当たり前のない種族
私は、自分の種族に無頓着すぎた。
私が生まれた時から、母は役者で……同じく役者であるドッペルゲンガーのお姉様方は、みんな優しくて……。
私はドッペルゲンガーだから、ここにいる。この立ち位置にいる。
陰口も嫌味も、あながち、ゆえのない物とも言えない。――他ならぬ私自身が、そう思っているのだ。
だから私は『ドッペルゲンガー』について、知らなければいけない。
「自分の種族の事ですものね……でも、長い話になってしまいますから、要点を絞って話しましょうか。何が聞きたいですか?」
どこまでを聞けるか、話してくれるのか……聞いていいのか、分からない。
それでも、三十年前に何があったのか、少しでも知りたくて。
控えめに、探るように問いかけた。
「ドッペルゲンガーって……その、立場、弱かったんですか?」
「弱かった?」
彼女は、わらった。
疲れたように、口元を歪めて。
座長のそんな表情は、今まで一度も見た事がなかった。
進行が厳しい時も、舞台が酷評された時も、笑顔を作って見せてくれていた彼女の、そんな色んなものを諦めたような『笑顔』は。
「……私は、両親の顔を知りません。孤児院にいましたよ。すがれるものは、王立の孤児院だけ。『種族間の差別を禁じる』というリストレアの理念、ただ一つ」
「だったら……」
「……私達は、弱すぎた」
ぽつり、と呟く。
「他の人が出来る『当たり前』が出来なかった。私は、かろうじて日常生活用魔法は使えるようになりましたが……それさえ、ドッペルゲンガーの中には出来ない者もいる。今は、便利な道具も増えましたけどね」
彼女は、ローテーブルに置かれた水筒をひょい、と取り上げて振った。
中身がちゃぽちゃぽと音を立てる。
中に入れられた物の温度を保つ――ただそれだけの、便利な道具だ。
疲れている時には便利だし、大容量の物は商業的にも重要ではある。
でも、魔力制御が上手ければ、お茶を温めるのも、お湯を沸かすのも、そう難しい話ではない。
「魔王軍の兵士はもちろん、本格的な力仕事も夢のまた夢……。魔力布も織れず、魔法もほとんど使えず、不死生物の『供給役』にさえなれない。下働きをすれば……飢えて死ぬ事はないにせよ、それ以上も望めなかった……」
聞いているうちに、心臓が、どくん、どくん、と動くのがはっきりと分かるようになっていく。
わーん……と、耳鳴りがする。
これは、不安、だ。
さすが座長と言うべきか、感情を込められて語られる言葉は、ことさらに声を張り上げてもいないのに、ドッペルゲンガーの置かれていた苦境を鮮やかに……そして、重苦しく描き出していく。
でも、この感情は演技ではない。
「……能力に対して、不当な扱いを受けたと思った事はないのです。そういう意味での『差別』はなかった。ただ、私が……ドッペルゲンガーという種族が、このリストレアにおいて、弱すぎただけで……」
私達よりも、『強い』種族が、この国にはいる。――全てだ。
竜は別格としても、ダークエルフも、獣人も、不死生物も、悪魔も、私達より遙かに高い魔力や筋力を持っている。
その全部が、私達より『優れて』いる。
ドッペルゲンガーには、何に使えばいいのか分からない変身能力しか、ない。
筋力も魔力もコピー出来ない、姿と振る舞いを真似るだけの、そんな力しか。
平和な時代に、舞台の上で娯楽を提供する――そんな、力しか。
だから座長は、涙をこらえるように顔を歪ませて、吐き捨てるように、呟くように、絞り出すように、今日私が言った言葉を、その何倍もの重さで口にした。
「ドッペルゲンガーになんて、生まれたくなかった。両親に愛されて、友達がいて、未来に希望がある……そんな風な、『当たり前』が、欲しかった……」
母は、笑っていた。
成人と同時に、縁を切られた、と。
それを笑顔で娘の私に語って、そして私の事を宝物だって言って、抱きしめた。
思い返せば、理由を聞いた時、母は一瞬だけ固まった。
母は、飲み込んだのではなかったか。
縁を切られたの前につく『ドッペルゲンガーだから』という言葉を。
『ドッペルゲンガーは、親の種族を継がぬ忌み子』という言葉を、私に伝えないために。
私が、自分の種族を呪わないでいいように――
「――でも、そんな私達『ドッペルゲンガー』を、望んだ人がいた」
はっとする。
重苦しい、視界を狭める閉塞感と絶望を払う、一筋の光のような強さ。
「……聞きますか? 聞いたら……私達の事、嫌いになるかもしれませんよ?」
座長は、試すように……怯えるように、私をちらりと見た。
「……なりません。座長も、母も、お姉様達の事も……絶対に、嫌いになったりしません」
「そう、ですか」
座長が一口、ハーブティーを飲む。
その手が、一瞬震えた。
そしてカップをテーブルに戻すと、私の目をまっすぐに見た。
「私達は終戦まで、"第六軍"にいました。"病毒の王"の名において戦いました。……ドッペルゲンガーの変身能力を、戦いのために使いました」
「兵士には向いてないって……」
「"第六軍"、擬態扇動班の長、クラリオン。……私が誇りと共に今も胸に抱く称号です」
「擬態……扇動?」
「そのままの意味ですよ。時に隣人に。時に役人に。他人の姿を借りてなりすまし、時に不安を煽り、時に暴動を起こす……それが役目の部署がありました」
淡々と語られる、私の知らない歴史。
それなのに、知っている気がした。
『短剣に恋をした蛇』の、テストに出ない所で。
それを、見た気がした。
「集団心理に、同調圧力……私達が自分で考えた手法もありますが、その多くは、マスター……"病毒の王"様が提案されたものをベースにしています」
『マスター』。
今日出会った、そう呼ばれていた人の事が思い返される。
「……人の心を、あんなにもよく分かる人が、人の心がない手段を選んだ。部下の安全や待遇に気を遣える優しい人が、混乱と争いの種を蒔き続けた……実行したのは、私達ドッペルゲンガーが中心でしたけどね」
あの人の種族は――なんだった?
しっかりと姿を思い返そうとして、早くも霞が掛かったように、遠い記憶になりかけている事に気が付いた。
笑顔を覚えている。
黒髪も、ダークエルフの物でない白い肌も。
……獣の耳を、持っていただろうか?
あの人は、死霊だ。それは間違いない。
では、『生前の種族』は?
……知っている魔法の気配を、感じたのではなかったか。
認識に働きかけるタイプの、幻影魔法を。
長い耳も、獣の耳も持たぬ種族。
それは、今は歴史に語られるだけとなった、もうこの大陸にいない『人間』しか――
「……幻滅しました?」
黙り込んだ私に、座長はそう問いかけた。