波打ち際の両手の花
私は、二人を控えめに海へと誘った。
以前リズにはあんまり海が好きじゃない、と断られた。
さらに、サマルカンドには護衛があるから、アイティースは心を開いてくれなくて……と、三者三様の対応で断られたので、誘い方に腰が引けている。
その時は一緒に入ってくれたのは、黒妖犬だけだった。
飛びつかれてぐしょ濡れになったが、今なら自前で"乾燥"魔法も使えるし、受け止められる自信もある。
二人は、予想よりもあっさりと頷いてくれた。
「いいですよ、夏ですし」
「ああ、旅行だしな」
夏万歳。
旅行万歳。
心の中で選挙カー的な物が走り回り、上に乗った人が「勝訴」の文字が書かれた紙を広げ、歓声を浴びているイメージが浮かぶ。
何か色々混ざっているような気がするが、気にしない方向で。
砂浜に私とリズの荷物を置き、靴と靴下を脱いで一緒に置いた。
ワンピースの端を軽くまとめて縛ると、そっと透けた足の先を、海に入れた。
ひんやりとした海水の冷たさに、すぐに慣れて、馴染む。
寄せては返す波が私の足下の砂をうごめかせて、何か大きな物の上に立っているのだという感覚が、胸の内に湧き起こった。
前を見れば、果てしない水平線に、入道雲。
見上げれば、目に染みるような青空。
振り向くと、輝くように愛らしいダークエルフさん達。
ちなみに、物理的に銀髪が太陽を反射するので、夏場は当社比三割増しで輝いて見える。
「なんですか?」
リズが首を傾げると、その動きで髪が揺れて、一層輝きが増して見えた。
目を細める。
「……生きてて良かったな、って」
辛い事は、多かった。
死んでいた方が良かったのかと思う事さえ、あった。
自分で選んだ道だ。
死ねばそれで終わりと言うが、そちらの方が救いがあったかもしれない。
最初は生きたいというよりも、復讐したい気持ちの方が強かった。
復讐とさえ言えないかもしれない。そんな高尚な物ではなく、ただ怒りに任せてやられた事をやり返したかった。
次に、守りたくなって。
その次に、死にたくなくなって……。
最後に、生きたくなった。
この身体は、生まれ持ったものとは違う、かりそめの物だ。
それでも、不死生物になっても、どんな形でも、そばにいたい人が出来た。
「それは、何よりです」
リズが笑ってくれる。
そして、ぱしゃぱしゃと素足で海の中を歩いてきて、私に追いつく。
私の手を取って、指を絡めて繋ぐと、肩を寄せた。
そして、呟くように言う。
「……私、海に入るの初めてなんですよ」
「え、そうなの?」
何か、嫌な思い出があるのかと思っていた。
思い出自体が、なかったとは。
「なんだか、怖くて。このあたりの海が、底が見えるぐらい浅いのは分かってるんですけど……」
ブリジットも海に入り、歩いて近付いてきてくれる。
「私も初めてだ。……大海蛇の話は子供の頃聞かされたからな」
「……私に読み聞かせしてくれたの、休暇で帰ってきた姉様ですよ。淡々とした語り口で語るものだから、むしろ怖くて」
どこの世界も、似たようなものかもしれない。
私も歳の離れた妹に、絵本を読み聞かせしたものだ。
「……それは悪かった」
ブリジットが、口元を押さえて、バツが悪そうに目をそらした。
「いえ、いいんですけどね。海に行く事はないと思ってましたし」
リストレアにとって海は、それこそ沿岸部の住人以外には馴染みがない。
沿岸部にしても北部は冬季には海も凍るし、東部は荒れがちで"第四軍"の管轄。こんなに穏やかな海があるのは、南部のこのあたりぐらいだろう。
「……カニを食べたのも、初めてですし。メープルシロップをホットケーキにかけたのも、メイド服を着たのも……全部初めてです」
シノさんのように、陛下付きの護衛として溶け込むための隠れ蓑として、メイドの立場が使われる事はあるが、あれは特殊な例だ。
魔王軍におけるメイドさんは、一応軍籍はあるが、前線に立つ事はない。
軍隊とは、全員が剣を取って戦う組織ではない。ある程度身の回りの事は自分で出来るようになる事を求められるが、全てを個人に任せるのは非効率的だ。
メイドさんに、輸送や倉庫管理、それら全てを統括する事務方も、軍隊を一組織として機能させるために必須だ。
「……私は、自分がアサシンだった事を、誇りに思っています。殺した人数を誇る事はありませんが……果たした役割には、価値があったと思っています」
敵地への潜入と偵察による情報収集に、要人の暗殺。前線においては、敵指揮官の刈り取り。
彼女達暗殺者は、薄暗がりからこの国を支え続けた。
「私は……人の殺し方しか、知らなかった」
ぎゅっと、繋いだ手が握り込まれた。
リズを見ると、彼女は笑っていた。
「……でも、マスターが、私をこんな風にしてくれました」
「……どんな、風?」
リズが、深い金色をした目を細めた。
「腑抜けましたね」
「え。ふぬけ?」
予想外の言葉だった。
「危機感ないし、軍人失格です。シノ先輩は、会う度にさりげなく再就職を話題に混ぜてくるんですけど、多分、復帰は無理だと思うんですよね」
それはどうだろう。
私はこれでも上位死霊だ。
身体能力の基本は人間に合わせているとはいえ、そのスペックを引き出せるようになってもいる。
『人間並』の状態でさえ、以前の私とは比べ物にならない。
特に気配を読んだり消したりは、リズと、シノさん達によって鍛えられているのでそれなりの水準に達している。
その私は、リズには抱きつこうとしてよけられたり、逆に背後から抱きつかれたり、反応出来ない動きでキスされたりする。
「でも、それでいいんですよね」
「うん」
――私はもう、彼女に人を殺させるつもりはない。
それはまあ、正当防衛やらはあるかもしれないが。
彼女の力が必要ないように、したつもりだ。
いざとなれば私も戦えるし、黒妖犬も戦ってくれる。
リズは私を一人で戦わせる事は、しないだろうけど。
私は彼女にずっと守られてきた。
そしてもう、守られるだけではない。
「それでいいんだよ。リズは、アサシンスキル抜いても優秀な副官さんだったし、副官スキル抜いても立派なメイドさんだったし、メイドスキル抜いても……大好きだよ」
私が彼女と過ごした屋敷での日常は、どんな歴史書にも記されないだろう。
それでも、あの日常こそが私を支えてくれた。
「……私も、ですよ。"病毒の王"様?」
久しぶりの、役職呼び。
「魔王軍最高幹部でなくなっても、非道でなくても……あなたの事が大好きですよ、マスター」
見つめ合って、どちらからともなく、唇を重ねた。
抱きしめながら目を閉じると、夏の日差しが網膜に焼き付いた明るい闇の中で、リズの感触が心に焼き付いていく。
私のこの世界に来る前の記憶は、そのほとんどが壊れて、断片になって、意味をなくしてしまった。
もう、元のようには戻らない。
それでも、私は忘れない。
かつての私を作った、思い出の断片を。
残骸となり果ててなお、大切な記憶を。
その上に積み上げられた、この世界で手に入れた、全てを。
しばらくして、唇の結びつきを解いて、目を開けた。
身体を少し離す。
じんわりと闇の余韻が薄れていき、私の目に、はにかんだリズの顔が映る。
思わずもう一度軽くキスをした。
「……私がいるの、忘れてないか?」
空気を読んで離れていたらしい黒妖犬の首筋を撫でているブリジットに向き直り、笑いかけた。
「忘れてないよ、ブリジット。朝に許可を貰ったから」
今は、他に人のいない海辺で、私達だけ。
ちゃんとブリジットの言いつけを守っている。
「…………忘れてませんよ、ええ」
間。
リズはちょっと忘れてた、に一票。
実の姉妹だし、お互いの存在が自然なのだろうとは思うけど。
私は、ここで余計な事を言わないあたり成長した。
たまに怒られたいので、わざと言う事はあるけど。
あまり成長していない。
「……やっぱり、ちょっと自重してもらうべきか?」
「それはちょっと難しい」
「でしょうね」
リズがため息をつく。
そして私は、水飛沫を上げながら、飛びつくようにブリジットに抱きついた。
「うわっ」
声を上げながらも、危なげなく私を受け止めて見せるブリジット。
甲冑も、剣もなくとも、彼女は魔王軍最高幹部だ。
かつて、死んだと思った彼女が生きていた時にも、こんな風に飛びついて抱きしめた。
あの時は彼女は鎧を着ていて、私は深緑のローブを着て護符を下げていたから、痛かった。
今は、痛くない。
その代わりに今は、彼女の豊かな胸が潰れる柔らかな感触が。
リズで慣れてもいるし、ブリジット本人にも慣れているし、なんなら妹でも慣れている。
でも、ちょっとドキドキする。
「まったくもう……。誤魔化されないからな」
ブリジットがぼやくが、そう言いつつ抱きしめ返してくれた。
リズも寄ってきた。
「誤魔化されて下さい」
そして私と一緒にブリジットを抱きしめて挟む。
「……仕方ないな」
苦笑したブリジットが私達の両腰を抱き、珍しく自分から頬を寄せて、軽くほおずりしてくれる。
少し汗ばんだ肌が張り付く感触が、かえって心地良い。
彼女が、楽しそうに笑う。
「――誤魔化されてやるよ」
今日は私達が、彼女の両手の花だった。




