ホテルの部屋に入ったらお部屋チェックするのが定番
ホテルの部屋に入った後にする事と言えば、お部屋のチェックと相場は決まっている。
よほど疲れている時や、通い慣れたホテルであればその限りではないが。
そうでなければ、一通り見て回るのが定番。
設備の不備があれば、早めに見つけたいという実利的な理由もある。
とりあえず荷物を置いて、部屋を見渡した。
あまり大きな部屋ではない。レイリットンには、豪華なスイートルームがあるような高級ホテルはないのだ。
スイートがあっても、予約したかは微妙だ。
今の私は、自分の宿を潰してしまった時の個人資産の残り具合で、その後のルートが大きく変わりそうなので。
安定してきたし、いきなり危なくなる事はないとは思うのだが。
古いながらも床板は磨き込まれ、壁紙も折を見て張り替えられているのか、汚れや破れはない。
ベッドメイクも丁寧で、ベッドの下に埃やゴミもない。
海に近い街ながら、少し離れているのでオーシャンビューではないが、代わりに海の絵が掛けられていた。
リタル温泉でも、玄関ホールにリタル山脈を描いた絵を掛けているので、ちょっと親近感を覚える。
時間が遅いので閉められているカーテンをちょっとめくると、室内の灯りでガラス窓が鏡のようになって、顔が映り込む。窓ガラスに映る姿は、死霊なので、いっそう透き通って見えた。
窓の清掃も完璧だ。
さらに照明は、揺らぎのない魔力灯。
温かみのあるオレンジ色で、目に優しい。
揺らぎがなく、光量が十分で、目に優しい配色は、きっちり職人が手がけた証。
いい部屋だ。
「マスター、職業病ですか?」
「いや。それも少しはあるけど……昔からの習性かな?」
「……安全のチェック、か?」
ブリジットの言葉に、私は首を横に振った。
「いや。ただの興味本位」
安全のチェックなら、非常口の確認からだ。
館内も散策したい所だが、二、三日は泊まる予定なのでそれは明日以降に回す事にする。
予定が一日早まったので不安だったが、そのまま泊まれたのは幸いだ。
元々、旅の予定に絶対はないので、リストレアの宿は、よほど繁忙期でもなければ満室になる事は少ない。
『リタル温泉』も、天候が荒れそうな時は、予約を控える。
晴れた時は実に損した気分になるが、そうしなければ振り替えの負担が、凄惨を極めただろう時もあったので、なるべく安全に寄せていきたい所。
二つ並んだ木製の室内扉を開けると、一つはトイレ、一つは猫足のバスタブの置かれた洗面所だった。
お風呂はなしで、トイレや洗面所が共用の宿も多い中、各部屋にあるのは、さすが最高級ではないにせよお高めのホテルだけはある。
「お風呂は各部屋に備え付けで、別料金で"粘体生物生成"のサービスもあるらしいけど、それは頼まなくていいよね」
「……ええ、全くもって必要ありませんね」
"粘体生物生成"自体は簡単な魔法なので出来る人がほとんだ。
なので、少数の出来ない人か、疲れていて楽したい人がお願いするサービスという事になる。
「うちのお風呂と同じぐらいですね。あ、王都の家の方の」
「そうなのか」
お風呂なしの家も多い。
正確に言えば、バスタブを置かない家だ。
水回りの工事が楽で、お風呂場について必ずしも設計段階で考慮しなくていいのは、リストレアのいい所。
ちなみに水道は、川から引く事もあるが、雨水を溜めるのが普通。
「実は公衆浴場も近いんですけど、マスターは絶対にお風呂のある家がいいって」
「そうなのか……」
お風呂は必須だ。
"粘体生物生成"があるし、"浄化"を筆頭に各種魔法も手助けになるとは言え、人はまだ風呂掃除から解放されていない。
お風呂ありがいいと強く主張したのは私なので風呂掃除は私の担当だが、毎日となると、面倒になるのも分かる。
だから、公衆浴場で入浴はすませると言う人は多い。
それでも、絶対にお風呂が欲しかった。
ブリジットの合流前にも、王都に立ち寄っているが、自宅のお風呂に、大変癒やされた。
「この広さだったら――」
「この広さなら――」
リズとブリジットが同時に口を開き、お互いにちょっと視線を向けながら、そのまま続けた。
「二人で入れそうですね」
「一人ずつだな」
リズが、ギギギ……と、ゆっくり姉から目をそらした。
「…………」
「…………リズ?」
その反応で、いつも私達二人がどんな風に入浴しているかを、ばっちりと察したらしいブリジット。
褐色の肌に赤味が差した。
「あー、その……夫婦、だからな?」
「そうそう、夫婦だから」
私も、うんうんと頷く。
おかしい事があろうか。
「姉様の優しさだけ受け取っておきます……」
「え? 私のは?」
「マスターが悪いんですよ。マスターがお風呂のある家がいいって」
「……でも、リズがぴったりくっつけ」
ぐい、と首元の護符が握り込まれ、私を引き寄せながら自分も顔を近付けたリズが、笑顔を浮かべた。
「これからずっとバーゲストとだけ入浴したいですか?」
「今、何を言おうとしたか忘れた」
私は速やかに「リズがぴったりくっつけるのもいいかなって言ったんじゃない」という発言を闇に葬る事にした。
黒妖犬と入る事もあるが、王都の家のバスタブは、私とリズが入ると、大型犬を入れるスペースがない。
元々、明らかに一人用なのだ。
なおリタル温泉では、従業員風呂限定で、温泉に入るニホンザルやカピバラのように、バーゲストが一緒に入る光景が馴染みの物となっている。
そのため、ドクターは、「最近、周りのやつらから犬好きだと思われてる」と私に相談してきた。
以前は本人の希望で一人きりで入浴していたが、最近は、皆と時間を合わせて一緒に入るようになってきて、それ自体はいい事だと思うけれど。
バーゲストをちらちら見てるし、寄ってきたら撫でてるし、キリッとした顔してるように見せていつもの仏頂面と比べたら明らかに笑顔だし、そう思われない方がどうかしてる。
……という事をやんわりと伝えたら、相談内容は「もう開き直ろうか迷ってる」に変わった。
ブリジットが、遠慮がちに口を開く。
「あー……私、先にお湯貰う……な?」
「どうぞ」
「うん。あ。――パジャマこれね」
トランクを開け、すぐに出せるようにしていた布袋を出して、差し出した。
ブリジットが戸惑い顔になる。
「え?」
「せっかくの休暇だから、毎日同じパジャマも味気ないかなって」
長旅となれば、寝間着は真っ先に一着まで切り詰められる所。
任務で遠征ともなれば、パジャマなどというのは贅沢な文化だった。
「そうか。じゃあ、ありがたく使わせて貰う」
ブリジットが礼を言って、浴室へ消える。
私はリズを見た。
「リズ。私達は……どうする?」
「……一人で入りたいですか?」
一瞬、返事に迷った。
「……せっかくだし、二人で入りたい」
しかし、正直に答える。
リズが、マフラーで口元を隠して、目をそらした。
「……私もです、よ」
「リズ!」
思わず抱きしめようとしたら、鮮やかに避けられた。
すかっと空振りした腕が虚しい。
寸前まで確かに捉えていたのに、どうやって避けたかさえ分からないって、どうやってるのか分からない。
「変な事したら怒りますからね」
真面目な顔のリズ。
思わず聞いてしまう。
「……お風呂で抱きしめるのは、変な事じゃないよね?」
彼女の判定次第では、バーゲストと一緒の入浴になるだろう。
もちろんそれはそれでよいものだけど、せっかくの旅行なのだし。
リズは、真面目な顔のまま頷く。
「狭いですからね。仕方ないですね」
判定は、かなり甘かった。