ハルの成長
「――そうだ。礼を言おうと思ってたんだ」
「お礼?」
ブリジットに礼を言われる事に、心当たりがなかった。
「『ハル』の事だ」
「……ああ。どうだった?」
ハル本人から、「みんなに久しぶりに会えて嬉しかった」とは聞いている。
一人では不安という事で、ディアナも一緒にリタルサイドへ行った。
正直な所、ディアナが付いていても不安だけど。
というか、むしろ別の不安が出てくるぐらいなのだけど。
もちろん、ハルはある程度暗黒騎士時代の記憶が戻っているのだから、旅行ぐらい普通に出来る。
リタル温泉は『知る人ぞ知る秘湯』を経て、『いつかは行ってみたい宿』になりつつあるので、ふもとの村へ定期便が通るようになった。
リタルサイドは大きな街だから、途中で他の街で一度泊まりの休憩を挟むとは言え、ほぼ直通の便がある。
魔獣の生息数がかなり多いリストレアと言えど、集落近辺と、街道沿いは安全を確保されている。
治安もいい。女の子の二人旅でも問題はない。
……でも、何故か不安。
二人してちゃんと帰ってきた時には、心底ほっとした。
ブリジットが、笑顔を作る。
「……『ハールーシェ』が帰ってきたって、みんな大喜びだったよ」
「そっか……」
感慨深い。
ようやく――彼女の戦争は、終わったのだ。
ブリジットが、作った笑顔のまま、にこやかに聞く。
「で、お前、ハールーシェに何をした」
「……え?」
「会った途端、抱きしめるのはいい。――久しぶりに戦友に会えて嬉しいんだろうと、思ったさ」
「……うん」
ハル。何したの。
固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「でも、全員の頬にキスしたし、キスをねだったぞ。一体リタル温泉では、従業員にどんな教育をしてるんだ?」
「……いや。当温泉では従業員に対して、特別変わった教育はいたしておりません。――ハルがスキンシップ好きなだけだと思うよ? ヘーゼリッタが、何か言ってなかった?」
「ああ、ヘーゼリッタな。言ってたぞ」
ブリジットが、一つ頷いた。
「全部、支配人を名乗る女性が、ハールーシェに教えた事だって」
ヘーゼリッタめ。
嘘は言ってないけど。
「……日常的にしてる訳じゃないから」
ハルは、私とリズにも、一度ずつ感謝の気持ちと称して『挨拶』してきたが、それだけだ。
「多分、ハルにとって、一番感謝の気持ちを伝えられる手段なんだよ。……口下手なのは、元からじゃない?」
「……ん。まあ、な。寡黙だが、腕のいい騎士……だった」
ブリジットが、懐かしむように目を細める。
「少しだけ、剣も握ったぞ。訓練用の木剣だが」
「そうなの? 無理はさせないで……って言われるまでもないか」
「ああ。剣筋はさすがハールーシェだが……やっぱり『ハル』なんだな」
寂しそうに笑った。
「動きは身体に染みついていても、その身体が付いていかないみたいだった。……十年以上、だものな」
「うん……」
「しかし、十年ぐらい施療院で静かに過ごして、その後はメイドやってるだけとは思えない体力なんだが」
「え?」
ブリジットが「また何かやっただろ」的な目で私を見るが、心当たりがない。
「ああ、ハルから、少しなまりすぎているから稽古を付けて欲しいと頼まれまして。体力作りを中心に」
さらりと言うリズ。
「……それ、近衛師団式?」
「もう少しゆるい感じで。"第六軍"式です」
「……つまり?」
「マスターを教えるぐらいの優しさで、基本的に寸止めで、訓練後のマッサージとお風呂付きです」
「いいなあ……!」
私は、思わず声を上げていた。
「……訓練付きなら、いつでもして差し上げますが? 帰ったら、ハルと一緒に訓練します?」
「……考えさせて」
「はい。……いつでも歓迎しますよ」
にこりと笑うリズ。
そう言えば、お風呂前にちょっと用事があると言って消えた事が何度かあったような。
リズが現役から衰えていない陰には、相応の努力があったという事だ。
ただのメイドには、本来必要ない努力。
リタル温泉のメイドのハルにも、必要とされないだけの。
「ハルは……暗黒騎士に戻る気は、あるのかな」
「ないみたいだぞ」
「ないみたいですよ」
「そうなの? じゃあなんで」
ブリジットとリズが、顔を見合わせる。
「守りたいからだ、と」
「ええ。そう言ってました」
「……え?」
「暴力には暴力でしか対抗出来ない。そして、相手の実力を圧倒的に超えている場合だけ、『平和的な解決』を選べる。……お前がディアナを止めた時に、改めてそう思ったらしい」
「……ん? もしかして私のせい?」
確かに誰も傷付けずに丸く収めるのは、優しさか、強さか……あるいはその両方が必要となる。
私に優しさがあるかは微妙だが、最高幹部や近衛師団に鍛えて貰ったのは、伊達ではない。
「そうかもな。――気に入ったんだろう。リタル温泉のことを」
「……そう。うん……嬉しい、な」
リタル温泉には、色んな事情を持った人が集まっている。
秘境っぽい職場なので仕方ない。
ハルはその筆頭とも言えた。
リタル温泉は、平時は外界とほとんど接触がないゆえに、多くの物から守られている。
借金取りとか。
丁寧だが全く隙のない強面さんに事情を聞いてみたら、完全に合法だったので、給料から天引きで払うという事で手を打って貰った……という人が、ざっと十人はいる。
違法なのは、組織ごと潰した。
そんな風に、守られている人達がいる。
でも、彼女はもう守られる側ではなく、守る側だ。
「で、ハールーシェだが、大好きとか感謝してるとか、さらりと言うようになったんだが」
「……あー、うん。ハルは素直だから……」
「私とマスターを見て学んだんじゃないですかね。記憶を取り戻す前も、今も――素直でいい子ですよ」
「それは知ってるが……」
ため息をつくブリジット。
「ちなみにブリジットはキスされたり、キスしたりしたの?」
「……あんな目で見られて、断れると思うか?」
「あー、無理だね」
……暗黒騎士団って、免疫なさそうなひと多いし。
騎士団長を筆頭に。
天然系小悪魔さんは、順調に成長中のようだ。
ディアナも、天然系上位悪魔になるかもしれないが。
「ねえ、ブリジット」
「なんだ?」
私は揺れる馬車の、座席と座席の間の狭さを利用して距離を詰めて、彼女の頬にそっとくちづけた。
「大好きだよ、お義姉ちゃん。いつもありがとうね」
「な、なんだ急に」
「素直な気持ちだよ?」
私が席に戻って座り直すと、ブリジットがため息をついた。
「やっぱり元凶じゃないか」
「ですね」
そう言いながら、リズもブリジットの頬に唇を寄せた。
「こ、これ姉妹でやるものじゃなくないか」
「そんな事ないですよ。むしろ久しぶりに会った親族間の挨拶だと思います」
「……そういうものか?」
「ごくプライベートな挨拶だから、人によりますけどね」
……彼女達にはもう、こういう挨拶をする『親族』は、他に誰もいないのだ。
『フィニス』の名を持つひとは、他にもいるけれど。
血と家の繋がりを持つのは、この三人だけ。
ブリジットが、リズの頬に軽く、くちづけた。
そして身を乗り出して距離を詰め、軽く私の頭を引き寄せると、頬に唇をつけて離す。
彼女は笑った。
「……愛してるよ。私の可愛い妹たち」
私は、その自然な笑顔を直視出来ずに手で顔を覆った。
とても熱い。
「……愛してるって。家族にも言うけど、そのトーンで言うと、それもう告白だよ……」
「ええ、加減というものを知りませんね」
顔から手を離して視線を向けると、リズも頬に手を当てたり離したりしていた。
その顔は、耳まで赤い。
「……素直な気持ちを言っただけだぞ?」
「ほら、そんなダメ押しを」
「この騎士団長にしてあの騎士ありって感じです」
「……そうか?」
自分の言葉の破壊力を、本当に理解していないらしいブリジット。
無自覚天然系小悪魔の完成形がここにいた。
……ああ、でも。彼女の気持ちに、何一つ嘘はない。
きっと彼女は、そういう感情を利用しようという気持ちは、一片も持っていないのだ。
きっと、そんな彼女だから。
「……私達も愛してるよ、ブリジット」
「ええ、姉様。愛してます」
私とリズが、お互いに向けて口にするのと同じで、少し違う気持ちが込められた言葉。
「……そうか」
それを聞いて、頬を緩めて笑うブリジットの笑顔は、実に『おねえちゃん』らしかった。