憧れの向こう側
それが彼女にとってはただの仕事だったとしても、私にとっては救世主であり、英雄だった。
その姿に、憧れた。
だからこそ、この道を選んだ。
――自分の長い耳が、へたりと下がったのが分かる。
「……それが……まさかこんな……」
「ならばお前は上っ面に憧れていたという事だな。次の部署転換希望には別の所を書くといい」
「そんな! ……こと、は……」
言葉が尻すぼみになり、私はうつむいた。
……上っ面に憧れていたのだろうか?
自問した。
軍務としての厳しさは、想定していたつもりだった。
しかし、こんなゆるさは、想定していなかった。
「――バーゲストは、確かにこの国になくてはならない。だが、我々はそれを……打算や利益を超えて、バーゲスト達と信頼関係を築かなくてはいけない」
「それは、分かって……」
「まだ分かっていない。さっきみたいな言葉が出るようでは、な。これから分かる事を期待する」
「……はい」
私は頷いた。
――『これから』という言葉があった事で、まだ、自分が見放されていなかった事を知って、ほっとする。
「"病毒の王"様の手によって、本来人に懐かぬ、範囲を決めて警戒させる程度の魔獣種が、複雑な命令を聞き……時に、自らの意志での行動さえするようになった時、どれほどの革命が起きた事か」
私が助けられたのは、黒妖犬運用の歴史で言うと、かなり初期の話だ。
両親から、黒妖犬の事は、こう教えられていた。
森で赤く目の光る黒い犬と出会ったら、お腹が空いていない事を祈りなさい、と。
必死に自分なりにお祈りを考え、練習したが、少し大きくなってからは、それが『諦めろ』という意味だと分かった。
今では――学校で黒妖犬について教えられる内容は違う。
かつての歴史……黒妖犬が"死の使い"と恐れられ、『見たら死ぬ』という伝承があった事。
現在は大陸の全ての黒妖犬がリストレアに属していて、警備や捜索の任に就いているという事。
馬車が立ち往生した時にはもう、両親も私も、数年前に行われた告知でバーゲストが遭難救助に使われ始めた事は知っていたが、半信半疑だった。
――本物のバーゲストに助けられるまでは。
「これは、"病毒の王"が手ずから書き記した、本人の言葉。歴史書には記されない、真実の姿だ」
真実。
……これが。
「……確かに、印象が、随分と……違います」
「うん、まあな。元々、子供向けに用意された文章だから」
「今なんて言いました?」
子供向け?
「結局その企画はなくなったんだが、分かりやすかったから、正式にマニュアルとして採用されたんだ」
「確かに分かりやすいですけど! その……格調とか……!」
マリノア先輩がわざとらしく笑う。
「ははは。気にするな」
「気にしますよ!」
「――気にするな」
真面目な顔で発せられた一言は、重かった。
「私達に必要なのは、体面を保つ事ではない。言動を飾る事でもない。ただ目の前の存在に向き合い、愛さねばならない。この上なく――……『便利な道具』に対して、打算を超えた絆で繋がらねばならない」
ぞくりとした。
覚悟が……軽かったのかもしれない。
黒妖犬は、ひととは違ういきもの。
現実として、黒妖犬のおかげで、死者や行方不明者は戦前より減った。
犯罪の摘発率は元から高かったが、さらに高まってもいる。
おそらくは、抑止力にもなっているはずだ。
もしも私達が信頼を損なえば、それがなくなる。
もう私達は、黒妖犬の事を恐れるべき魔獣としてではなく、便利な道具として見てしまっている。
けれど、少なくとも私達は……"ハンドラー"だけは、そう見てはいけないのだ。
金塊や宝石を、その貨幣価値ではなく、その美しさのみ愛でるような、そんな心が必要とされる。
私に……出来るだろうか。
先輩は安心させるように口元を緩めて、肩を叩いた。
「……一日やそこらでそうしろ、と言うのではない。ただ、舐めた態度は取るなよ。あいつらは優しいから死者は出ていないが……首筋に牙を当てられた奴は、何人かいるんだ」
「え、その人達……どうして……」
軍において『訓練中の事故』は、毎年起きている。
治療魔法も発達し続けている今、死者は少ないが……訓練でさえ、死者はゼロではないのだ。
「厳重注意の上、配置転換。以後、魔獣師団には関われない」
少しほっとする。
納得のいく、きちんとした罰だ。
もう少し厳しくてもいいのではと思うぐらいだが――
「後、上から睨まれる」
出世は見込めなさそうだった。
「行くぞ。――さっそく訓練だ。バーゲストとの初顔合わせを行う。汚れてもいい服に着替えろ」
「――はい」
私は立ち上がると、背筋を伸ばした。
薄い胸を固めた拳で軽く叩いて、気合いを入れ直す。
私達は、この国の守り手。
私は、覚悟を決めている。
軍人として誓った。
ハンドラーに憧れて魔王軍に志願した。
だから"第二軍"として勤め続けるのではなく、魔獣師団への転属を希望した。
でも、それがただの憧れだったとは思わない。
適性テストは、"第二軍"である程度の結果を出さねば、受ける権利さえ与えられない。
転属のための推薦も同様だ。適性試験だけなら合格者はもっと多い。
ハンドラーに憧れた。
それを、ただの憧れで終わらせたくなかった。
だから、私は今ここにいるのだ。
この国のために。
かつて受けた恩を返すために。
先人が残した物を、未来に繋いで行くために。
妙なゆるさに戸惑っても、それだけは。
それだけは、変わらない。