ゆるい職場
動きやすい服に着替え、訓練場……とは名ばかりの、森の中の草地に来ていた。
「……あの、マリノア先輩」
「なんだ?」
「私が着任の挨拶をした、理知的な上官殿はどこですか?」
「そこにいるだろ」
マリノア先輩が指差した先には、紺色の軍服を着た黒毛の獣人女性。
着任の挨拶をしたのだから、当然名前も、顔も知っている。
――"第三軍"に、いや、魔王軍で名前を知らない奴がいたら、そいつは不真面目すぎる。
戦後、存在感を増した"第三軍"魔獣師団の、師団長。
「カトラル様。新入りを連れてきました」
「今いい所なんです」
黒毛の猫耳が、ぴこぴこと揺れる。
その師団長様は、今、黒妖犬の首筋の毛に実に楽しそうにほおずりしていた。
「だそうだ。少し待て」
「……はい」
上官の言葉だ。
状況はゆるい――ように見えて、ふと背筋が寒くなるようだった。
黒妖犬が……十匹……二十匹……いや、分からない。
魔力反応での特定も困難。ある意味では『一匹』と数えるのが正しい。
全て、一つの群れ。
ついでに、絡み合うようにカトラル様の元に寄ってきているので、最早数えようがない。
黒い毛がうごめいているのを見ると……なんか目がちかちかしてきた。
適性検査の質問には、蜂の巣が嫌いかどうか、苺の見た目が嫌いかどうか……といった物がある。
膨大な質問の中にはダミーも多いという噂だったが、もしかして、ダミーと思った方が大事だったかもしれない。
カトラル様が、首筋の毛から顔を上げた。
「……固い話は後にしましょう。さっそく実地訓練ですね。お前達、新入りさんですよ。遊んでもらいなさい」
実地訓練とは。
「マリノア。あなたもです。最近『訓練』の時間が十分に取れていないでしょう」
「はっ、カトラル様」
この人達の言う『訓練』が、違う意味に聞こえてきた。
「ほら。前向きに考えろ。こんな、大型犬をモフっているだけで給料が出る職場なんて、中々ないぞ」
「え、先輩。今なんて言いました?」
「こんな責任感のある職場は中々ない、と言った」
「ちょっと! 本当は今なんて言いました!?」
先輩は笑顔になった。
「新入り。行くぞ。今から私がどれほどにやけようが、どれほど頭の悪い事を口走ろうが、それは仕事だ。忘れるな」
「信じられませんよ!?」
「だから難しい仕事と言っただろう。ハンドラーには守秘義務が課せられている。知らなかったのも無理はないがな」
私は叫んだ。
「いや、どう考えても言ったら恥ずかしいとか、馬鹿にされるからでしょう!?」
「ははは。馬鹿にさせておけ。私達とバーゲストがこの国を支えているんだぞ」
「支え方おかしいです!」
彼女は私の頭に手を置いて、銀髪を勢いよくわしゃわしゃとした。
「その顔だ。取り澄ました顔より、よほどいいぞ」
マリノア先輩は私の頭から手を放すと、わらわらと寄ってくるバーゲストを迎え入れ、さっき私を撫でたように、頭をわしゃわしゃとした。
バーゲスト達の尻尾が一斉に振られ、彼女は耳元を指先で掻くように撫でる。
……名前で呼ばれないあたり、私も軍人ではなく犬扱いされている疑惑。
なんか撫でるの上手かったから、また撫でて欲しい……とかそんな事を思ってしまったけど。
バーゲストが私の元に寄ってきたので、マニュアルを思い出し、そして、さっきマリノア先輩に撫でられた手つきを思い出し、その頭をガシガシと強めに撫でた。
ひとまずお気に召したようで、マリノア先輩やカトラル様相手よりは控えめな気がするが、尻尾も振ってくれる。
「マリノア。彼女、固さが取れていますね。新入りにしてはいい傾向ですが、どうしたんですか?」
「彼女は真面目なので、マニュアルをきちんと読んでくれたのでしょう」
それ子供扱いって言いませんか。
あれ子供向けだって言ってたじゃないですか。
成人前にも温泉旅館で下働きとかをしていたし、"第二軍"でも一兵士として勤め上げた。
でも、大型犬を撫でただけで褒められる職場は初めてだ。
寄ってきてくれるのは嬉しいし、撫でられて素直に喜んでくれているらしいので、それも普通に嬉しい。
でも、遠い目になる。
「私……やってけるかな……」
「私も最初はそう思ったよ」
少し遠い目になる先輩。
「やっぱり!」
「慣れろ」
カトラル様が、口を開いた。
「マリノアだって、初々しい頃があったんですよ。――それ、"病毒の王"様の口調を真似してるんですよね?」
「……カトラル様!」
先輩が、顔を赤くして叫んだ。
カトラル様が、笑顔を深める。
「……先輩?」
「職場とプライベートで口調違うぐらい、当たり前でしょう。対外的なお仕事も増えたし……」
うっすらと頬を染めて、目をそらしながら、さっきまでの固い口調とは違う話し方でぼやく先輩。
「"蛇の舌"で演技の指導まで受けたって言ってました」
「え、そんな過去が」
あの有名な劇団に。
一体どんなコネが? ――ああ、軍経由の依頼か。
すぐに納得する。
「……だってカトラル様が今より表に出たら、いつボロを出すかと思うと、不安すぎるじゃないですか」
師団長様の対外的な露出が少ないのには、そんな事情が。
しかしカトラル様はしれっと言った。
「私、対外的にボロを出した事ありませんよ」
マリノア先輩が、湿度の高い視線を向ける。
「"病毒の王"様が黒妖犬を初めてお見せして下さった時の事を、我らは覚えておりますからね」
カトラル様は、笑顔で首を左右に振った。
「記憶にございません」
「"病毒の王"様のダメな所を学習しすぎですよ」
カトラル様が真顔になり、頭を下げる。
「善処します。善後策を検討させていただきます」
「改める気ゼロですね……!?」
さっきの私と先輩を見ているようだった。
どうも、ダメな伝統があるらしい。
マリノア先輩もかなり染まっているような気がする。
と、そこでバーゲストが身体をこすりつけてきたので、首筋をぽんぽんと叩き、わしゃわしゃと撫でた。
……もしかして慰めか? 慰めなのか?
「先輩にとって……"病毒の王"様の影響、大きいんですね」
マリノア先輩が、真顔で頷く。
「……インパクトと……インパクトと、あとインパクトあったから」
「どれだけ衝撃が大きかったんですか」
彼女は頭を振って、口調を戻して答える。
「いや、あのひと、頭おかしかったぞ。もちろんいい意味だが」
私は眉をひそめた。
聞き慣れなさすぎる言葉。
「いい意味で頭おかしいってなんですか……?」
「そこのカトラル様を見れば、なんとなく分かるだろう? 常軌を逸した動物好きってのは、いる所にはいるもんだって思ったよ」
私達に構わず、バーゲストの喉元の毛に両手を突っ込んでもみもみしているカトラル様を示す先輩。
「ちょっ……仮にも上官ですよね?」
「否定はしませんよ」
さすがに慌てる私に、涼しい顔で言うカトラル様。
否定しないのか。
カトラル様が、私をじっと見て……微笑んだ。
「……私達がゆるすぎて、不安になりました?」