最終日の夜
約半日後、私は廊下に出て、自室のドアに背をもたせかけながら、バーゲストを撫でていた。
エリシャさん作のワンピースではなく、リズ作の深緑のローブ姿だ。
「……デイジーさん。今度は何をしてリズさんを怒らせたんですか?」
「いや、怒らせてないよ」
仕事終わりのレイラとライラが、廊下にいる私に気付いて声をかけてきた。
第一声から、普段どう思われてるのかよく分かる。
「でも、デイジーお姉ちゃんが何かしたんでしょ?」
「今日は違う」
本当に――違うのだ。
そこへ、ハルとディアナも連れ立ってやってくる。
「支配人。リズさんに謝った方がいいよ」
「支配人さん。つまらない喧嘩は、すぐ終わらせた方がいいと思います……。誠心誠意、心を込めて謝れば、リズさんは許してくれますよ」
二人とも、第一声がレイラとライラと大体同じ。
私が、リズを怒らせて廊下に追い出されるような、何かをしたと疑ってない。
「……いや、本当に今日は違う。喧嘩じゃない。大丈夫だよ」
実際の所、私はリズと喧嘩らしい喧嘩をした事がない。
意見が食い違う事もあるし、怒らせる事も、たまにはある。
ただ、大抵私が全面的に悪いので、『喧嘩』にならないのだ。
十年以上一緒にいるとそれはまあ、ちょっぴり険悪になった事ぐらいはあるが、大抵は大事になる前に収めてきた。
以前も部屋を追い出された事はあるが、それは顔を見るとリズが冷静になれないからで。
――つまり、今のような。
プライベートな事なので、曖昧にして、きちんと説明していない。
なので、従業員の間では、喧嘩して反省するまで部屋を追い出されていた……という認識だったらしい。
「おー、小娘共。どうしたんだ。追い出された支配人を慰めてるのか?」
ドクターが、バーゲストを一匹連れてやってきての第一声もこう。
やっぱりそう見えるのだろうか。
「……違うんですよ、ドクター。喧嘩とかしてなくて……ちょっとした冷却期間的な……」
「ああ、そうだよな。分かってるよ、デイジー」
にっと笑って、私の肩をぽんと叩くドクター。
「お前が嫁さんを怒らせたら、喧嘩にならんわな」
認識が正確すぎてひどい。
そこで、がくんとなった。
背を預けていたドアが、薄く開いていた。灯りは点いておらず、光は漏れない。
リズの声が、暗い隙間から聞こえる。
「……喧嘩とかしてないです。明日から、ちゃんと仕事に戻りますから」
そしてもう少しドアが開いた隙間からリズの手が出て来て、私を引きずり込む。
私は引きずり込まれる前に、廊下の前の皆に手を振った。
「明日から、またよろしくね」
バタン、とドアが閉まる。
私の隣にいたバーゲストも、するりと素早く入っていた。
「……ええと、リズ」
暗闇でも彼女の姿がはっきり見えるのは、不死生物になってよかった事の一つ。
いつものメイド服姿のリズが、単刀直入に切り出した。
「……忘れてくれますか?」
「ごめん。それはちょっと難しい」
リズから求めてくれる事はあったが、こんなに情熱的なのは久しぶりだ。
そして今の、長い耳を下げて、顔を耳先まで真っ赤にしている表情も、忘れる事など出来ようか。いや、出来はしない。
リズがうつむく。
「ですよね……」
泣きそう、と言うより半泣き。
目の端に涙を溜めてふるふると震えるリズの姿を見ていると、愛しさがこみ上げてくる。
私は手を伸ばして、指先で涙をそっと拭った。
「……マスター」
そして腰を抱いて引き寄せて、じっと見つめる。
「……私は、リズの事が大好きだよ?」
「……知ってます。でも、『あんな』……」
彼女が目をそらした。
「私は、嬉しかったよ。肉食獣みたいなリズも好き」
昔は、私が求めてリズが応えるというのが、当たり前だった。
添い寝やお風呂のお誘いも、日常のスキンシップも、そのほぼ全てが、私からの『お願い』だった。
命令でこそなかったが、当時のリズにとっては階級がちらついていた事だろう。
……今日のリズは、最適化して、ちょっと暴走してまで、私を求めてくれた。
求めてくれるのが、嬉しい。
お互いにお互いを求めているのだと思えるのが、嬉しい。
「いい思い出になるよ、きっと。あの年の夏休みは、みんなで旅行して、最終日はリズと部屋で過ごしたなあって、思い出すよ」
「やっぱり忘れてはくれないんですね?」
「それはちょっと難しい」
無理です。
「……分かりました」
リズが頷く。
へたっていた耳が、力を取り戻してピンと立った。
そして私の腰に手を回して抱きしめ返し、首を伸ばして、小鳥がついばむような短いキスをした。
「……リズ?」
どうして、この行動に至ったのか、よく分からない。
分からないが、とりあえず、ちょっと上目遣いになって私の事をじっと見てくるリズが愛しかったので、同じような短いキスを返してから聞いた。
「どうしたの? これなんのキス?」
「理由って要りますか? ……と言いたい所ですけど、上書き用です」
首を捻る。
「上書き?」
「忘れて下さい」
力技すぎる。
より強いインパクトで記憶を上書きして、それ以前の事を忘れさせようとしているのは分かった。
私の記憶領域に書き込まれている思い出は、リズが一番多いだろう。
それまでの思い出が、ボロボロだから。
……でも、まだまだ余裕がある。
既に不死生物だし、そうでなかったとしても、もう一度『生き返る』事が出来るほどではないだろう。
それでも、リズの愛らしい姿をしっかりと記憶に留めておけるぐらいには、余裕がある。
必死なリズには悪いけど、別枠保存だ。
「……付き合うよ。二人きりになりたいし、今日は上のお風呂行こうか」
リタル様のために作った大型の露天風呂は、今日は利用予定がなかったはず。
支配人権限を少しばかり乱用しても許されるだろう。
リズの腰に回した手を外し、身体を離した。
リズが、その代わりにそっと指を絡めてくる。
私も指を絡め返し、軽く握り、でも固くしっかりと手を繋ぐ。
「ええ。マスターが今日という日を思い出す時は、今からの事を思い出すぐらいにしてやりますよ」
何それ。
どんな可愛いリズが見られるか、楽しみすぎてドキドキする。
上書きというのはあくまで比喩で、他の思い出を増やす事で、印象を弱めようとしているのかと思っていたが、どうやら本気らしい。
リズが、不敵に笑った。
「全部、上書きしてやりますから」
恥の上塗りという言葉が頭をよぎった。
リズは多分……早ければ明日にでも、今日の今からの事を思い出して、もだえると思う。
私はとりあえず、今日のリズは全部可愛かったと思い出すような。
そんな、気がした。