王都の家のバスタイム
私とリズ、それにブリジットは、王都の家に帰ってきていた。
旅行から自宅に帰ると、ほっとする。
王都の家は、留守がちではあるが、自宅である事に変わりはない。
冬は王都の自宅。春と夏、それに短い秋は『予約が必要なリゾート地』で過ごしている。
その『リゾート地』は交通の手段さえ限られる秘境な上に、私は経営側とは言え、従業員だけど。
部屋もスイートルームとはかけ離れた、家族がいる従業員用の、ごく普通の二人部屋だ。
ただ、リズがいるだけで甘いので、実質的にスイートルームと言えなくもない。
王都の家は、お風呂をはじめ、馴染んできて気に入ったのもあり、次の契約更新時に買い取る方向で話を進めている。
寿命ベースで考えれば、そっちの方が得だろう。
私の寿命は、はっきりした事が分からないが。
昨日の午後に王都に着き、ブリジットにも泊まってもらった。
王都は、普段はリタルサイドにいるブリジットにとっても、旅行気分になれない場所だろうが、まだ夏季休暇は終わっていない。
七月も終わりに差し掛かったが、夏はまだまだ終わらないし、休暇の日程も残っている。
「ちょっと狭かったですね」
「ダブルベッドに三人だからね。シングルにしなくて良かった」
リズと私の会話に、ブリジットが首を傾げる。
「……シングルベッドにする可能性があったのか?」
「それなら、くっつかざるを得ないって思った事もあった」
「なんでそんな馬鹿な事を考えるのか、私には分かりませんよ」
はんっ、と鼻で笑うリズ。
罵倒のバリーションの豊かさに胸がときめくのもどうかと思うのだが、初めて会った頃のリズを思えば、表情の豊かさとは、すなわち仲の良さの証明でもある。
罵倒に関しては、果たして仲の良さのバロメーターに入れていいものか、入れたとしてプラスなのかという疑問もある。
「全くな。わざわざそんな理屈を付けなくても、どうせ毎日くっついて寝てるんだろうに」
見透かされている。
「い、いや。それはまあ……そうなんですけども」
リズがちょっとうろたえて、目をそらす。
――昔は、心細かった。
人肌のぬくもりが、その距離を許してくれる事実そのものが、私の心を温めてくれた。
リズはやりすぎたら、初めの頃はきっぱりと正論で断り、ある程度仲良くなってからは罵倒してはねのけてくれた。
それをいい事に、どこまで甘えていいのか分からないままに、とりあえず限界を探りつつ、私の思う限界か、限界を踏み越えたその先の向こう側まで、色々と。
私はむしろ、無理を言って罵倒される一連の流れを楽しんでいた――んだけど、意外と受け入れてくれるのが多かったのは、嬉しい誤算と言うやつだ。
それはまあ、私を利用する監視役としての立場もあったのだろうけど。
それだけだったら、私達は今こんな風になっていない。
ブリジットが続けた。
「風呂場もな……本当にバスタブのサイズ、あのホテルのと同じぐらいだったし」
リズがほんのりと頬を赤くする。
昨日もブリジットは一人で、私はリズと一緒に入浴した。
狭いから、くっつく必要がある。簡単な理屈だ。
「今日はどうする? ここはあえてブリジットと私というのはどうだろう。姉妹だから問題ないよね」
「えっ……はっ!? いや、それはおかしい」
「全くですね。あんな狭いお風呂で何をするつもりですか」
ブリジットが顔を赤くしつつ拒否し、リズも真面目な顔で頷く。
しかしブリジットは隣のリズを呆れた顔で見た。
「……なあリズ。それをお前が言うのか?」
「お風呂に入る以上の事をするつもりがあるように聞こえるよ?」
ちなみにホテルでも、昨夜も、リズと一緒に入ったが、お風呂に入る以上の事はしていない。
抱きしめて、身体を密着させて、ウーズが消えるギリギリまで、ゆっくりじんわりとあったまっただけだ。
心もぽかぽかとあったまる。
「……姉様。今日は二人で入りましょうか。姉妹だから問題ありませんよね」
「え、私は? いっそ三人で」
「そんなスペースがあるはずないでしょう。常識で物を考えて喋って下さい」
リズの言う事はもっともだが、それゆえに私は反論した。
「そんな、常識で物を考えて喋るなんてしたら、出来ない事が多すぎるでしょ?」
「……自覚はあるんだな」
「タチ悪いやつですよね……」
二人が顔を見合わせて、呆れ顔で苦笑する。
リズがブリジットに言った。
「姉様が、昔、まだ小さい私をお風呂に入れてくれた事ありましたよね」
「覚えてるのか。まだ三歳ぐらいだったのに」
「ええ。さすがにその頃の記憶はおぼろげで、断片的ですけどね」
そうか。
今の私の記憶は、子供の頃の思い出に近いんだ。
自分が友達や家族に、どんな風に呼ばれていたか。友達を、家族を、どんな風に呼んでいたか。
色んな事を忘れて、私達は大人になっていく。
幸せだった事だけは覚えているのに。
全部覚えていても――どうしようもないけれど。
全部、全部、過ぎた事だ。
「じゃあ……久しぶりに二人で入ろうか」
「ええ」
ブリジットがリズの髪を軽く撫でると、リズはくすぐったそうに笑った。
「で、私は?」
「バーゲストと一緒に入ったらどうですか?」
すり、とバーゲストが頭から全身をこすりつけるようにして寄ってきてくれる。
多分、群れの長への慰め。
……でも、もう決まったみたいなので口は挟まないけども。
この二人だと、多分私とリズのようにはいかないと思う。
案の定、その夜二人でお風呂に入ったリズとブリジットは、顔を赤くして早々に出てきた。
元々、密着しないと入れない、ほぼ一人用のバスタブだ。
あえて聞かないが、まず間違いなく、身体の一部が当たったのだろう。
もちろん、それぐらいは想定していたろうが、『どこ』が当たるかまでは、想定していなかったと見える。
私とブリジットは同じぐらいの身長だが、私の方がフラットだ。
「じゃあ、私も入ってくるね。――おいで」
声をかけた途端に、寄ってきて軽く尻尾を振るバーゲスト。
お風呂場で様子を見ると、いつもは『お湯を入れ直す』が、今日は二人がすぐに出てきたので、そのまま入れそうだった。
ウーズ風呂は、老廃物を食べて貰うのが必要なので、カラスの行水では綺麗になったか分からないけど。
まあそれを言い出すと、そもそも毎日の入浴が必要か怪しい。
――特に不死生物である私は。
それと、黒妖犬も。
けれど入浴は、私の趣味の一つだ。
誰かと入るのも好きだが、一人きりもいいもの。
いや、一人と一匹……か、それとも。
……百匹?
群れの長なのに、自分が今どれぐらいの規模の群れを率いているのかよく分からない。
戦後は、特に増やそうとはしていないのだが、"第三軍"の魔獣師団にいる個体や、今もリタル温泉にて可愛がられているだろう留守番に、魔力が供給され、今も少しずつ増え、あるいは強くなり、群れの力は増強されている。
……私の魔力の源泉は、この子達の取り分なのではと思う。
心の内に、汲めども尽きぬ井戸があるような気がする。
あるいは、底のない黒くてどろりとした沼が広がっているような。
多分、私とこの子達は――『わたしたち』は、似た者同士なのだろう。
何をしても埋まらない穴が、心に空いている気がした。
果てのない空腹感を抱えて、それでも生きてきた。
昔の私は、多分もっと多くの物で満たされていたのだろう。
名前に立場。家族も、友達もいた。
それら全てが、私を人間にしてくれていた。
私のそれは、全部剥ぎ取られた。
私は、"病毒の王"の仮面をかぶって、毒沼に浸したようなローブをまとうしかなかった。
空っぽでいたくないなら。
私は、城壁の上にいた。
あの冷たくて、寒くて……『人間』と『燃料』の間に一本の線が引かれた、私にとってのはじまり。
灰色のローブと、白くて粗末なボロ着が、その境界線だった。
灰色のローブを着た魔法使い達は人間で、白いボロ着を着せられた私達は、積まれた薪の山か、あるいは火を灯されるのを待つ油だった。
胸の前のボタンを外し、腰の紐をほどいて緩めて、ワンピースを脱ぐ。
手の中にあるワンピースを、じっと見た。
エリシャさんの作ってくれた、旅行のための……私が"第六軍"の軍団長を辞してもなお、普段着として着ている深緑のローブとは違う服。
リタル温泉の営業中は、基本的にリズと同じデザインのメイド服を着ている。
"病毒の王"の名前も、衣装も、私にとって大事な物だ。
でも……私は、それ以外も手に入れたのだ。
見つめていたワンピースを軽く畳んで脱衣籠に入れ、下着も脱いで、別の脱衣籠に入れる。
そして湯船に張られたウーズに指先を軽く浸して温度を確かめると、身体を滑り込ませた。
肩の力を抜く前に、手を広げて呼んだ。
「おいで」
きちりと座って待っていたバーゲストが浴槽の縁を軽やかに跳び越えて、湯船に飛び込んだ。
がしりと受け止めるが、勢いに、跳ね散ったウーズがちょっと壁まで飛んだ。
壁についた黄緑色のウーズが、うぞうぞとうごめき……動きを止める。
原始的な生物ゆえに『強い』が、あそこまで細かくされていては、統合されるまでは動けなくなる。
バーゲストがウーズでぬめって滑りながらも、丁度いい位置を探し、やがて私にのしかかるような形で落ち着いた。
私は背に手を回して抱きしめる。
まだウーズに浸かっていない首元のふわふわな毛に、頬を寄せた。
「っ……はー……」
息を吐いて、肩の力を抜いた。
力が抜けると、自然に目が閉じられる。
緩んだ身体に、温もりが染み渡っていく。
心にも。
ウーズを手のひらにすくって、軽くバーゲストにかける。
私は、この世界で沢山の大切な物を手に入れた。
この黒犬さん達との絆も、その一つだ。
……後、ちょっとマニアックなバスタイムとか。