変わりゆく理想
「ふあ……」
それからしばらく話に花を咲かせていると、ブリジットがあくびをして、慌てて口元を手で隠した。
その目は、どことなくとろんとしている。
「ブリジット。少し寝たら?」
「ん……でも、せっかくの旅行だし……」
可愛い事を言ってくれる。
ちょっときゅんとした。
「でも、今回は長旅になるんだし。移動時間も長いから、ゆっくり休んだ方がいいと思うけど」
「……そうだな。少し寝る」
ブリジットは素直に頷くと、焦げ茶のフードを目深にかぶって光を遮り、背もたれに背を預け、目を閉じた。
「何かあれば、起こして……」
それだけ言うと、すぐに寝息を立て始める。
フードに隠れた寝顔を見ていると、それが気を許してくれた証のようで嬉しい。
一緒に寝た事も、いちいち数えられないぐらいにはあるが、それは安全の確保された部屋の話だった。
「……ブリジット姉様が、こんな風に気を抜くのを見るのは、感慨深いですね」
リズも同じ事を考えていたらしい。
見ると、目が合った。
「私が言えた義理じゃありませんけど……姉様の事、心配だったんです」
「心配?」
「"第六次リタルサイド防衛戦"の戦功で、姉様は副団長に任じられました」
「それが、どうかしたの?」
有名な逸話だ。
ブリングジット・フィニスは、"第六次"の戦功によって、年若い身で"血騎士"の二つ名と、副団長の称号を得た。
その後、先代騎士団長が病没すると同時に、騎士団長へと昇格した。
「姉様は、序列なしから、副団長になったんですよ」
「……ん? 待って。普通、ある程度序列が上の人から選ばれるよね?」
軍内の序列は、有事の際の指揮系統を、ある程度分かりやすくするために存在している。
意見や話し合いも大事だが、時には何よりも判断速度が必要とされる。
ただ、空きが出ればスライドしていくかと言うとそうでもない。立場に紐付けられているからだ。
暗黒騎士団で言えば、魔王軍最高幹部でもある騎士団長が序列第一位。副団長が序列第二位。そして、重装騎兵団の団長が序列第三位となる。
以降の第四位からは規定がなく、基本的には部隊を小分けした時の隊長……という位置付けだ。
序列持ちは上級騎士とも呼ばれ、皆、相応の腕と人望を持っている。
……序列一桁から副団長が選ばれるのが『普通』のはずだ。
「ええ。……『普通』は」
リズがブリジットを見る。
「……姉様や私が軍に入ってから、"第六次"まで、大規模な戦闘……功績を挙げる機会はありませんでしたからね。私は……その、『特別任務』とかで、多少功績を挙げる機会があったのですが」
ふわっとぼかしたが、単独で黒妖犬狩りの囮やら、敵地へ潜入しての暗殺やら、命令した人と――その命令を素直に受けて、実際にこなしてみせた側の正気を疑う内容だ。
しかし、そこはもう掘り下げない事にする。
「だから、普通ではなかったんですよ。……副団長をはじめ、次の騎士団長を期待されていた者、全員が……姉様を推しました」
「どんな人気してるの」
ちょっと意味が分からないレベル。
「有名な言葉ですよ。当時の副団長の『彼女の戦い振りに、理想の騎士を見た』という言葉は……」
――理想の騎士。
それは。
「どんな数を敵に回しても。味方を、背後の全てを守るために一歩も退かない。……ええ、本当に『理想の騎士』です」
しかし、リズの語り口は暗い。
それは、理想なのに。
同時に体現してしまえば、ひどく非人間的だった。
リズが一転、軽い口調になる。
「まあ、マスターも大概ですけどね。軍人ですらない民間人が、いきなり最高幹部とか」
「私はちょっと特殊だからノーカンで」
私が軍人どころか、捕虜にして客分から最高幹部に任じられたのは事実だ。
でも、少なくとも最初は囮成分がかなり濃かった。
リズが、また真面目な口調になる。
「……心配でした。姉様も、マスターも。……でも私は、私達は、それを『よし』としたんです。勝つために必要だから」
私は笑った。
「……ありがと」
「は?」
リズが眉を寄せる。
「そんな風に心配してくれた人達がいたから……私も、多分ブリジットも、戦い抜けた」
「……でも」
「私も、ブリジットも、それなりの覚悟をしてたつもりだよ」
リタルサイドの城壁の上で、私を殺しかけた事を懺悔するように告白したブリジットが見せた苦しそうな顔と声を、今も覚えている。
そうしたい事と、しなければならない事は違った。
彼女は出来るなら、囚われた――使われた――人間達の事も、助けたかったのだろう。
種族を戦う理由としたのは、人間の都合だ。
それでもブリジットは、私の行動で生まれた障壁の穴に、攻撃魔法を叩き込めと――殺したくない人達も含めて、城壁の上の人間を全て殺せと、命令した。
それが、彼女の指揮官としての覚悟だった。
「……知ってます」
リズが頷いた。
彼女だって、覚悟していた。あの時代を生きた者は、皆、それなりの覚悟をしていただろう。
私達は特別な立場だったが、特別な覚悟をした訳ではない。
「まだ……心配?」
「……いいえ」
リズが微笑んだ。
「どこかの誰かさんのおかげで、姉様は、上手く肩の力を抜けるようになったみたいですから」
「いい事だよ」
メリハリは大事。
それは、暗黒騎士団長にとってもだ。
私はどっちがメリだかハリだか分からないぐらいだったような気もするが。
それでも、私は仮面をかぶった時は、それを望む人達のために、魔王軍最高幹部として振る舞った。
自分も、それを望んだ。
弱いままでは、何も出来なかったから。
それでも、常にそんな風に振る舞っていたら、胃に穴が空く。
私の胃と精神が、綱渡り風味ながらもかろうじて耐えてくれたのは、リズを筆頭に、部下達が私の頼りなさを――弱い所を見せるのを――許してくれたからだ。
ブリジットにも、弓兵のエスタさんをはじめ、気を許せる相手が全くいなかったという事はないようだが。
……少なくとも今ほど、人前でリラックスした姿を見せるのは、妹のリズぐらいだったのではないだろうか。
私は、血は繋がっていないけれど、このひとのいもうとだ。
そうなれた事を、嬉しく思う。
「リズも、すごく柔軟になったよね」
「……まあ、そうですね」
リズが頷く。
彼女は、今よりもっと、事務的に、副官として『わきまえた』振る舞いをしていた事もあった。
……思えば、遠くへ来たものだ。
リズがてのひらを上にして手を差し出したので、とりあえず手をのせる。
「何、この手?」
リズがその質問には答えず、手を掴んだ。
「……あの、ですね。さっき姉様がやられてるの見て、いいなあって思ってて、ですね」
「さっき?」
リズがくい、と私の手を引っ張って、自分の耳にやった。
「マスター、ダークエルフの耳、好きじゃないですか」
「うん、大好きだけど」
リズが、顔を赤くしながらも、目をそらさずに私を熱っぽい目で見つめた。
「……私も、マスターに耳触られるの、好きなんですよ」
愛おしさに胸が一杯になって、喉が詰まった。
「……さっきまでより、もっと好きになった」
指先に軽く力を入れて、彼女の耳の全てに触れるように揉み込んでいく。
リズが口元を緩めるように、柔らかく微笑んだ。
何もかも、変わっていく。
変わってほしくなかった事もある。
それでも。
リズも、ブリジットも――多分、私も、変わったけれど。
変わった今が、一番好きだ。
耳に添えた手で、促すように軽く頭を引き寄せて、お互いに席から腰を少し浮かして、丁度中間で唇を重ねた。
充足感が胸に満ち満ちて、心を満たす。
もう言葉は、要らなかった。