海のいきもの観察日記
店員さんの赤面しながらの謝罪を笑顔で流してお会計を済ませ、網焼き酒場を後にした。
午前中は市内の市場が中心だったので、午後は海まで足を伸ばす。
海に近付くにつれて潮騒の音が大きくなり、潮風が強くなってきた。
もっと近付いていくと、特にはっきりとした区切りもなく、段々と足下が砂地になる。
さらさらの砂浜に、私達三人の足跡と、バーゲスト一匹分の肉球足跡を、点々とつけていく。
広い砂浜は、海藻や貝殻、時折魚の死体に、生死不明のくらげまで打ち上げられているが、人工物らしいものは見つからない。
この海に入っている人の手は、ほんの少し。
私の世界とは比べ物にならないほど漁業関連の技術が貧弱で、漁場も、一定以上深いと『漁』ではなく『緩やかな自殺』になるような世界にも関わらず、海沿いの町は、動物性たんぱく質をそれなりに海産物に頼っている。
それにしても、生態系の輪を乱すほどではない。
一つの種が滅びた影響が、すぐに出る事は少ない。
狼のいない国になった私の故郷も、鹿が増えて問題になったのは、だいぶ経ってからだ。
あの戦争にどんな意味があったのかは、後の歴史が決める事だ。
今を生きる身としては、せめて今よりも良くなるようにと戦っただけの事。
そして、当時の『今』より、現在の『今』の方が何倍もいい。
この国は、違う種族同士が手を取り合うために建国された。
それは、他種族を認めない人間という種族と戦う事と、同義だった。
人間はもういない。私達が滅ぼした。
その事に痛みを覚えないと言えば、嘘になる。
世界は違えど一応は同じ種族で、今も透けているとは言え、私の外見は人間だ。
軽い幻影魔法と認識阻害で、元から私を知っていなければ、外見は気にならなくなるか、ダークエルフに見えている事だろう。
海から強い風が吹いて、髪がぶわっと乱れた。
耳のあたりの髪を指でまとめて流し、ぐしゃっとなった髪を整える。
ポニーテールにまとめているブリジットと、ショートカットのリズは、私よりも早く自分の髪を整え終わり、左右と後ろから、軽く私の髪を整えてくれる。
私はあたりを見回して、人の気配がない事を確認した。
漁は午前中だし、砂浜に上げられている船そのものも遠い。
「髪、ありがとね」
人がいない事に安心して、髪を整えてくれたお礼の気持ちをたっぷりと込めて、リズを抱きしめた。
すりすりと頬に頬を寄せる。
リズが、私の背に腕を回しつつ、呆れ声で呟いた。
「……マスターのスキンシップ、過剰だと思うんですよね」
「足りないぐらいだけど? 特にお仕事中にメイドさんに癒やして貰えないとか、一体どういう事か分からない」
「いや、そんなに仕事中にスキンシップしてませんでしたよ。休憩時間だけです。記憶を改竄しないでくれませんか」
そう言えばそうだったような気もする。
でも、細かい休憩の合間にリズは結構私を構ってくれていたような気も。
私には学習能力があるので、その記憶は大切にしまっておく事にした。
お互いに身体を離すと、バーゲストが頭を下げ、鼻を寄せて何かを見ているのに気が付いた。
鼻と視線の先を見る。
「ヤドカリ……」
リアルで見た事は、あっただろうか。
絵本や……教科書の題材になっていたような気もする。
「それがヤドカリですか?」
「うん」
しゃがむと、手を伸ばしてつまみ上げた。
見えていたハサミ部分が、巻貝部分に引っ込む。
「……貝ですよね?」
「……貝だよな?」
リズとブリジットが、『中身』が引っ込んだ後の貝殻を見て首を傾げた。
「いや、これはね……見た方が早いかな」
砂浜にそっと戻して、じっと見守る。
二人と一緒にしゃがんで観察していると、ふと子供の頃の夏休みを思い出した。
私に『夏季休暇』ではなく『なつやすみ』があった頃には、想像もしていなかった未来が、私を待っていた。
もし想像していたら……想像力のたくましい子供だ。
これでもう、結構いい歳なのだが、皆は変わらないので、私も『年相応』の振る舞いは諦めた。
自他共に、年齢をあまり気にしないという長命種の気持ちが、分かるようになってきている。
私にはもう、寿命らしい寿命はない。
この身体の時間は、いつ終わるともしれないから。
生きた年齢ではなく、覚えている思い出で時間を計るようになった。
昔から知っていたような気もするけれど、忘れがちだった数え方だ。
きっといつか、今日という日を懐かしく思い出すような、そんな気がした。
私はリズや皆と過ごした時間を全部覚えていたいけれど――この身体でも、全て覚えているという訳にはいかない。
それでも印象的な記憶は残っているし、楽しかったという思い出がある。
今日も、そんな思い出になる気がした。
いい歳をした女三人で、真剣にヤドカリを見つめる機会は、中々あるものではないし。
見ていると、にょっ、と巻貝からヤドカリがハサミと脚を出して、精一杯急いで逃げていく。
「え、動きましたよ?」
「貝だったよな?」
「貝の中に、今日食べたカニの小さいのみたいなのが入ってるんだよ。成長に合わせて、貝殻をとりかえていくの」
もう少し大きかったら、食用に狙われていた事だろう。
「そんな生き物がいるんですね……」
「サバイバル教練では教わらなかったな……」
私は履修していないが、リストレアでは、海辺のサバイバルが基本的に想定されていないはずだ。
ヤドカリは食べられると思うが、貝殻から出したりの手間を考えると、効率が悪そう。
不死生物なら魔力だけでも足しになるかも知れないが、やはり含有量が絶対的に少ない。
「あ、これが本当のカニ」
ヤドカリの進路に通りがかったカニを指差した。
小ガニだが、ちゃんと脚が八本ある。
「小さいのもいるんですね」
「小さいと割と可愛――」
ぱくり。
実は私は、ヤドカリの貝殻って本当に役に立っているのだろうかと思っていた。
けれど、実はあんなちっぽけなものでも、守ってくれていたのだと気付く。
ごめんヤドカリさん。
貝殻には意味があったんだね。きっとこう、サイズの割に食べにくいとか。
そしてごめんカニさん。
バーゲストにカニの味を覚えさせたのは私です。群れの長として謝罪します。
小ガニは、興味深げに鼻先を近付けたバーゲストによって、そのまま食べられていた。
まさしく一口おやつサイズ。
基本的に『拾い食い』はしないように言ってあるが、さすがにここまで小さい相手は想定していない。
エルフはいても妖精のいないこの世界の事。小型で希少で、バーゲストがぱくりとして問題になるような知的種族は確認されていないのだ。
「……割と可愛かったですね、姉様」
「ああ……割と可愛かったな」
過去形。
さっきはカニに対して、あれほど異界の異形種を見るような目を注いでいたのに、今では可愛いと言ってくれるまでになったのは、さっきの事が良い体験だったからだ――と思う。
良かったのは味のような気もするが。
バーゲストを見ると、私を見上げて、くり、と首を傾げて見せる。
なでり。
私の海の生物観察は終わった。
ヤドカリやカニは可愛いが、所詮はこの子達のようにもふもふな毛も、頬を寄せて抱きしめているだけで、心まで温まるようなぬくもりも持たぬ生き物だ。
黒妖犬は、地球の生物学者が研究しようとしたら泣くと思うのだが、そこらのグレーゾーンは、今ここにあるもふもふの前に都合良く気にしない事にする。
しばらくお互いに触れあいを堪能した後、二人の方に向き直り、海を指差した。
「……ちょっと入ったりして、遊ばない?」