なつやすみ最終日
楽しい時間も、いつかは終わる。
それは、どの世界でも同じだ。
私は、ブリジットを抱きしめた。
「またね、絶対ね」
「ああ。元気にしてろよ」
彼女は、私を抱きしめて、髪を撫でた。
身体を離すと、レベッカが近付いてきて、軽く腕を引いて私をかがませて、抱きしめた。
そして、耳元にささやいてくる。
「リズと仲良くな、マスター」
「……ん」
彼女の細く、華奢な体を、ぎゅっとする。
レベッカの長い耳に口を寄せた。
「レベッカもブリジットお姉ちゃんと、仲良くね?」
「……ああ」
身体を離すと、レベッカの笑顔が目に入る。
「こっちのお姉ちゃんより、随分とまともそうだし」
レベッカは、笑顔の時ほど攻撃力が高い法則。
少し待ってみるが、冗談だと言ってくれなかった。
「……お前は、私の知ってる誰にも似てないし、私の知る限り、一番頭おかしいけど……」
もう一度腕を引かれて、かがまされる。
また耳元に何事かささやくのかと、レベッカのウィスパーボイスを堪能すべく、耳に神経を集中させて――
ちゅっ、という軽い音に、脳が止まった。
レベッカが手を離し、固まった私を置いて身を引く。
「え、今……みみ……」
「仲のいい姉妹なら、普通の挨拶だよ」
こともなげに言うレベッカとの温度差で、頬が赤くなる。
レベッカはリズと並んで、私にとって教師役だけど。
沢山の事を教わって、信じているけど。
耳にキスするのは、絶対、姉妹でも普通の挨拶じゃない。
「……そんなお前だから、うちの馬鹿野郎共は、慕ってるんだろうな」
今回は都合がつかず会えなかった『うちの馬鹿野郎共』――死霊騎士達と死霊暗殺者達は、"荒れ地"の"第四軍"本陣付きだ。
彼らほどの戦力を必要とする事態はそうそうないので、普段は訓練教官か工兵という、両極端な役割を請け負っていると聞く。
全員、危険水準まで強化された影響で大食らいだが、私の個人所有の牧場から、家畜を格安で購入する契約を結んでいる。
採算度外視の義理人情に基づいた原価ギリギリなので、ほとんど利益は出ていないが、固定の大口客がいるようなものなので、低空飛行ながら意外と業績は安定していたり。
そこでレベッカが、ちょっと視線をそらす。
「……私も、馬鹿野郎共の一員みたいだが」
「レベッカ……」
彼女の手を取る。
そして笑った。
「大丈夫だよ。私は、馬鹿野郎共の親玉だからね」
レベッカも笑った。
「……うん、何も大丈夫じゃないな」
そして、笑顔のまま一刀で切り捨てる。
「それに発言のおかしさも一番だ」
さらに返す刀でもう一太刀。
「でも、楽しい休暇だったよ。また会えるのを、楽しみにしてる」
そして、死体に向かって刀を拭った紙と一緒に放る手向けの一言のような、優しい言葉をかけてくれる。
飴と鞭のバランスおかしいけど、ムチも割と好きだし、アメに中毒性がある。
「あ……そろそろ行かないとな」
ブリジットが壁の時計を見た。
そして、ワンピースの上に、フード付きのマントを羽織る。
一応ワンピースも魔力布だが、お客様には、万が一の事故に備え、送迎時には暖かい恰好をお願いしている。
「うん……気を付けてね」
もうそろそろ、『定期便』が出る。
多少は待ってくれるが、それを当て込んで遅らせる訳にもいかない。
私達は廊下に出て、二人ずつに分かれた。
「ここでいい。あと、チェックアウトだけだからな」
「……うん」
ブリジットの言葉に頷く。
「またな」
二人共軽く手を振って、私達も振り返して……ブリジットとレベッカは連れ立ってロビーの方へ向かう。
二人が廊下の角を曲がるまで、私は手を振っていた。
曲がる時に気付いたのか、もう一度軽く手を振ってくれるのが見えた。
その姿も、廊下の角に消える。
「また……ね」
振っていた手から力が抜けて、そろそろと下ろす。
「まーすたー?」
「うわ」
リズが、うつむいた私と顔を合わせるように、真下から覗き込んできたのに驚いて、ちょっと顔をそらした。
「さ。荷物、部屋に持っていきますよ」
「……うん」
旅行の終わりに、宿から出ないのは珍しい。
私はトランクを持つと、リズと共に従業員エリアにある自室まで戻ってきた。
基本的な作りは似ているからホテルの一室のようでいて、日常を過ごしているので生活感もある。
火の入っていない暖炉前で、敷物の上に寝そべっていた留守番役の黒妖犬が、私が入ってきたのに合わせて、むくりと起き上がった。
とたとたと近付いてきて尻尾を振るので、トランクを置いて、頭に手を置いた。
ゆっくりとそうしていると、今さらながら旅行が終わったのだという実感が湧いてくる。
手から力が抜けて、するりとバーゲストの頭から手が離れた。
「夏休みも、終わりか……」
「まだ一日残ってるじゃないですか」
リズが慰めてくれる。
「うん……でも、楽しい旅行だったから」
「私も楽しかったですよ。姉様もレベッカも、もちろんサマルカンドとハーケンに、クラリオン達も元気にしてましたしね」
王都で出会ったクラリオン達……"蛇の舌"は、劇場の看板一座として立派になっていて、昔を知る身としてはしみじみと嬉しい。
時間が流れていく。
遠い昔の夏休みも、終わってしまえば実にあっけなく、振り返れば一瞬だったような気持ちと共に、消えてしまっていた。
始まる前も、初日も、あんなに楽しみで、ワクワクするのに。
終わってしまえば。
「マスター。お仕事は、明日からなんですよ」
「……? うん」
リズの言葉に、なんとなく頷く。
「つまり、今日一日はまだ、お休みなんですよ」
確かに夏休み最終日も、夏休みだ。
「……うん」
リズの言いたい事がよく分からないまま、やっぱりなんとなく頷いた。
励まそうとしてくれているらしいのは、分かる。
「察して……いえ」
リズが首を横に振った。
「気持ちを伝える努力を怠ってはいけませんね」
そして何故か、靴を脱いでベッドに上がる。
彼女は膝立ちになると、両手を広げて私を呼んだ。
「私は、マスターと夏休みの思い出をもう一つ作りたい気分です」
「私も同じ気分になった」
すり、と寄ってきたバーゲストの頭をガシガシと撫でると、いそいそとベッドに上がる。
そしてリズの腕の中に飛び込むように抱きついて、お互いの熱を交換するようにぎゅっと抱きしめて、そのまま動きを止めた。
寂しさが、愛しさに置き換わっていく。
じんわりと、お互いの体温が上がっていく。
心の内がゆっくりと満たされて、強張っていた身体が緩んでいくのが分かった。
ややあって腕をほどき、身体を離す。
「リズ。ありがと。おかげで元気――んっ!?」
リズも一度はほどいた腕を、今度は私の頭と背に回して、引き寄せて、噛み付くように唇を押しつけてきた。
食べられるかと思ったぐらい激しいキスを終えたリズが唇を離すと……くちづける前よりなお、飢えて見えた。
赤いマフラーがゆらゆらと、海中をたゆたうように揺れる。――攻撃態勢。
というか、いつのまにか"最適化"している。
金色の目に光はなく、しかしその目には強い意志が宿り……目が据わっている。
ぞくりとした。
「……リズ?」
触れれば弾けそうな彼女に、慎重に声をかけた。
「姉様も一緒でしたから、一週間以上……。私は我慢してるのに、マスターは普段通りキスとかしてきますし……」
ぽつぽつと呟くリズ。
がしりと、両手首が握り込まれ、捕まえられた。
またこの目のリズを見たいとは思ったけど。
「待って。あの、その。落ち着いて。ちょっと怖い」
「落ち着いてます」
目に光がないまま微笑むリズ。
確かに、精神調整魔法で、最適化されている。
望む条件を全て満たす、最短ルートを選んでいる。
……本人の思考回路の範囲で。
"最適化"とは決して、誰もが納得する最適解を、どこかから授けられる魔法ではない。
リズは、暗殺対象が護衛に囲まれているなら、大型のナイフで正面突破しようと考えるタイプだ。
「私とマスターは夫婦ですよね。二人きりですね。それ以上、説明要りますか」
「雑すぎる」
リズが顔を伏せた。
私を捕まえていた手が離される。
「……いや、でしたか」
か細い声。
「え?」
「ごめんなさい。私、調子に乗って……」
「嫌じゃない! 私の方が調子に乗ってばっかりだから!! ……ごめん、その、ちょっと驚いただけで……」
誤解の余地がないよう強く否定する。
手を伸ばすと、その手が取られて――視界がぐるんと回った。
何をされたか、昔は全く分からなかったが、今はかろうじて分かる。手を引かれて、押し倒された。
力の流れを掌握し、むしろ私の身体の反応さえ利用して、相手にみずから動くように仕向けているから、『何をされたか』分からないのだろう。
今でも、どうやったらそこまで出来るのかは、全く分からない。
「そう言ってくれて嬉しいです。もう、遠慮しなくていいですね」
目に光がないまま微笑むリズ。
好き。
……じゃなくて。
「え、演技?」
「いいえ? 本心ですとも」
リズは、掴んでいた手首を離すと、するりとなめらかな動きで、私の上に体重を掛けずに馬乗りになった。
つうっ……と、私の顎のラインを、指先で、触れるか触れないかぐらいの強さでなぞる。
ぶるるっ、と背筋に震えが走った。
「他になにか、言いたい事は?」
全く止まる気配がない。
……しかし、思わぬ勢いに怯えてしまったが、落ち着くと、特に止める理由もなかった。
「……リズ」
後で落ち着いた時、どういう反応を見せるかを考えると、もしかしたら止めた方が親切なのかもしれないとさえ思ったが、どっちかと言うとそんなリズも見たい。
一石二鳥とはこの事だ。
「……もう一度、キスしてくれる? さっきより、優しく」
リズが虚を突かれたのか、目を見開く。
灯りが反射して、目に少しだけ光が戻った。
また目が細められると、その光が消える。
彼女は口元を緩めて、とろけるような微笑みを浮かべた。
「……はい。喜んで」
かがみ込んで、お願い通り優しくキスしてくれる。
さっきは一方的に近かったけれど、今度は私からも応えた。
ゆらゆらと浮いていたマフラーが力をなくして、くたりと落ちる。
いつか、夏の思い出を振り返る時。
夏休みの最終日である今日の事を、寂しくならない形で思い出せる気がした。