LAST EX. 毒蛇のいない世界
私は身支度をして、最後に銀髪を後ろで結んだ。
短いポニーテールを軽く払って整えると、リビングへ向かう。
「おはよう、レイチェル」
「おはよう、お母さん」
私はレイチェル・リットナー。
新聞社の老舗にして最大手"リストレア・タイムズ"に勤める、新米記者だ。
私はまもなく成人で、つまり――"戦後世代"だ。
あの戦争を、知らない。
母も父も、当時はまだ従軍出来る年齢ではなかったと言う。
両親もダークエルフで、必然的に私もダークエルフ。
なるべく家族で朝食の食卓につくのが、リットナー家の伝統だ。
一人っ子で三人家族だが、両親の仲はいいので、そろそろ妹か弟が出来るのではないかと思っている。
二人共若いので、外見では、娘の私と年齢差が分からないぐらいだ。
三人で朝食の準備を整え、食卓につく。
食事中に、母が私の恰好を軽く見て、言った。
「ところであなた、いつもその恰好だけど、おばあちゃんに気を遣いすぎなくてもいいのよ?」
「いや、普通に気に入ってるよ」
魔力布製なので、冬に暖かく、夏に涼しい。
各種術式にも気合いが入っているので、年末でもこの一式で足りるぐらいだ。
「それにおばあちゃんがね、『新聞記者はこの恰好がベストだよ』って」
白いシャツに茶色のベスト。今はかぶっていないが焦げ茶のキャスケット。下はグレーのスカートだ。
おばあちゃんの名誉のために、「ベストだけに」と言って手渡された事は伏せておく。
確かに、似た恰好してる先輩も多いけど。
しかし、あの"エリシャブランド"。
それも、近所にある本店で、蜂蜜色の毛色をした獣人の店員さんに「例の新聞記者らしい恰好をお願いします」と言って、ローテーション用も含めたフルセットをオーダーしたもの。
店員さんは猫耳をぴこぴことさせながら、「こういう注文は心に響きますねえ」と言って、実に楽しそうに注文を受けてくれた。
でも、その注文は、正直どうかと思う。
後で聞いたけど、いくらしたのかは、微笑んで教えてくれなかった。
嬉しいが、孫に甘すぎる。
母が、曖昧な笑顔になった。
「あー……おばあちゃんの言う事は、話半分にね」
「分かってるよ」
頷く。
彼女は、冗談が好きだ。
「年末には、王都に帰ってくるそうよ。それで、悪いんだけど、よかったら……」
「うん。軽く掃除しとくね」
おばあちゃんは王都に家を持っているが、留守がちだ。
我が家は、近所という事もあり、時折、掃除と空気の入れ換えなどしている。
「ありがとう。じゃ、気を付けてね」
「気を付けるって何に?」
心当たりがない。
「特に何って事はないけど、若い女の子なんだから色々よ。おばあちゃんも言ってたわ。『新聞記者はヤバいネタを仕入れて危なくなるから不安だなー』……って」
母の声真似は、割と似てる。
私は真顔になった。
「お母さん。おばあちゃんの言う事は、話半分に聞いた方がいい」
母も軽く頷く。
「まあそうなんだけど。『妙なネタを追っかけて事件に巻き込まれたら、軍に知り合いがいるから頼りなさい』って言ってたわよ」
「……あー……うん、そんな小説か演劇みたいな事が起きたらね」
おばあちゃんの中で一体、新聞記者はどんな職業になってるんだろう。
そりゃ若々しいから、色々新しい情報を仕入れてるとは思うけど、妙なフィルターが掛かってるような気がする。
文化が違うと言うか、世界が違うと言うか……。
おばあちゃんの軍人の知り合いと言うと、一人しか知らない。
私が髪型を短いポニーテールにしているのも、彼女の影響だったりする。
「それと、これ、おばあちゃんから。成人のプレゼント代わりにって」
「そんなのいいのに。……これ、なに?」
手紙だった。
封蝋で閉じられているが、僅かに魔力も感じる。
封蝋の紋章は『短剣をくわえた蛇』。
眉をひそめる。
それは、公式には存在しない紋章だ。……今は。
「『困った時に見せなさい』って。『保険』だそうよ?」
一体うちのおばあちゃんは何を目指しているんだ。
成人のお祝いに、祖母から謎めいた封筒が届く――それこそ、小説か演劇の始まりだ。
「本当の所、紹介状みたいなものらしいわ。軍の偉い人に取材の許可を取りたくなったら、って」
「なるほど」
確かにそれは、記者なら喉から手が出るほど欲しいアイテムだ。
実にタイムリーだった。
色んな意味で。
「今の調べ物に、使わせてもらおうかな。……回数制限とか、ある?」
「聞いてないけど、ほどほどにね」
「うん」
どれぐらい頼れるかも分からないが、ありがたく受け取っておく事にした。
隣の椅子に置いてある、肩掛けカバンに、丁寧にしまう。
「今は何を調べてるの?」
「色々だけど、個人的に"病毒の王"について、調べてるんだ」
「……へえ」
「……ふうん」
質問した母だけでなく、父さんも反応した。
父さんが新聞から顔を上げる。読んでいるのは、リストレア・タイムズ。それがいつもの光景で、新聞というものは身近にあった。
週に一度発行される新聞を話のネタにしている家庭は多いだろう。
国の正式広報に、事件や事故の報道、インタビュー、コラムにエッセイ。それらの比率が週によって変わる総合紙だ。
昔は新聞社は一社のみだったが、今では地方紙をはじめ、他紙もある。
リストレア・タイムズでは緊急ニュースは号外や特集号という形で別に出るが、他紙は、急ぎのニュースだけを取り扱ったり、逆に日常ネタに特化したり、大手であるうちと住み分けようとしている。
「……『懐かしい』ですね、あなた」
「……うん、そうだな。『懐かしい』な……」
二人は顔を見合わせて、しみじみと、言葉通り過去を懐かしむ様子を見せた。
「……? あ、もうこんな時間! 電車出ちゃう、行ってきまーす!」
ふと時計を見ると、もういい時間だった。
隣の椅子に置いておいた肩掛けバッグを取り、キャスケットを頭に載せる。
そして慌ただしく家を出た。
「……あの子、まさか全部分かっててカマ掛けてるとかないわよね?」
「さすがにないと思うけど。……一応『母さん達』に連絡しておこうか?」
残された二人は、今し方家を出た一人娘が残していった発言について話し合っていた。
「いいわ。……多分、そこまでは分からないし、分かったとしたら、むしろそっちの方が喜びそうな気がするのよ」
「……うん、そうかもしれない」
そして夫婦は二人して笑い合う。
二人は孤児だった。
共に、王立孤児院『リストレアの家』の出身だ。
同じような境遇の子供は、沢山いた。
多くの戦士達が戦場に赴き、そして帰らなかったのだから。
戦争の英雄とされている魔王軍最高幹部達も、姿を見せる事があった――
割と頻繁に。
特に約一名が、仕事はちゃんとやっているのだろーかと、来訪を嬉しく思いつつも、幼心に不安になるほどに。
その一名の元に集まるように、最高幹部も、各軍の幹部級……今でも現役メンバーに関しては定期的に発行され、戦中の物はかなりのプレミアがついているブロマイドなどでも人気があった人達が、よく顔を見せた。
何の分け隔てなく育てられ、不自由した覚えもない。
むしろ『家』の出身と言えば、一目置かれるほど。
近所の子供達も頻繁に遊びに来ていたし、親がいない事を寂しく思った事はあっても、自分の置かれた境遇を呪った事は、なかった。
ある日、お母さんと呼んでいいかと、おずおずと問うた一人の子を、深緑のローブをはためかせて、抱き上げて、抱きしめて、頬ずりした時の事を――皆がこのリストレアの子供であり、自分達が親代わりだと宣言した日の事を、あの家にいた子供達は、鮮明に覚えている。
けれど、二人が魔王軍最高幹部と最初に対面したのは、孤児院ではない。
「……もう、君を置いて逃げないよ」
「本当に気にしてないからね? 言ったでしょ。『親切にしてもらった』って」
今はここにいないもう一人、犬系の獣人の友達と共に三人で、『絶対に近付いてはいけない』と、大人達に大袈裟なほどにきつく言われていた軍施設を見に行くという、幼い日の冒険。
女の子が転んだ事に気付かず置いて逃げた二人の男の子にとって、それは心の棘だった。
本人の口から、もういいと言われはしても。
それは、友達を置いて逃げた、自分達の弱さを証明するものだった。
……戦後、魔王軍より、一人の最高幹部が孤児院を慰問に訪れた時、多くの真実を知った。
最初に優しそうな女性の声を聞いた理由。仮面が隠していたもの。庭に放たれた妙に毛づやのいい魔獣。……あの日、本当は何があったのか。
それらの真実を知って、確かに随分と心は軽くなったものの。
それでも、あの時の、彼女がどうなっているのかという不安を抱えながら、助けに向かう事さえ出来なかった無力さゆえの苦さも、忘れてはいけないのだ。
「……これも、今だから言えるけど」
「ん?」
「母さん達を見ていたから……君が、その、『僕』を見てくれないんじゃないかと、不安だった」
「馬鹿ね。……母さん達は、性別も種族も関係なしに、本当に幸せそうだったでしょ。あれを見て、誰かを好きになる事が、幸せな事なんだって、思ったのよ」
「……うん、私もだ」
「あら『僕』じゃないんですか?」
「今は、な。私はあの子の父であり、君の夫だから」
「ふふっ。二人きりの時は『僕』でもいいんだけどなー」
彼女が後ろから抱きついてみると、彼は首に回された手に、自分の手を重ねた。
「……いいんだ。昔は懐かしいけど、今が愛おしいから」
「あ、あら。母さん達の影響?」
「そうかもしれない」
さすがに子供の前ではあれでも控えていたのだと、今なら分かるが。
手を繋いで、抱きしめて、頬にキスをして、愛をささやいて……とにかくストレートな愛情表現をするひと達だった。