満たされた飢え
「なんだ? 今日は随分と甘えたさんだな」
「ほら、慌てるな。一匹ずつだ。順番だぞ?」
「お? なんだ? ここがいいのか?」
「ん……ほら、おいで」
浴室のドアが開くと同時に、キリッとした顔になるブリジット。
彼女のウサギさんと同じシリーズの、ネコとイヌのアニマルパジャマを着て出てきた私達の方に、視線を向ける。
ベッドサイドのランプ一つ以外の灯りは消されていたが、それ一つでも結構明るく、彼女の顔はよく分かった。
「出たか。バーゲスト達は、大人しくしてたぞ」
ベッドの上で、バーゲスト達に半ば埋もれるようにして、さらに一匹を抱きしめて首筋を撫でながらではあるが、口調・表情共に、抑制の効いた姿だ。
――実に私が言いそうな内容を、一瞬前まで黒妖犬達に言っていたとは思えない変わり身の早さだった。
しかし。
私は、慎重に言葉を選びながら、口を開いた。
「……ねえ、ブリジット。このホテルの『防音術式の適用範囲』って『室内』だって分かって……る?」
「それがどうした?」
一般的なホテルの仕様だ。
プライバシーに配慮すると同時に、無闇に壁を厚くしなくても防音出来る。
ドア部分へのノック――ドアに接触して発生した音――のみ内部に伝達するのが普通。
ドア越しに話す時など、ある程度モードは切り替えられるが、基本的には『外』と『中』を区別して適用される。
具体的には、廊下に面したドアを基準にして部屋の外と中を分けていて。
つまり。
「洗面所と寝室は、お互いの音が聞こえる仕様なんだけど」
ブリジットが固まった。
そして愕然とした顔になる。
「……え、だって……別に何も聞こえて……こなかった……」
「お湯がウーズだから、あんまり水音はしないし。小声で話して聞こえるほどではないかもだけど。その……随分と楽しそうだったから」
ブリジットの呆け顔が、頬がじわーと赤くなるのにつれて震えながら、あわあわと表情を変えていく。
そしてそれがピークに達し、じわ、と目尻に涙が浮かんだ瞬間、彼女は両手に顔をうずめて叫んだ。
「いっそ殺せ……!」
いっそではなく、「くっ」だったら完璧だった。
「姉様。大丈夫です。大丈夫ですから」
「そうだよ。すごく可愛かったから」
リズが私の口に手を当てて塞いだ。
「姉様。本当に大丈夫です。気に病むような事ではありませんよ」
ゆっくりと優しく、諭すようになだめるリズ。
しかしブリジットは頭を振った。
「だって、こんな……馬鹿みたいな……」
リズが私の口から手を離し、呆れ顔で見る。
「言われてますよマスター」
「それ、いつもの私の姿なんだブリジット」
「……え?」
ブリジットが、きょとんとした顔になる。
「……そう言えば、ブリジットの前ではそこまでしてなかったかな?」
「そうかもしれません」
ブリジットの前でバーゲストを出した事はある。
もちろん、頭を撫でた事もあるし、首筋のもつれた毛に手を差し込んだ事も、耳の形をなぞるように触れる事も、ゆるゆると振られる尻尾をじゃれるように愛でる事も。
けれど、言ってしまえば、『その程度』だ。
人に聞かせる事を想定していない言葉をかけたり、腹毛に顔を埋めたり、全身を埋もれさせるようにお昼寝したりは、していない。
ブリジットの前だと、かっこつけたい所が少しあったのかもしれない。
「マスターは、初めてお手を見せてくれた時にも似たような事をやってくれましたし、大体いつもそんな感じで遊んでましたし、"第三軍"の魔獣師団の者達の前でも披露した姿ですよ」
リズが、しみじみと懐かしむように言う。
「……それはちょっとおかしくないか?」
「何もおかしくない」
「でも黒妖犬だぞ?」
「愛らしいから問題ない」
「……でも人前はどうかと」
「いや、私だって人前では自重してるよ?」
ブリジットが真顔になった。
「……私は、さっきのを他人に見られたら、ちょっと何をするか分からんぞ」
騎士団長ご乱心。
でもブリジットの事だから、実際に剣を振るう事はしないだろう。
剣を抜いて喉元に突きつけて、「全て忘れろ」とか言うに違いない。
――まだ何か言えるやつは、多分いないだろう。
「初めての時は、リズに安全のためって言われて、魔獣師団の人達の前でも、リズに国家のためって言われて無理矢理……」
「人聞きの悪い」
だが事実だ。
「まあ、姉様が気にするような事ではありませんよ。うちのマスターの方がよほど恥ずかしいですから」
「そうそう……いや、リズ。言いたい放題すぎない?」
「反論があれば受け付けますが?」
わざとらしく首を傾げて見せるネコさん。
イヌさんは反論を諦めた。
その代わりに、スリッパを脱いでベッドに上がり込む。
ブリジットから私の方にやって来た一匹に手を伸ばすと、ころん、とお腹を見せて転がって、上目遣いで見てきた。
もちろんお腹の毛に指先を差し込んで、さすさすと撫でる。
その間に寄ってきた他の子にのしかかられ、ゆっくりと背が曲がっていく。
重い。
重力に抗うのを諦めて、ベッドに横倒しに寝ると、さっきまでお腹を撫でていた子もするりと起き上がって、上に乗ってくるので抱きしめた。
リズがベッドの縁に腰掛ける。
「……これだけ見てると、舐められてるように見えるんですよね」
「確かにそう見えなくもないな」
それでも、この子達が私の命令を違えた事はない。
忠実とか、そういうものですらない。
この子達は、私の群れ。私はこの群れの長。ただ、それだけ。
それでも、自分の意志がないのとは違う。
今のようなプライベートの時は、私達はこの子達を自由にしている。
「ただの番犬扱いより、よっぽどいいよ」
この子達には、繋がれていた過去がある。
最初に屋敷にいた子達は、私のために……『"病毒の王"の護衛』のために選ばれた、番犬だ。
自由意志を奪われ、隷属させられ……痛みによって凶暴性を引き出し、その怒りを『敵』に……『視界に入った動くもの』へ向けさせる。
質の悪い番犬だ。
この子達は、その鎖から、解き放たれた。
……他ならぬ、私の手によって。
私は、この子達がどんな存在で、どんな風にしてここにいるのかさえ、考える事もなかった。
ただ、攻撃されない立場に甘えて、呼び寄せて、好き勝手に……見方によっては、自分の欲望を満たすためだけの、身勝手なスキンシップをした。
リズから規定の魔力量を供給され、私からそれよりも多い魔力を吸収した。
家でエサを貰った上で、別宅でオヤツを貰ってくる半野良猫のような二重取りの結果、数は増え――『安全限界』を超えた。
いつでも私を噛み殺して、完全に自由になれたのに。
それでも、そうせずに、私の元に居続けた。
それほどまでに愛情に飢えていたのかと思うと……それを示すのに、人目をはばかる必要もないかと思えてくる。
愛情に飢えていたのは、私も同じかもしれないが。
今はもう、そうでもない。
『私達』は、もう満たされている。
でも、それはそれとして首筋のあたりの毛に、顔を埋めながらぐりぐりと押しつける。
「はー……」
「満足そうですね」
「本当にな」
「ブリジット。いつかも、言ったけど」
私は起き上がると、ブリジットを見た。
「こんな馬鹿な真似を、当たり前に出来るようにするために、戦ったんだよ」
私達が望んだ『平和』が、どんなものか。
人間は、魔族と、魔獣がいない世界を望んだ。
私達は、そうではない世界を望んだ。
かつて、見たら死ぬとさえ恐れられた黒妖犬が、国内を巡回し、ある温泉宿では従業員に可愛がられている。
そして今あるホテルでは、ある三姉妹と一緒にベッドの上でくつろいでいる。
幸福が、特別な物ではなく、当たり前に、連続した日常の一コマに――なるべく多く――存在している。
それが、私の思う平和の形だ。
「……そうだったな」
微笑むブリジットを抱きしめた。
リズもベッドに上がり、ブリジットに寄り添うように抱きしめる。
ブリジットを真ん中にして、ゆっくりと倒れ込んだ。
手を伸ばして、ベッドサイドのランプを消す。
それぞれ掛け布団を引き上げると、その上にバーゲスト達が乗ってくる。
「お前達。リズとブリジットには控えめにね」
「どうしてだ?」
「二人は生身だから。寝苦しいかなって。胸の上に何かのってると悪夢を見やすいとも言うし」
と言いながら、私の薄い胸の上にはがっつりバーゲストが乗っていて、私は腕を回して抱きしめた。
「……マスターは乗せるんですね?」
私は上位死霊だが、人間並みを実現している。記憶の整理を兼ねているらしい『夢』も見る。
それが悪夢になる事も、ある。
しかし。
「こうしてくれるのが嬉しくて」
多分、適当な所でどいてくれるはずだ。
こうして眠る時、ことさらに悪夢を見やすいという事もない。
不意に、がくり、と頭が下がった。
見ると、一匹のバーゲストが枕をくわえて引き抜いていた。
いたずらかと思ったが、すぐに頭が元の位置に戻る。
違う所は、枕が贅沢なバーゲスト毛100%になっている所。
バーゲストが、私の頭の下に潜り込んでいた。
今日は、枕にさえ、私のそばのポジションを譲るつもりはないらしい。
いじらしさに胸が温かくなり、手を伸ばして顎裏の毛に指先を差し込んで軽く掻いてやると、気持ちよさそうに目を閉じた。
「……いい夢が、見られそうだな」
そう言ってブリジットが笑うと、もう一匹――いや、もう二匹が、それぞれ二人の枕の下に潜り込み、さらに別の二匹が枕を引き抜いて、端に寄せた。
一人当たり三匹以上が、枕に布団に、あるいは抱き枕にと寄り添っている。
あぶれた子達は、床に降りて寝そべった気配がした。
リズが苦笑する。
「……さすがに慣れたつもりですけど、やっぱりこれ、特殊ですよね」
「可愛いから問題ない」
そう言って、静かに息を吐くと、目を閉じる。
夜のお話は旅行の華――とは言え、割と強行軍での馬車移動だったのだから、眠らなければ。
「おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
「ああ。……おやすみ」
二人も力を抜くのが、気配で分かった。
そして、隣のブリジットが手を伸ばして――
軽く、頭を撫でられた。
……昔、私がまだ、人間だった頃。
今名乗っている名前とは、違う名前を持っていて……名前を思い出せない妹と、一緒にいた頃。
こんな風に、年の離れた妹の頭を撫でた事を思い出した。
祈るように、願うように。
ありとあらゆるこの世の全てから、守られるように。
さしあたっては、よく眠れるように。悪い夢を見ないように。身体を冷やさないように。
そんな気持ちを込めて、髪を撫でた。
手が離された事を少し残念に思い――けれどその手がリズの方に向けられたのが分かって、その気持ちは消えた。
知らず知らずの内に、口元が笑うように緩んでいた。
妹も、こんな気持ちだったろうか。
抱えているバーゲストの首筋を優しく撫でる。
犬耳フード越しに頭で感じている、熱を持つゆっくりとしたお腹の動きが、ぬくもりと相まって眠気を誘う。
……いい夢が、見られそうだった。