宝物のような思い出
彼女――ヘーゼリッタは、背中を壁に付けたまま、ずるずると床にへたり込んで、片手で顔を覆った。
呻き声が漏れる。
「……ごめんなさい。こんなつもりじゃ……ありませんでしたわ……」
「分かってるよ。……私にも、分かるんだ。寂しいよな。……戻ってきて、欲しいよな」
「……はい」
リズや、レベッカや、サマルカンドや、ハーケン……苦楽を共にした仲間が。
自分の事を忘れていたとしたら。
……彼女をただ責める事は、私には出来なかった。
「お茶でも飲もうか」
私が手を差し伸べると、彼女は素直に手を取って、引き上げられるに任せて立ち上がった。
そこへ、騒ぎを聞きつけたらしいリズがやってくる。
「マスター。ええと……手伝える事、あります?」
「ハルとディアナは早退扱いにしといて。部屋にいる。私は少し彼女と話をしてくる。悪いけど……」
「はい、シフト組み直しておきます。詳しい話は、後でいいですよ」
「助かる」
さすがリズだ。
休憩用の一室に彼女を招き入れた。
小さな部屋だが、テーブルが一つと椅子が二つがあって、仕事の合間に一人――あるいは二人――になれるスペースだ。
途中、給湯室でお茶もティーポットごと貰って来た。
しばらく、お互いに無言でお茶を飲み……落ち着いたのか、彼女はぽつぽつと話し始めた。
「……ハールーシェは、暗黒騎士団の中でも、信頼されてました」
ブリジットから、少しだけ聞いている。
私が多くを聞いていたら、ハルの負担になるかもしれないとの事で、あまり深くは聞いていない。
騎士団長を筆頭に、同僚からの信頼も厚い暗黒騎士――それが、私の知っているハールーシェ・リーンフェストの全てだ。
ブリジットは「お前なら大丈夫だとは思うけどな」と言ってくれたが、確かにイメージを押しつけてしまう事はしたくなかった。
それだけ知っていれば、十分だ。
「剣技はもちろん。……すごく真面目なのです。サボった事なんて、一度もない。まるで、自分を強くする事しか、興味ないみたいでしたわ」
「ハルも……そうだね。サボった事は、一度もない」
そう言うと、彼女は自分が褒められたみたいに、嬉しそうな顔で頷いた。
「あんまり何を考えてるか分からなくて……でも、ハールーシェがブリングジット様に言われた事があるんです。『非番の日は身体を休めろ。訓練は休養を前提に予定が組まれている。非番の日はきっちり休め、それも仕事だ』……って」
部下への気遣いを忘れないブリジットらしい。
同時に、共に戦列を築く部下に、最高のパフォーマンスを要求する、暗黒騎士団の長らしい言葉でもあった。
ブリジットは、人気の高い暗黒騎士団長だ。
しかし、彼女の訓練が厳しいという点では、全員が意見を一致させる。
「……ハールーシェは、休養日に何をすればいいか、分からないみたいだった」
過去を懐かしむように、ヘーゼリッタは微笑んで、カップに口を付けた。
そして喉をこくん、と鳴らした後、両手で持ったティーカップを見つめる。
カップはもう、空っぽだった。
「……わたくしも。息抜き、下手で。ブリングジット様は多分、わたくしにも言ってて」
……もしかしたら、ブリジットは自分自身にも言っていたかもしれない。
息抜きが下手なのは、お義姉ちゃんの悪い所だ。
「だから、一緒に。下手なりに、一緒に街を歩いてみたり、外で食事をしてみたり……」
彼女が、ぽつぽつと、話していく。
光景が、目に浮かぶようだった。
リタルサイドの街を、非番の暗黒騎士が二人、鎧を脱いで……久しぶりに訓練から解放されたオフを、むしろ戸惑うようにしながら。
「最初はどこかこう……罪悪感みたいなものがあって。でも、楽しかったのです。……本当に楽し、かった」
それでも、親友と――戦友と肩を並べて。
不器用なりに、精一杯楽しんで。
「リタルサイドで、彼女と一緒に過ごした時間は、わたくしにとって宝物だった……」
ヘーゼリッタは、それを愛おしむようにそっと語った。
それはもう、戻らない時間。
「それが、戦争が始まる前の……仮初めの平和だって、分かっていました。わたくし達は、その時のために、たゆまず自分達を高める事を誓ったのです」
彼女達は、職業軍人だ。
志願者で構成されるため、魔王軍の士気は高い。
「……"第七次"の時……わたくしとハールーシェは、ようやくその時が来たって、思いましたわ。あれが、わたくし達にとって……本当の『初陣』でした……」
そして、人間基準で言えば、その全てが長命種で構成されるため、全体の練度も高い。
教官の層も、分厚いのだ。
……けれど、誰にでも初陣がある。
「……"病毒の王"様は、イトリアは知っていても……リタルサイドと、それからの撤退戦はご存知ありませんよね」
「……そうなる」
私はその時、人間の支配領域にいた。
カタパルトによる攻撃の報を――ブリジットが行方不明になった知らせを受けて、私達は『攻勢』に出た。
それを支えたのは、本国防衛を担った、"第二軍"を中心とするリタルサイド駐留軍だ。
「……ブリングジット様が負傷するなんて、思わなかった。私だって、一対一で負けるつもりはなかった。でも……数が、違いすぎた……」
ダークエルフは、人間よりも魔力量が多い。
寿命も長く、たゆまず鍛え上げられた剣技もまた、一級品。個人の質の高さこそが、騎士団全体の質を高め、同数で戦えば負ける道理などない。
しかし人間達は、ダークエルフよりはるかに多かった。
それは人口と生殖サイクルの問題でしかない。ただ、それだけ。
それだけの差が、戦場では暴力的な格差になる。
「沢山殺して……殺された……」
彼女もまた、歴戦の猛者だ。
間違いなく、戦争は彼女の心にも傷跡を残している。
「……わたくしは、今の彼女の事を……分かってなかったのですわね」
「……そうかも、しれないね」
慎重に言葉を選びながら、同意した。
「ハールーシェの事は……分かってるつもりでしたのに」
「今は、『ハル』なんだ。みんな、そう呼んでる」
彼女は頷いて……目を伏せた。
「ハールーシェは……誰の事も、分からなかった」
それは、きっとあのイトリアの後の事。
それぞれが、それぞれの戦後を迎えた。
「一命を取り留めて……それさえも、お医者様は奇跡だっておっしゃいましたわ。でも、わたくし達を誰も……覚えていませんでしたの」
ヘーゼリッタは、苦い物を噛み締めるように端正な顔を歪めながら、その時の事を話した。
「それからしばらくしたら、面会も出来なくなって……その方がいいんだって。でも、顔を見たら」
彼女の声に、嗚咽が混じる。
「ハールーシェと過ごした、楽しかった時間の事を思い出して……!」
「……辛かった、ね」
私は、そっと手を伸ばして、彼女の手に触れた。
ヘーゼリッタは、首を横に振る。
「辛かったのは、ハールーシェです。わたくしでは……ありませんわ」
「ヘーゼリッタも、だよ」
感じ方の違いだ。ハルが心を壊したのは彼女が弱いからではないし、ヘーゼリッタが普通に生活出来ているのも彼女が冷たいとかではない。
「でも、『ハル』も、『ハールーシェ』なんだ。暗黒騎士じゃなくても……変わっても。彼女なんだ。それだけは……分かって欲しい」
「……はい」
彼女は、力なく笑った。
その頬を、一筋の涙が伝う。
「わたくしは……ハールーシェの、ともだち、ですもの」
ヘーゼリッタは私の手から、そっと自分の手を引き抜いた。