今まで出会った全てに
貝が焼けるのと、カニが来るのを待つ間に昼酒と洒落込む事にする。
ビールジョッキを差し出して、焼き網の上で軽く打ち合わせた。
ガラスとガラスがぶつかって、チーン、と澄んだ音を立てる。
「かんぱーい」
「……何に乾杯したんだ?」
「その場のノリでしょうね」
ブリジットが軽く首を傾げ、リズが応える。
私も首を傾げた。
「今まで出会った全てに感謝して乾杯……する?」
「重いです」
リズが苦笑した。
ブリジットと一緒に、私もくすくすと笑う。
揃って黄金色の液体を喉に流し込むと、全員、はーっと息をついた。
意外と暑くて、汗を掻いていたらしい。失われていた水分が身体に染み渡るような感覚。
そんな感覚が、この身にはある。
死霊として、身体能力と共に各種耐性を引き上げれば失われるような、無駄とさえ断じる人もいるだろう機能が。
かりそめであろうとも、それは私が人間として生きた証だ。
人間はやめてしまったし、リストレアの不死生物として生きる覚悟もしている。
それでも私が、地球産の人間だったという事実は変わらない。
いっそ全ての記憶が失われて、壊れていればと思った事さえある。
自分で決めた事だけど――いや、だからこそ、辛い時もあった。
私は誰にも、非道を強いられなかった。
自分の心に言い訳さえ出来ずに、私は命令を下し続けて、私の命令は人を殺し続けた。
それでも私は、私と、私と一緒にこの世界に召喚されて、魔力袋としてその人生を終えた、顔も覚えていない人達に対する仕打ちを、許せなかった。
何より私は、自分を助けてくれた人達の事を、好きになりすぎた。
だから、ただ自分の立場と、出自と、目標を、刻み込むように繰り返し唱えて、病と毒の王として振る舞い続けた。
「一杯しかないから、大切に飲まないとね」
――それはもう、遠い日の事。
夏の日差しを透かして、ビールジョッキの中身が黄金のようにきらきらと輝く。
簡素な屋根で強い日差しが遮られて生まれる濃い影との対比が、その輝きを何倍も美しく見せていた。
こんな日は、今まで出会った全てに感謝したい気分になる。
……私を、この世界に喚び込んだ、憎むべき人達にさえ。
私がいなければ、多分『こう』はなっていなかった。
歴史の分岐点があるなら、私が初めてこの手で人を殺した瞬間が、その一つだ。
私は、城壁の上にいた。
目の前の防御魔法使い達を突き飛ばして、突き落として――そうやって張り巡らされた魔法障壁に空いた、小さな穴。
ブリジットの命令で叩き込まれた攻撃魔法。
持ち物も、記憶も――本当に全てを奪われて、一人になった私に与えられた一枚の毛布が、私に覚悟を決めさせた。
……向こうの世界で、誰も殺さずに、手も心も汚さずに、まっとうに生きたかった気持ちが、ないと言えば嘘になる。
名前も覚えていない妹の事も、私は大好きだった。
家族がいた。友達だっていた。
私を形作っていた大切な全てから、引き剥がされた。
それでも、私はリストレアに来た事そのものには、感謝している。
忘れてしまった家の名前がある。
でも、その代わりに、『フィニス』という名字を貰った。
忘れてしまった私の名前がある。
それでも、かつてたわむれに名乗った偽名『デイジー』が、とりあえず名乗るのに不便はない程度に馴染んできた。
目の前のダークエルフさん達は、それぞれ縮めた名で呼ぶ事を許してくれた。
私にはもったいないほどのお嫁さんとお義姉ちゃんだ。
「……二人共」
「なんですか?」
「なんだ?」
「だーいすきだよ?」
二人が、目を見開く。
そして目を細めて、はにかんだ。
「私もですよ」
「私もだ」
「おねーさんの言葉は、いちいち心臓に悪いです!」
そこに、思いも寄らぬ方向から声がした。
そちらを向くと、ぐい、と鼻先に解体されてお皿にこんもりと盛られた、カニが差し出される。
「はい、カニの下ごしらえ出来ましたよ! お塩してありますから、そのまま焼いてどうぞ!」
「あ、ありがとう」
勢いに気圧される。
ピンと立った猫耳に、やはりピンと立った尻尾。攻撃姿勢だ。
「うちは普通の網焼き酒場なんですからね! 口説き文句がいちいち似つかわしくなく甘いです!!」
「いや、これはむしろ日常の風景って言うか」
「そんな日常がありますか!」
そんな事言われても。
「……いや、おねーさんならありそうですけども」
謎の信頼。
前回、何かしただろうか。
全力で叫んだせいで、はあはあと肩で息をする店員さん。
「……失礼しました」
そして、ぺこりと頭を下げる。
耳も伏せられ、尻尾もぺたっと垂れた。
「いや、こっちこそなんかごめんね」
私が謝ると、二人が続けた。
「ええ、うちのひとがすみません」
「ああ、うちのいもうとが失礼をした」
「……え、姉妹なんですか?」
「私は夫婦ですけど」
「うん。義理だけど姉妹だ」
二人の言葉を受けて、ふるふると頭を振る店員さん。
「……おねーさんなら仕方ないですね」
何故か納得された。
彼女は、ただの店員さんで、私の正体を知らないはずなのだけど。
「えっと……ごゆっくりどうぞ」
すすすーっ、と店内へ消えて行く店員さん。
店の奥から、何やらもだえている気配がしたが、若いから色々あるのだろうと、気にしない事にした。