差し出された手
「……カニを焼こうか」
気を取り直して、お皿から、脚を外され、切れ目を入れられたカニを焼き網にのっけていく。
丁寧に下処理されている。
「貝、もういいよ」
「はい。"炎耐性付与"」
「"炎耐性付与"」
リズとブリジットの手が、淡く赤く輝き、その光が馴染んで消えた。
二人共あまり派手な魔法は使わないが、火傷しない程度の耐性付与はたしなみ。
それぞれ自分の取り皿に貝を取る。
私もひとまずカニを並べ終わり、口の開いた二枚貝を、汁がこぼれないように気を付けて皿にのせた。
陶器の壷から塩をさらさらとふりかけ、スプーンで貝柱を切って身を外すと、口に運んだ。
火傷しそうな熱さを感じながら肉厚の身を噛み締めると、口の中いっぱいに旨みが広がる。
さらに貝殻に残った汁を静かにすすると、塩気のある貝汁がじんわりと沁みて、ほう、と息をついた。
「あー、なんだか懐かしい味だねえ」
「そうですね」
十年ぶり、ぐらいだろうか。
以前この町に来たのは、黒妖犬の群れを増強するための旅の途中。
ずっと旅をしていたような、そんな気がする。
こっちの世界に来てから……ずっと。
それでも、私には帰る家が出来て、一緒にいてくれる人が出来た。
贅沢者だ。
手を伸ばして、足下のバーゲストの頭を撫でる。
頭を、自分から手のひらに押しつけるようにして撫でられながら、尻尾をぱたぱたとゆるく振っているこの姿を見て、魔獣だと思う人はいないだろう。
「カニも焼けたかな?」
焼き具合を見ていたカニは、見た目は水分が飛んだ程度であまり変わらないが、いい匂いがしてきた。
焼きガニの経験がないが、勘では食べ頃。
「……どうやって食べるんですか?」
「まあ、普通に。そうだね……。上品という言葉は、ちょっと忘れた方がいい」
言葉通り、身体が透けている上に炎耐性が付与されているのをいい事に、赤く灼けた鉄網の上から脚を一本取った。
「カニスプーンとかあったら、また違ったかもしれないけど」
「……かに……すぷーん」
リズが、何を言っているか分からないというぼんやりした顔になった。
昔は、今よりもよく見ていた表情だ。
「私の故郷では、カニを食べるためだけの専用器具が考案されて、販売されてるんだよ」
「……聞けば聞くほど、マスターの故郷の事が分からなくなりますね……」
私も、リズが聞いている範囲だけを聞いたなら、地球、そして日本の事が分からないと思う。
「まあ、今はないから、ここは手で」
それはまあ、上品にしずしずと食べようと思えば食べられるだろうが、そういうのは肩が凝る。
言葉通り、手でカニの身を殻から外し、はむっとかぶりついた。
そのまま無言で食べ進める。
「……どうだ?」
じっと見ていたブリジットが聞くと、私は静かに頷いた。
「カニの味がする……」
「……具体的な味が、一つも伝わってこない感想なんですけど?」
リズが呆れ顔になった。
「ごめんね。でも、そうとしか言えなくて。これと似た品種を食べた事があったのかさえ、もう覚えてないけど。これは私の思うカニの味で、故郷の思い出が呼び起こされて――なんというか美味」
神妙な顔で聞いていたリズが、最後まで聞いてジト目になった。
「ちょっとしんみりしたの返してくれます?」
「口うつしなら」
「意味が分からないので、つつしんで遠慮します」
「今、口うつしって言った?」
「言ってませんよ。口をつつしんでくれますか?」
私は微笑んで、一本目の殻を、貝殻が入っているバケツに放り込んだ。
そして二本目にかぶりついて、柔らかくほぐれる甘い身を噛み締める。
振られた塩のしょっぱさが、甘みをよく引き立てていた。
リズとブリジットが顔を合わせて、同時にカニに手を伸ばす。
二人共、一瞬のためらいが見られたが、殻から身を浮かせると、同時にかぶりついた。
ちょっと目を見開き、そのまま食べ進める。
口の中に物が入っているから、リアクションこそそれだけだったが、その表情は間違いなく満足してくれたようだ。
カニと合わせるために残しておいた、勝利の美酒とでも言うべきビールをごきゅりと飲む。
カニ脚を一本ずつ食べ終えた二人も、揃ってくいっとジョッキをあおった。
「あの見た目をした生き物とは思えないぐらい美味しいです」
「あの見た目からは想像も出来ない味だな。あ、美味しいぞ」
お肉にしてしまえば分からない事だが、凶暴でいかつい見た目の魔獣が、日常的に食卓に上る国で一体何を、という気もした。
でも美味しかったなら、何よりだ。
しばらく三人揃って、殻から身を外して食べる作業に没頭する。
日本では古来より、人は蟹を前にすれば無心になると伝えられている。
それは、異世界においても変わらない真理のようだった。
ある程度食べた所で、むしった身を一本分手のひらにのせて、足下のバーゲストに差し出した。
「お前達もね」
普通の犬とは違うのは分かっているが、食べていいものとダメなものがよく分かっていないので、貝ではなくカニにしておいた。
……魔力があるなら不死生物さえ『食べられる』この子達が、身体を壊すような食べ物があるとも思えないが、一応。
べろん、と手を舐めるように口に収めたと思った瞬間、ごくりと呑んだ。
そして私を見上げる。
早食い。
気に入ったのか、ぺろぺろと手のひらが舐められ、くすぐったい。
「よし、もう一本あげよう」
するり、と脚一本分の身を殻から外し、今度は少し高い位置にぶら下げるようにして差し出した。
首を伸ばして、ぱく、と噛み付いたのを確認して手を離すと、大きく口を開け、やはり一口で呑み込んだ。
犬は鳥から進化した生き物なんじゃないだろうかと思うぐらい、食べ物を大胆に喉奥に送り込む。いっそ気持ちいい消えっぷり。
それはまあ、カニは噛まなくてもいける柔らかさだけど。
黒妖犬の牙の持つ破壊力が、全く生かされない食材だ。
何度となく、この子達が牙を使うのを見た。――私が命じた。
もう、バーゲストがその牙を人に対して使うのを見たくはないものだ。
「んっ……」
今度はつまんでいた指に舌を絡められ、ぴちゃぴちゃと音がする。
カニエキスをしゃぶりつくす気だ。
その頭に手をのせて、ゆっくりと優しく、耳を折り込むように撫でる。
かつて、私とこの子達は、空腹感を共有した。
だから……今、満たされているのが分かる。
でも、私だってもう少しカニを食べたい。
「リズ。こう、カニの身をむしって私の口に入れて欲しい」
「……バーゲストを離せばいいのでは?」
「それはちょっと難しい」
この子達はいつでも甘えて……甘えさせてくれるだろうが、この瞬間はいつだってかけがえのないものだ。
「まったく、仕方ないひとですね……」
そう言いながらも、脚と胴と鋏と、一通り身をむしってくれるリズ。
皿を持って立ち上がり、私の隣にやってきて腰掛けると、微笑んで、手のひらを上にして私に差し出した。
しかしその手には何もなく、私が彼女の意図を読み取れずにいると――
「お手」
「……わん」
あまりに予想外の言葉に戸惑いを隠せないながらも、私は自然と、バーゲストに舐められていない方の手をリズの手にのせていた。
「よしよし。良く出来ました」
優しい声で褒められて、頭と、次いで顎を撫でられる。
私に尻尾があったら振ってそう。
ブリジットが、カニを食べる手を止めて言う。
「……なあ、リズ? 外でそのプレイはどうかと」
「いや、ただの冗談ですよ。まさかやるとは思いませんでしたけど」
そしてリズは、カニの身をつまむと軽く振った。
丁度、私がさっきバーゲストにあげた時のように。
どうしたものか一瞬迷って、でも、今さらリズに対して取り繕う外面などない事に気が付いた後は、欲望に忠実に、ぶらさげられたカニにぱくりと食い付いた。
気分はバーゲスト――とも少し違って、アシカショーだかイルカショーだか。
もちろん、プールの中で芸をする方。
カニの身の美味しさと相まって、飼育員のお姉さんへの好感度が、瞬間的に振り切れる。
多分刷り込みの一種。
そのままリズの差し出すカニを食べると、お腹だけではなく心までも満たされるようだった。
好物のランキングにおいて、今この瞬間にも、『リズが食べさせてくれるカニ』が上位を更新しようとしているが、特殊なシチュエーションであるこれを『好物』に含んでよいのか、という疑問が拭えない。
それを認めた場合、『リズが初めて作ってくれたシチュー』『リズが焼いてくれたホットケーキ』『リズのお茶うけクッキー』なども黙ってはいないだろう。
最後の一切れは手で受け取り、バーゲストの口元に運んだ。
やっぱり一瞬で消えるカニ。
「ありがとね、リズ」
「どういたしまして、マスター」
リズに頭を一撫でされて、思わず目を細める。
ブリジットがカニをむしりながら呟いた。
「……お前達が、普段どんな夫婦生活を送ってるのか不安になってきたよ……」
何を今さら。
でも、彼女に心配されるような事はない。
……多分。