EX25. 国家のためにもふもふするお仕事・その後
"病毒の王"に関しては、数々の逸話が、多大なる功績と共に残されている。
その中の一つ。
黒妖犬の調練手法の確立。
現在、リストレアの全域に配備された黒妖犬と、そのハンドラーがいなければ、この国は立ち行かない。
遭難事故の際の捜索・救助。
居住区域の巡回・警備。
犯罪者の追跡・捕縛。
かつての、敷地内に放たれた、許可なく近付く者を噛み殺す猛犬としての扱われ方から、随分と進歩した。
それらは全て、"病毒の王"がいなければ、存在しなかった。
今では、教科書にも載っているぐらい、当たり前の事。
もちろん、その手法を後世に伝え、発展させてきたハンドラー達の功績も忘れてはならない。
けれど、魔王軍の中でもエリート中のエリートたる黒妖犬のハンドラー達は、誰もがこう語る。
「あの方がいなければ、黒妖犬は今のようではなかっただろう」
具体的な手法は、機密。
安全のためだ。
もしも万が一、ただの犯罪者が黒妖犬を手懐けるような事があれば、恐ろしい事になるからだ。
資格なしに黒妖犬を使役する事は今では禁止されているし、それを使った犯罪は、一級犯罪として裁かれる。
もちろん、黒妖犬を手懐ける事に成功した者はいない。
"病毒の王"が伝えた秘技を知る、ハンドラー達を除いては……。
私は、「初仕事だ」と言って渡されたマニュアルを机に置いた。
"第二軍"より"第三軍"の魔獣師団に転属を志願する私のようなダークエルフは、今では、それほど珍しくない。
それでも、転属が認められる者ばかりではない。
厳しい適性テストがあり、私も二度、落ちている。
それでも諦めきれずに、今こうして、ようやく"第三軍"への転属と、魔獣師団への配属が――あくまでハンドラー見習いとは言え――叶った。
だから、目の前のマニュアルは、私が人生を懸けて追い求めた憧れの象徴に等しかった。
正に秘密が記されているといった風情の、無地の表紙。
黒妖犬の調練に関する、極秘文書。――ハンドラーにのみ閲覧を許されるという、機密中の機密。
期待に胸を膨らませ、中に何が書かれているのか少し不安にも思いながら、冊子を開き、読み始めた。
そして、一度冊子を閉じた。
「…………」
思わず、宙を見上げてしまう。
視線を戻し、冊子の表紙を見た。
もちろんそこには、何も書かれていない。
「…………」
思わず周りを見渡してしまうが、"闇の森"駐屯地にある一室には、誰もいない。
さっきマニュアルを渡してくれた先輩も、退室している。
それほど分厚いマニュアルではない。
人によっては暗記出来そうなほど。
「…………?」
もう一度開くと、一ページ目には冊子のタイトルらしきものが記され、次の見開きからはページごとに一つ、心構えのようなものが書かれている。
ぱらぱらとめくり、書かれている内容を軽く通しで確認して、もう一度きちんと最初から開き直した。
そして読み込んでいく。
知らず知らずのうちに、眉をひそめながら。
読み終えて、さらに何周かした所で、部屋に人が入ってくる気配を感じて、私は顔を上げた。
犬系の女性獣人だ。
肩まで伸ばされた髪はぴんと立った耳と同じ濃い焦げ茶で、耳先と髪先は、光を透かして明るい茶色に見える。
「マリノア先輩……」
ハンドラーの中でも最古参。
紺色の軍服を着てさっそうと歩く姿は、私にとって、憧れだった。
広報のような仕事もしているので、露出度が高いのだ。
新聞の取材に、学校での講演など、バーゲストへの恐れを払拭し、ハンドラーの仕事を周知させた立役者とも言えるだろう。
魔獣師団の師団長はあまり表に出てこないので、一般市民の間では、彼女の方が有名だ。
「どうだ、新入り。読み終えたか?」
「はい。……あの、先輩」
慎重に言葉を選びつつ、机の上を滑らせて、冊子を差し出した。
「申し訳ありませんが、この冊子は間違っているのではないでしょうか」
「なんだ。乱丁でもあったか? どれ」
マリノア先輩が冊子を取り上げる。
そして表紙を見て、内容を一ページずつ見て行く。
一読し終えた所で、ぱたん、と閉じた。
「……別におかしな所はないが」
「いえ、全体的におかしいです」
ふるふると首を振る。
「これを渡される際には、"黒妖犬"調練のための指針を書いた極秘文書である……と言われました」
「その通りだな」
「まずこれを読み、黒妖犬に対する理解を深めるように、という意図であると認識しています」
「ああ、その通りだな」
「つまり、この冊子に記載された内容は、黒妖犬の生態や特性であり、それを踏まえて、我らが取るべき行動であるはずです」
「まったくもってその通りだな」
頷いて相槌を打つ先輩に、私は思わず厳しい視線を向けて、声を荒げていた。
「では、その冊子のタイトルが『バーゲストのしおり ~バーゲストとなかよくしよう! ~』なのは、一体どういう冗談でしょうか?」
しかし彼女は真面目な顔で問い返した。
「お前は、これが冗談に思えるのか?」
「え……それ、は……」
口ごもる私に、彼女は続けた。
「重ねて問おう。新入り。バーゲストの調練手法は機密だ。当然ながら、君は知らない。――その君が、この文書の内容に疑問を呈すると?」
「……で、でも。だって、頭おかしい……そう! おかしいじゃないですか!」
うろたえながら呟くように言った、自分の言葉に勇気づけられるように、叫ぶ。
「ステップ1からして、『バーゲストの事を大好きになろう』ですよ!?」
「当然だな。その一文でもいいぐらいのシンプルさだ」
「……ステップ2が、『なるべく一緒にいよう』なのは、まあいいとしても」
「入浴から就寝まで、もふもふ漬けだな」
「ステップ3が、『スキンシップは強めが好き』で、ステップ4が『怖がらずにぎゅっとしよう』って!」
「大事だな」
マリノア先輩は、その全てに真面目くさった顔を崩さずに、頷いて見せた。
「……冗談じゃないんですか?」
「冗談ではない。これが、かの"病毒の王"が確立した、バーゲスト調練の手法。その入り口にして最奥だ」
「……この国おかしいですよ」
「固いな。お前は相応に期待されているのだろう? 適性テストで二度もはねられながらも、それでもハンドラーを希望したと聞いた」
「はっ。事故救助、広域警備、犯罪捜査。バーゲストはこの国の平和のためになくてはならぬものです。――私も幼い頃、ハンドラーに命を救われました。それゆえ、一生の道として志したのです」
ぴしりと背筋を伸ばし、決意を語る。
私は北部の生まれだった。
交易商の娘で……冬の"闇の森"で荷馬車の車輪が壊れ、予備の車輪に交換し……違う車輪が壊れた。
馬車は、どこもかしこもボロボロだったのだ。
だから馬車を新しくしようと言ったのにと父を罵る母と、そんな金がどこにあると言い返す父。
一山当てようとしなければ、新調はともかく、もう少し整備しても利益は出たと子供心に思うが、両親は割とギャンブラーだった。
借金まみれ……と言うほどでもないが、事故で荷物を失ったり、時流を読み違えたり……。
借金というのは人の判断力を狂わせる。
両親は、一山当てようとした。
生活必需品を地方の村へ届けるのがメインだったが、それの範囲を拡大させ、かつ、それを冬季まで延長する事にした。
――冬場だからこそ稼げると踏んで馬車を出したのだが、それは同時に、人通り自体が少ないという事だった。
もちろん移動予定は、交易路の中継点ごとに届け出てある。大事なセーフティネットだ。
しかし、人自体がいなければ。
それでも一時間に一度、見つけてもらえる事を祈りながら、発光に強めに振った"火球"を空に打ち上げる。
二十発目で、その光は、か細くなった。魔力が尽きてきたのもそうだが、吹雪いてきたのだ。
両親はもう、喧嘩をしていなかった。
私を真ん中に置いて、"冷気耐性付与"の魔法が込められた服と毛布にくるまりながら、祈るように助けを待った。
二人共、冬の寒さで弱っていて……位置を示す"火球"も打ち上げられず、吹雪で火もおこせず……。
そこに来たのが、黒妖犬だった。
保温された温かい飲み物と食糧に、私達が使っているのより一段と温かい上等な毛布を背負い、捜索に来て、見つけてくれたのだ。
まもなく吹雪の中にも関わらず救助が来た。
荷物も後日回収され……馬車こそ失った物の、なんとかひどい借金までは背負わずに済んだ。
一山当てるのを諦めた両親は、大きくなり始めたリタル温泉街で仕事を見つけ、私が軍に志願するまでには、ゆっくりと借金を返し終えた。
なんでも、長期間勤めるのを条件に、方々に細かくあった借金を一つにまとめて、給料から天引きにして返す契約にしてもらったという。
口先で契約魔法を無効化して借金を踏み倒して逃げた事もある、子供心に尊敬出来ない所のあった父が、「こんなに完璧に縛られた契約魔法を見た事がない」と言うほど。
一応、以前踏み倒したのは、それはそれで違法の闇金融で、逃げている間に、『上』が戦後一周年になにやらやらかして、下部組織も芋づる式に摘発されて潰れたという話だ。
でも武勇伝のように語るのはどうかと思うし、母も何故誇らしげ?
――そんな両親も、今は真人間になってくれた。
全ては、命あっての物種だという事を、悟ったらしい。
私達は、バーゲストとハンドラーに救われた。
それが、私の原点。
この人は覚えていないだろうけれど。
深い雪の中をやってきてくれた、捜索隊の"ハンドラー"は。
目の前の、マリノアさんだったのだ。