アヤメ風呂
私は、夕食後、リズとブリジットと連れ立って、宿に併設された公衆浴場へ来ていた。
あくまで中継点なので、他の客は少なく、貸し切り状態――と思ったら、一人、思わぬ先客がいた。
「アイリスさん?」
「あ……デイジー様方」
湯船に張られたウーズに浸かったまま軽く会釈する彼女は、お風呂なので深紫のフード付きローブ姿でこそないが、アイリスさんだった。
ぴこりと反応したのは黒の猫耳。猫系の獣人さんだったらしい。
肌は透き通るように白い……というのは定番のアンデッドジョークだが、本当に透き通っている事を除いても色白だ。
物腰も丁寧だし、どことなく深窓の令嬢や、薄幸のお嬢様といった風。
透けているせいもあり、かなり薄く見える薄緑の瞳が、私を見返した。
「お先にお湯を頂いておりました。それでは、私はこれで……」
そう言って立ち上がろうとするアイリスさんを手で制した。
「もし遠慮してるなら、そのままどうぞ。ここは公衆浴場ですし」
「……そう、ですか」
もう一度、浸かり直すアイリスさん。
……着やせするタイプだった。
親近感を感じていたのに。
「……何か?」
「いえ……お気になさらず」
ちらりとリズとブリジットを見る。
レベッカがいないと……ある種のバランスが取れない。
それはまあ気にしない事にして、とりあえず洗い場で身体を洗う事にする。
「さ、お義姉ちゃん? 背中流すのと、流されるの、どっちにする?」
「両方で」
さらりと答えるブリジット。
初めて一緒に公衆浴場に入った時に、どことなく距離感に戸惑っていた彼女は、もういないのだと思うと、一抹の寂しさが。
……その代わりに、ごく自然に近い距離を許してくれているのだと思うと、改めて嬉しくもなる。
普通に身体を洗った後、背中だけ洗って貰う。
髪はまた後で。
湯船に三人揃って浸かると、アイリスさんが口を開いた。
「……仲がよろしいのですね」
「長い付き合いですから」
「長い付き合いだからな」
リズとブリジットが声を揃える。
長命種基準では、まだ短い方かもしれないけれど。
きっと、長命種基準でも長い付き合いになるだろうと思っているし、そのための努力を惜しむつもりはない。
それに私の基準では、長い付き合いだ。
この世界に来てから……ずっとなのだから。
私は付け加えた。
「それに、深い付き合いだから」
「そのようですね。羨ましい事です」
「ありがとう」
あまりにさらりと言うので、客へのお世辞なのか本心なのか分からない。
けれど嫌味な感じはしないので素直に受け取る。
「デイジー様は、アンデッドなのに入浴されるのですね」
「アイリスさんこそ」
入浴する不死生物が、全くいない訳ではない――というか、骸骨の場合は、半ば義務だ。
ただ、聞いた情報を総合すると、あれは入浴と言っていいのかどうか。
洗浄が必要なほど汚れていると判断したら、"粘体生物生成"によってウーズの満たされた湯船に、全身を浸す。
大体は、生成したウーズの寿命が来る前に適当に上がるとの事。
聞くと『全身』とは本当に全身で、爪先から頭のてっぺんまでだ。浮力らしい浮力もないし、湯船の深さを考慮して、底に寝転がるのだとか。
入浴って言うより入水。
都市伝説にある、医療用献体が沈められているホルマリンのプールかと思いそうな絵面。
便利な日常生活用魔法、"浄化"の汚れ判定も万能ではない。
改良されつつも、あまり『汚れ』の範囲を広げると事故るから、あえて多少不便にしてあるとはレベッカ談。
不死生物でも一応使えるが、『事故』が起きる事もあるので、なるべく使わないのが基本だと言う。
うちの騎士達は泥や血で汚れた場合は、川縁でお互いに水をぶっかけて洗ったりしていた。
――そういう、入浴と言うより洗浄と言うべき『お風呂』は、骸骨の場合のみ。
死霊は骸骨より汚れにくく、個人の判断に任されている。
どちらにせよ、私は公衆浴場で不死生物の人を見た事はなかった。
「……生前、入浴が好きだったもので。肌に触れる感覚は薄くなりましたが、なくなった訳ではありませんし……」
生前の感覚は、不死生物になった際に鈍感になる――らしい。
私は不死生物としては新米な上に特殊なので、そういうあるあるネタに、あまり共感出来ないのだ。
聴覚はむしろ鋭くなるぐらいだし、視覚は見え方が違いすぎるが、ある意味では高性能化する。
味覚と嗅覚も、一応そういった感覚はあるらしい。――不死生物が食べられるのは魔力だけなので、ある意味純粋で、余計な物を削ぎ落とされた味かもしれない。
その中で唯一、鈍いとは言え、生前と近しい物を残すのが触覚だ。
痛覚と呼べるものはないにせよ、身体に何かが触れたという感覚はある。
「……私は、『目覚めた時』、あまり自分の事を覚えておりませんでした。名前は引き継ぎましたが、連れ合いのような者もおらず、すんなりと"第四軍"へ」
よくあるパターンの一つだ。
記憶をどれだけ引き継ぐかは人による。――何もかも忘れている事も、珍しくはない。
「ただ、それでも覚えている事はあるものですね。日々の忙しさで忘れていた、昔の望みを……終戦と、それからの魔王軍への所属義務の消滅を切っ掛けに、思い出したのです」
「……どんな?」
「違う土地を、見てみたかった……」
懐かしむように目を細めるアイリスさん。
「……死後に夢が叶うというのも、不思議なものです。"第四軍"では"荒れ地"内の輸送任務が中心でしたが……終戦後、退役前には、開拓村の事前調査に御者として参加しました」
それは、ベテランの仕事だ。
不死生物の馬の強化に、ペース配分。もちろん、道を覚えていなくては話にならないし、天候を読む技術も大事だ。
さらに、見知らぬ土地を馬車で行くとなれば、多くを今までの経験で補正する必要がある。
「経験を買われて、今の仕事に誘われたのです。まだ、山向こうへはあまり行けておりませんが、全国を巡っております」
「ベテランなんですね」
「ええ……まあ、長く御者をしておりましたから。でも、私などまだまだです」
奥ゆかしい。
ただの遠慮というのでもなく、本当に、そう思っているらしかった。
「……喋りすぎたでしょうか」
「いいえ、そんな事は」
軽く手を振って否定する。
「そう言って頂けると幸いです。……不思議ですね。今までは、あまりお客様と踏み込んだ話をする事はなかったのですが……」
どこか不思議そうに、口元に手を当てるアイリスさん。
「マスターは、お風呂では無礼講という主義ですから」
「仲良くなるには一緒に入浴って信条の持ち主だから」
私の事をよく分かっているリズとブリジット。
アイリスさんが、くすくすと笑った。
私も、ちょっと笑う。
いつも立場を背負っていては、胃に穴が空く。
それでも、背負わねばならぬものがあるとしても……せめて、お風呂ぐらいは。
"病毒の王"時代の事を、ふと思い返す。
私が、一人だった時だ。
本当に、初期の頃。
私の部屋は、本当にただの執務部屋で。
まだ、仕事の合間に、裏庭で壁に背をもたせかけてぼんやりする私のそばに、黒妖犬は寄ってこなくて。
リズは、仕事に関する事ならばあらゆる要望を聞いてくれた。
でも、仕事以外の事はそうでもなくて……私はまだ、うまく甘えられずにいた。
最初、一緒に食事をする事を断られてから、私は臆病になっていた。
リズにしてみれば、自分は副官であり、メイドであり……そういう立場を望まれたのだから、と、彼女なりに忠実に、メイドを演じていたのだ。
特に彼女にとって身近なメイドは、軍所属の下働きで、普通、食事の席を共にする事はない。
けれど私にしてみれば、知らない国で、あまり馴染みのない味付けの食事を、広い食堂の長机で一人ぽつんと取るのは……寂しい以外に言いようがなかった。
格式のある、他よりも少し豪華で、座り心地も、品もいい椅子。
でも、その上座に、何の意味があるだろう。
私は、一人だったのに。
お風呂だって、そうだ。
総大理石の豪華で広い――広すぎる――湯船いっぱいに広がるのは、うぞうぞとうごめく、黄緑色の何か。
……それでも温かいウーズは、温かいお湯と同じく、心をほぐしてくれた。
慣れると、他よりはマシだった。
お風呂の方が、一人の時間という感じがしたから。
……昔より、ずいぶんと人恋しくなった気がする。
途中から不死生物になったとは言え、いい大人なのに。
……大人だから、自分一人では埋められない隙間を、思い知らされているのかもしれない。
そっと、水面下の手を、ウーズをかき分けながらゆっくりと伸ばし、リズの手に触れた。
リズがちょっと眉を上げ……そして微笑んで、手を握ってくれる。
「……それでは、私はこれで。先に上がらせていただきます」
アイリスさんが一礼して湯船から上がる。
その姿を見送った後、リズと手を繋いだままブリジットの方を見ると……彼女は笑って、手を重ねてきた。
「ブリジット」
「両手に花だろ?」
「……うん」
私は、素敵なお嫁さんとお義姉ちゃんを持った。
一瞬、姉妹丼という言葉が頭をよぎったのは、内緒だ。