過去との邂逅
私は、ヘマをした。
それは、事前に分からない事だった。
それは、どうしようもない偶然だった。
けれど、やらかした。
波打つ銀髪を腰まで伸ばしたダークエルフの女性が、ハルを見て、目を見開いて――『名前』を呼んだ。
「……ハールーシェ?」
「……私を、知ってるの?」
ハルが首を傾げる。
「もちろんですわよ! ……まだ、治ってはいないのですね」
彼女は強く肯定し……一転、表情を暗く、痛ましげな物に変えた。
「わたくしはヘーゼリッタ。"第二軍"暗黒騎士団の騎士です。……あなたとは、同期で、同じ部隊で……リタルサイドでは、隣室でしたわ」
お客様の一人が――オフの暗黒騎士で、ハルと鉢合わせる、とは。
今は、部屋が予約で全部埋まる事もあるぐらいになった。
しかし、営業開始後まもなくは、無理のない範囲でツテに頼っていた。
紹介状を持っていれば割り引きされる制度も、その一つ。
前シーズンに適用されたキャンペーンで……別に軍人しか知り合いがいないという事もないのだが、元最高幹部が経営する宿だけあって、割り引きを利用したのは軍人さんが多かった。
今は、もうやっていない。
だから、来る人が軍人かどうかは――まして、その所属など、分からない。
それも、ただの顔見知りを超えて、思った以上に近い間柄だった。
止めるべきか迷った瞬間に、ハルが聞いた。
「私が、どんなだったか、教えて」
「……! はい! 誰よりも努力家でしたわ。ブリングジット様に憧れて――あの人に憧れなかった暗黒騎士なんておりませんけど……その憧れを現実にすべく、剣の腕を磨いていました。皆の信頼も厚く……正に、理想の騎士を体現したような人でした」
「……私、が?」
ハルが戸惑う。
「私……そんなん、じゃ」
彼女――ヘーゼリッタが、ハルの手を包み込むように握り、優しく微笑む。
「いいえ、ハールーシェ。あなたが忘れても、わたくし達は忘れませんわ。ブリングジット様と共に、カタパルトを壊して城壁を守り、続く撤退戦も、あのイトリアも……二人で、生き延びた」
「……イト……リア?」
「わたくし達は二人揃って、生きている方が不思議だと言われましたのよ? ブリングジット様を一人にさせまいと、前へ出るあなたと共に、わたくし達も――……いえ、よしましょう。戦場の話は」
ほっとする。
ヘーゼリッタが、柔らかい声で続けた。
「ハールーシェ。前より随分と、顔色が良くなりましたね。記憶もいずれ、戻りますわ。皆も、そう望んでいます」
「……みんな?」
「ええ。――共に誓った皆が、あなたの回復を心から願っています」
それを聞いていたハルの表情に変化があった。
「……誓いを」
ぽつりと呟く。
「民を守るために、剣を取る事を、誓う」
「ハル?」
「ハールーシェ」
私達二人が、それぞれに彼女の名前を呼ぶ。
「たゆまず、自らを高め続ける事を、誓う」
ハルが、私の知らない顔をした。
ヘーゼリッタが、顔をぱあっと明るくする。
ハルの目に、光が戻った。
こころなしか、顔も引き締まって。
どこか馴染みのある、凜とした雰囲気をまとう。
そう。よく知っている彼女――暗黒騎士団長であるブリジットに、似ていた。
鎧を身にまとい、剣を握り、戦場で果てる覚悟を胸に秘め。
それでも、まっすぐに前を向いていた。
仲間と共に。
未来のために。
守るべき物のために。
「共に剣を取った……なかま、と。共、に――?」
ハルが、左右を見た。
そして、後ろを。壁しかないのに。
誰もいない。いるはずがない。
ここは、リタルサイドじゃない。
そうだったとして――きっと彼女が、探し求めたのは。
さっと動いた視線からして、それは一人や二人ではなかった。
百……いや、もっと?
私には、彼女の気持ちが分かる。分かってしまう。
"病毒の騎士団"の名は、正式な物ではない。噂に呼ばれ、気に入った本人達が、最終決戦の際に名乗り……伝説となって語り継がれる名前だ。
ハーケンを筆頭に十三人が生き残り、今はその十三人を示す呼び名として使われている。
でも、違うのだ。
もっと、いた。
六百を数えた、騎士達。
私を信じなければ、もしかしたら。
私が、あんな命令を下さなければ。
命じられなければ、志願するつもりだったと笑いながら言った死霊騎士の一人は――もういない。
沢山の仲間と共に、先に逝った。
「っ……あっ……」
ハルの表情が、くしゃりと歪んだ。
目端に涙が滲み、すぐに決壊したように溢れ出す。
ぼたぼたと流れる涙をぬぐう事もせずに、彼女は頭を押さえて、うずくまった。
私がハルに手を伸ばした瞬間、後ろから彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。
「――ハル!?」
振り向くと、ディアナが血相を変えて駆け寄ってくる所だった。
「ハル。……ハル!」
ディアナが膝を突いて彼女の肩を抱いて名前を呼ぶが、ハルは声も上げずに泣き続け、かすかに嗚咽だけが聞こえる。
「……わたくしの、せい? わたくしが……ハールーシェを……?」
呆然として呟くヘーゼリッタを、ディアナが、きっと睨み付けた。
「お前……! お前が、ハルを――!?」
ディアナの目が、怒りに赤く染まった。
ゆらりと、淡くほどけるように、姿が揺らぐ。
二足歩行なのは変わらないが、それは最早、獣だった。
ディアナが着ていたメイド服も消えている。
サマルカンドが直立した黒山羊なら、彼女は羊に似ていた。
人型の時と同じ巻き角と、黒いふわふわの毛をした――けれど、凶悪な姿。
悪魔。
生まれたてのひよっこも同然で、上位とはとても呼べないにせよ、それでもなおダークエルフの平均を凌駕する魔力に、比べ物にならない筋力を併せ持つ、規格外の種族。
ディアナが、蹄になった足で床を踏みしめて、一段と太さを増した腕でヘーゼリッタの首を掴んだ。
「わたくし、は……」
呆然としたまま、抵抗しない彼女の首を、ディアナの手が絞める――
「ディアナ、やめろ」
……のを、私が止めた。
彼女の太い手首を掴んで制止する。
「こいつ……こいつは! ハルを傷付けたんでしょ!?」
ディアナが、低く変わった声で、けれど変わらない口調で叫ぶ。
その理屈は幼いが、同時に本質を捉えていた。
――でも。
「だったら、『どうする?』」
真紅に染まった、横三日月の羊の瞳を、私は睨んだ。
ぐい、と捻ってディアナの手を、ヘーゼリッタの首から外す。
彼女は咳き込んだが、そのまま立ちつくしていた。
ディアナの目に宿る赤い光が、瞬くように揺れる。
「……『どうする』……?」
「首を絞めたら……ひとは死ぬぞ? ディアナ。戦闘訓練をしていないとは言え、君は悪魔だ」
「…………でも、こいつは、ハルを」
「ディアナ」
私は、彼女の手を、私自身の首に持っていった。
そして、指を掛けて……上から力を加えて、絞めさせた。
「支配人さん!?」
「……この状態……だと、苦しい……な」
上位死霊としての特異性は、どちらかと言えば、人間なんて非力な存在を演算し、再現出来る所が大きい。
私は普段『人間並み』を実現しているので、息が苦しい。
実際、手足や臓器を失っても再現されるし、どこにダメージを受けようが関係ないと言えば関係ない。――どこも、危ないと言えば危ないのだ。
本気で絞められたとしても、ディアナに殺される私ではないが、苦しい事は苦しかった。
手を引こうとするディアナの手を掴んで、逃がさない。そのまま、ギリギリと自分の首を絞め――させ――る。
「わたし、こんなの……。やめ……やめて、下さい」
悪魔の姿で、彼女はふるふると頭を横に振った。
デーモンの変身は、ただ姿が少し変わるだけ。
彼女の本質は、情に厚い女の子なのだ。
私は少し手を緩め、息をする。
しかしディアナの手は離さない。
「……『こうしたい』訳じゃないだろ」
「それ、は……。でも、わたし――」
「ハルを一人にしてまで、する事か?」
「……あ」
彼女が、まだうずくまって泣いているハルを見た。
一番最初に駆け寄ったのは、ディアナだったのに。
今、ハルは一人で泣いていた。
「『それ』が必要なら――私がやる。でも……私はハルにとってのディアナには、なれないんだ」
ハルは、私を慕ってくれている。
他の従業員とも、そんなに悪い関係ではない。淡泊だが素直なため、結構可愛がられている。
しかし……彼女が同室を希望したのは、ディアナ一人なのだ。
その理由はハルによると、ディアナの抱き心地が一番ふわふわだったからだそうだが、それは今、言わない事にする。
大切なのはきっと、始まりではないから。
「大切な物を、間違えるな。……そばにいてやれ。いつもの恰好で」
「……はい」
ディアナが目を閉じると、しゅるりと揺らぐように、ゆっくりと変じていく。
身長はあまり変わらず、けれど腕は細くなり、脚も蹄ではない。
そして、ある意味全裸だった先の姿とは違い、メイド服だ。
私は、手を離した。
彼女は、そっと膝を突いて、寄り添うようにハルの肩を抱く。
「二人で、部屋に戻っていい。とりあえず今日はもう、他の事は気にせず休んでいいから」
「はい」
お姫様抱っこの要領で、膝裏と背に手を回して、うずくまるハルをかかえこむように抱き上げるディアナ。
私は、ヘーゼリッタをちらりと見る。
「……彼女とは、私が話をしておく」