優秀で誠実な医者
ドクターが、バーゲストの首筋を撫でながら、ゆっくりと息をつく。
私は彼女に、少し真面目な話を振った。
「……ドクター。みんなの様子とか、どうですか?」
「あー、今のとこ順調だ。……ただ、ハルの事なんだがな」
「……ハルが何か?」
ハル。――ハールーシェ・リーンフェスト。
元"第二軍"暗黒騎士団所属の暗黒騎士。
暗黒騎士というだけで精鋭だが、"イトリア帰り"で、騎士団長のブリジットの信頼も厚いベテラン騎士だ。
……いや、騎士『だった』。
ハルの事情は、大なり小なり、何かしらの事情を抱えているリタル温泉従業員の中でも、割とハードな方。
彼女は記憶の大半をなくしているし……人格さえ、以前とは違うようだと。
彼女の心は、あのイトリアで壊れた。
辛い思いをしたのは彼女だけではないが、この十年という時間はゆっくりと、多くの人の傷を癒やしつつある。
多くの人が死に、それでも生き残った者も多い。
戦争はなく、日々の業務はあれど、あの凄惨な戦場とは比べるべくもない、穏やかな時間が流れていく。
共に生き残った者と、自分達が守った物に触れ、死んだ者を想い、悼み……少しずつ、沢山の事を過去にしていく。
彼女は、それに取り残された。
今の『ハル』には、傷さえもないのだ。
それでも彼女の身体と心には痛みが刻まれていて、彼女は時折悲しそうにする。……その悲しみの理由が分からない事を、重荷に感じている。
癒やしてくれる仲間がいない。――それは、なんだかよく分からないけど良くしてくれる……『他人』にしか思えず……それを伝えた時の皆の反応が、今でも思い出すと辛いのだと言う。
「ディアナとの事なんだがな……」
「ディアナと?」
ハルと同室の悪魔、ディアナ。
デーモンは年齢不詳の者が……というか、本人さえよく覚えていない者が多い。少なくとも最初は、人の暦や時間感覚とは違う時を生きているからだ。
ただ、ディアナは間違いなく一桁年齢――戦後数年してからの生まれだと分かっている。便宜上『保護』された年から数え、今は七歳扱い。
ほぼ間違いなく、リタル温泉で最も年下だ。
次に幼い、数えで十になるライラは、ディアナの前ではお姉さんらしく振る舞おうと精一杯背伸びしているのが可愛い。
「……いつも一緒に寝てるらしいし、聞いてみたらディアナの胸に顔を埋めるのが好きとか言うんだが、それって普通なのか?」
「……うーん」
ハルは巨乳好きだ。
いや、変な意味ではなく。
……多分。
彼女の容態は、段階的に外の世界に触れる所まで来ていて……私とリズと共に、従業員を探す旅の途中、離れたがらないハルと、一緒に寝た。
施療院ではお気に入りのぬいぐるみを抱いていたが、私と手を繋いだり、黒妖犬と遊んだりする内に、人肌のぬくもりを覚えたらしい。
ただ、川の字で寝ると、朝にはリズの胸に頬を寄せている事が多かった。
それは私のだ。
「安心感や母性を求めてるんじゃないかと……」
私にはないかもしれない。
たまに私の方に来てくれる事もあったし、頭を撫でられたりするのは好きのようで、決して嫌われている訳ではない。……はずだ。
「……まあ、こういう事例は、どれも結局は時間任せだ。……歯がゆいけどな」
ドクターが、ため息をつく。
出来る事と、出来ない事がある。……ただ、それだけ。
「……そうですね。私達は……見守るしか出来ない」
私は、ハルの先輩だ。
職場の上司という意味ではなく。
私も記憶を失っているし……人格が変わっていないかも、はっきり言えない。
アイデンティティに関わる部分まで侵食されているのだ。――自分よりも大切に思えた妹の名前さえ思い出せないのに、以前と変わらないなどという事があるだろうか。
私は……その『答え合わせ』さえ出来ないでいる。それだけだ。
「ところで、同性とは言え、一緒に寝るのフツーか?」
「普通ですよ」
即答する。
ディアナもハルも、事情が事情だし、そういう雰囲気は全くない。
……もし『そう』でも、特に問題はない気もするし。
「私も、結婚どころか恋人になる前から、リズに添い寝して貰ったりしてましたよ。たまにレベッカとも」
「マジか」
ドクターが私を見る目が変わった。
「あ、でも女の子とばかりって訳でもなくて。サマルカンドにあっためて貰ったり、黒妖犬を抱きしめて寝たり」
「マジか……?」
ドクターが私を見る目が変わった。
「……ドクターも一緒に寝てみます?」
「……は? ――や! 私こんなナリだが、不倫とかよくないと思っててな!?」
ぶんぶんと手を胸の前で振り、顔をうっすらと赤くするドクター。
「……いや、バーゲストとですよ」
私は思わず呆れ顔になった。
「……あ、そっちか」
ドクターが気の抜けた顔になり、そして乙女の顔になって、ちらちらとかたわらのバーゲスト達を見る。
「わ、私の心臓もつかな……?」
彼女が言うと重い。
けれど、どうも背中を押して欲しそうだったので、私は言葉を重ねた。
「ぬくぬくで、もふもふですよ。ぬくもふですよ」
「ぬく……もふ……?」
恐ろしい事を聞いたかのように、自分の身体を両腕で抱いてガタガタと震え出すドクター。
「知ってるかデイジー。人の欲望には限りがないんだぞ。――私は、自分でもちょっとアレなぐらいこいつらが好きだぞ」
自覚があったのか。
「――知ってます」
人の欲望に限りはない。
「でも、ドクターはそれを分かってるでしょう?」
ただ、それなりにいい所で立ち止まる事も……きっと出来る。
「いつも誠実に勤めてくれているドクターへの、ご褒美だと思って」
彼女は、言動が荒いし、目つきがきついし、悪役顔だし――ガラが悪い。
しかし、人として……医者として誠実だ。仕事場も仕事着も仕事道具も、そのどれもがいつも清潔に保たれているし、患者からの評判もいい。
彼女の長いエルフ耳が下がり、歯を食い縛るように頬を歪ませ、濃い褐色肌でも分かる目の下の隈を、じわりと溢れた涙が伝う。
慌てて顔を伏せ、白衣のポケットから出した白いハンカチで目元を覆う。
咄嗟に涙を拭くのにさえ、白衣の袖を使わないあたり、徹底している。
彼女は目にハンカチを押し当てながら、呻くように言った。
「バッカお前……馬鹿野郎が……」
「よく言われます」
……ドクターは、地球で言う医療訴訟で、訴えられた側だ。
厳密には裁判にさえならず、実質的に勝ちはしたが……そういう訴えを起こされたというだけで、地域社会の目は厳しくなる。
一番傷付いたのは……もちろん、残された身内だろう。
けれど、手を尽くした医者が傷付かないはずがないのに。
私は、腕はいいがガラの悪い医者がいるという噂を聞いて、興味が湧いたのだ。
私の身体は特殊な事もあり、相談内容に嘘はない。
彼女は「死霊なんてあんま診た事ねえぞ……」とブツブツ言いながらも親身になって相談に乗ってくれた。
私を定義する要素の一つ、黒妖犬の話になり、出して見せたうちの黒犬さんの愛らしさにハートを撃ち抜かれたのを見て……私は、彼女を誘ってみたのだ。
ドクターは、身体がボロボロで老い先短いなんて言い訳を口にしたが、私はリタル温泉付きの医者になって、湯治で療養しながら残りの時間を過ごして欲しいと、口説き落とした。
最終的には、黒妖犬に上目遣いで膝の上に前足をのせられ、その目と肉球のぷに感に敗北し、彼女は首を縦に振った。
ドクターが、ハンカチを目元から離した。
そして、かたわらのバーゲストを見やる。
「……こいつらと寝たら……いい夢、見られるか?」
「ええ、きっと」
私は、微笑んで頷いた。