待っていてくれる人
落ち着いたドクターが、もう一度ハンカチで目端を押さえた後、真面目な顔になって口を開いた。
「ハルの事は気を付けてやれよ。でも、特別扱いはすんな」
「分かってますよ。私は従業員みんなを平等に可愛がるつもりなので」
「……本当に分かってんのか?」
うろんげな物を見るような目を向けるドクター。
私が、お風呂を共にするのは女性従業員だけだが。
職務上の差別ではないので許して欲しい。
一応、たまに男性従業員の相談を聞いたりもしている。
私の場合は、男女問わず、お互いにバーゲストをモフりながら話を聞くだけで、実際に行動に移すような事はそうないのだが。
リピーターが多いのは相談役としてどうなのかと思いつつ、最早相談と言うよりバーゲストを囲む会状態なので、問題ないような気もする。
女性限定で、お風呂に浸かりながら相談を聞く場合もある。
一応――そう、本当に一応、覗き対策も完備しているので、副産物として、話し声も漏れないのだ。
女湯と男湯の壁越しに会話するというラブコメチャンスを潰す仕様な気もする。
……まあ、湯上がりの上気した肌にどきっ、ぐらいで我慢して貰おう。
医務室のドアがノックされた。
ドクターが素早く――実に名残惜しそうに――バーゲストを撫でていた手を離して、キリッとした顔になる。
私も、バーゲストをスカートの陰に迎え入れ、ドアへ向かい、鍵を開ける。
「……あ、支配人」
「――ハル」
噂をすれば影、というやつだろうか。
そこにいたのは、ハルだった。
ダークエルフの長い耳は下がり、目にも生気がない。
髪もボサっとしている時が多かったが、それは私やリズ、最近はディアナが整えているので、肩口までの髪は綺麗に整っている。
今も寝起きなどは寝ぐせがひどくて、ブラシを渡して任せてくるのが困る――とはディアナ談。
全く困っていない、むしろ頼られて嬉しそうな顔だったので、のろけにしか思えない。
まあディアナの事なので、そういう意図はないのだろうが。
下手をすると、ライラよりも純真なコンビだ。
「二人で……鍵掛けて、何、してたの?」
ハルが首を傾げる。
「ドクターに、ちょっと相談に乗って貰ってたんだよ」
嘘ではない。
「相談? ……どんな……?」
「お医者さんには守秘義務っていうやつがあってね。相談内容を人に話したりしたらいけないんだよ」
「……支配人にも、守秘義務……ある?」
「まあ……あるかな? 少なくとも、他の人に相談内容を軽々しく話したりはしないよ」
私は、こう見えても「支配人は口が固くて信用出来る」と評判だ。
この狭い空間での人間関係に気を遣いすぎるという事はない。――誰が好き好んで火種に油をまくような真似をするだろうか。
ちなみにリズもたまに相談されている。
彼女もやはり口が固いので、相談内容は把握していない――が、どうも私に寄せられる物より真面目な気がする。
……人を見ているのでは? という疑惑が、拭えない。
ハルが、私の目を見て、ぽつりと言った。
「相談したい」
「……私で、いいの?」
「? 支配人がいい……」
嬉しい事を言ってくれる。
「じゃあ、仕事終わりにね」
「ん」
ハルが、小さく頷いた。
「……あ、支配人。リズさんが探してた。明日の打ち合わせ、だって」
「分かった」
頷く。
「じゃあ、また後でね」
私が手を振るとハルが、ぎこちなく手を振り返す。
ドクターとハルの二人に見送られながら医務室を出て、今度は私がリズを探しに出かけた。
私は、事務室でリズと二人並んで、予約表を前にしていた。
「こんな所かな?」
「ええ。天候は安定していますから、温泉日和ですね」
山の上と下、両方の天候の報告を受けての、『送迎車』と予約の最終チェックを終える。
リズの言う通り、天候が安定している間は、落ち着いて温泉を楽しめる。
少しぐらいなら雪がちらつくのも風情だし……まあ、風がなければ、露天風呂の一部には屋根もある。
吹雪いても……屋内浴場もあるし。
しかし、移動の際に天候が荒れると……下手をすると遭難するのだ。
当然、そんなリスクは冒せない……が、そうすると予約が滅茶苦茶。
割り引き、またはプランのアップグレードをした上での振り替えという事になるのだが……一種パズルめいた、しかも正解のないパズルというクソゲーをやる羽目になる。
もちろん、そういう事もあると事前に説明はしている……し、かつて国境線としてさえ機能した山の上へ、たとえリベリットシープが牽引する送迎車だろうと、どんな天候でも確実に登れると思う方がどうかしていると思うのだが、そういう事を分かってくれないお客様もいる。
それでも、従業員に手を出さず、ちゃんと規定の料金を払ってくれている間は、『お客様』だ。
以前より、我慢強くなったと思う。
基本的には、楽しみにしていた旅行の計画が崩れて、ついきつい事を言ってしまうだけで……話せば分かる相手だが。
そうでない人も……残念ながらいる。
一度だけ出たモンスタークレーマーは実力で制圧した。
事務所に連れ込……丁寧においで願って、その後は――『うちの黒犬さんと存分に触れ合って落ち着いて』もらった。
下山後、その足で警察――っぽい役割を果たしている最寄りの軍詰所に出頭したと言う。
後に聞いた所によると、常習犯だったらしい。
全体的に丁寧な接客をしてくれる、名誉と誇りが息づいているリストレアのお店だからこそ、たまにそういう勘違いした輩も出るのだなと。
噂では「牢屋でもなんでも入れてくれ!」と言ったらしいが、それはさすがに、誇張された噂だと――思えない。
やり過ぎたかなとも思うのだが、それから、理不尽なクレームが大分減った。
「後は、終業前のミーティングで共有するだけですね」
その後は夜シフトに引き継ぐ形になる。
受付カウンターでまったりするだけになるか、トラブル対応になるかは運次第。
二人一組で、アンデッドのひとに優先して入ってもらっている。
私も、たまにシフト調整のために入る事もある。
「うん。私は、ミーティングの後、ハルの相談に乗るから」
「ハルの? 分かりました」
「多分、お風呂に入りながらかな……離れの露天、予約入ってないよね」
「大丈夫です。私はみんなと入りますね」
いつもは私も、従業員用のお風呂で皆と入っている。
露天と屋内があるが、離れの、ドラゴンサイズの露天風呂以外、お客様用の大浴場ほど広くはない。
しかし、一斉に入る訳ではないので、順番を決めて譲り合えば問題はない。
「そんなに遅くはならないと思うけど……先に休んでてもいいよ」
「はい。……でも、待ってますよ」
にこっ、と笑顔を見せるリズ。
リズは、呆れるほどの仕事人間だが、オンとオフの切り替えがきっちりしているタイプだ。
常にオンの状態とさえ言えた"第六軍"時代は……多分、自室で一人きりの時にだけ、オフの状態になっていたのだろう。
恋人になった後……そして夫婦になった後は、私に『オフ』の姿を見せてくれるようになった。
リズが、そっと身を寄せて、軽く唇と唇を触れ合わせるだけの短いキスをした。
短いけれど、彼女の気持ちが伝わってくる。
「ハルの事、お願いしますね」
「うん、もちろんだよ」
頷いて……もう一度、リズと短いキスをした。