幹部で残るのは、リタル様のみ。
リタル様を責められるやつは、この国にいないだろう。
リストレアにおける安全と物流に関して、多くをドラゴンが担っている。そして何より、自らの白銀の鱗そのもののような清廉潔白な人柄で、山脈や温泉地にその名を冠されるほどに親しまれているお方だ。
ちなみに趣味は温泉に浸かる事だとか。
「私は――あの人の部下だ。この時代に、あの人の責任が問われるのなら、それは私が背負おう」
彼女は自分の薄い胸に手を当てて、静かに宣言した。
命令を下したのは"病毒の王"及び、先代の魔王。
彼女の序列は三位と高かったとは言え、『上』がいた。リストレア魔王軍における序列の高さとは、すなわち発言権の強さであり、その差は覆らない。
いくらでも言い逃れられる立場にいると言うのに、責任の所在を明らかにしようとするその姿は、まさしくこの国の指導者に相応しかった。
「今の立場に、未練はないと?」
「誰かがやらねばならない仕事だが、もう私である必要はないからな」
そうだろうか。
一部には、『魔王』……国の指導者は、民によって選ばれるべきだと主張する者がいる。
建国王であった初代魔王陛下はともかく、権力の委譲が密室で行われるのでは、権力の暴走を止める手段がない、と。
――かつての人間国家の一つ、ペルテ帝国では、『選帝院』という国家機関によって皇帝が選出され、世襲ではなかった。
それを民間へ拡大する事で、私達は、より透明度の高い方法で、より良き指導者を選ぶべきだ――と。
一理ある。
まあ、そうしても玉座の座り手が代わる事はないだろう。
魔王軍が公式に販売している、軍幹部のブロマイドの売り上げ累計トップの不動は、レベッカ・スタグネット……現魔王陛下だ。
期間別ならば、"病毒の王"や"血騎士"、"上位死霊"に"折れ牙"と、当時の最高幹部の中でも迫る者がいる。
しかし、在任期間が違いすぎる以上、累計での差は揺らがない。
そして、あれほどの英雄達は、もういないのだ。
実力はともかく、武勇を示すような戦場自体が存在しない。
レベッカ・スタグネットにスキャンダルの気配でもあれば別だが、軍人だけでも、幅広い階級に人気というのは尋常ではない。
"第四軍"はもちろん、"第二軍"、"第三軍"にまで人気であり、"第一軍"と"第五軍"からの信頼も厚い。
目立った不手際もなく……なんと言うか、物質幽霊という希少種族である事も相まって、この種族が入り乱れるリストレアにあって、彼女以上に王に相応しい人物は、そうそう現れないだろうと思わせるほどの器量をお持ちだ。
ついでに外見も愛らしくあらせられるので、そういう意味でも人気が高い。
正確なデータはないが、先代陛下より子供達からの人気も高いとの噂。
彼女が立ち上がる。
しかし、大きくは目線が変わらない。
それでも、その姿は随分と大きく見えた。
「言った通り、好きに記事にしてくれればいい。私からは、妙な横槍は入れないと約束しよう。だが、少しだけ考えてくれ」
「何をですか?」
「"病毒の王"の行動は、当時の軍規定はもちろん、通常の法律にさえ抵触していない。そしてあの方は、当時六人しかいない魔王軍最高幹部だった。――陛下に次ぐ、特権を持っていた」
私は、うつむいた。
"病毒の王"がいなければ、確かに今の平和は、なかったのかもしれない。
けれど、あれほどの非道を、必要の一言では割り切れない。
当時を生きた人の……多分ほとんど全てを知る人の言葉を聞いても、まだ。
それだけの非道。それだけの『戦果』。
今、私達の国から一種族が欠けたら――と想像したら、それは恐ろしい事だ。
しかしそれは、過去に行われた事なのだ。
陛下の『生前の種族』はエルフだという。
私達ダークエルフと、ほんの少し肌の色の違う種族は、私達よりほんの少し耳の短い種族に、滅ぼされた。
そして私達は、その『人間』を滅ぼした。
善悪の境界は、容易く揺らぐ。
でも、だからこそ。
私達は、それを考えていかなくては――
「……でも、考えて欲しいのは、そういう事ではなくて」
はっとする。
彼女の言葉には、続きがあった。
「私達は、ルールのない戦争を生き延びるために、戦った……」
魔王陛下が、微笑んだ。
「それをなんと呼ぶかは、君達の自由だよ」