名前の理由
二人とバーゲストが退室するのを見送ると、私はラトゥースに向き直った。
「ラトゥース。改めてありがとう。おかげで命を拾ったよ」
「……おう」
浮かない顔で、ラトゥースが頷く。
「陛下から……聞いた」
「ん? 私が魔王陛下と軍と国家に忠誠を誓う、とっても優秀な最高幹部だって?」
「違えよ。耳付いてんのか」
ぎろりと、狼の瞳が私を射抜く。
「――お前が、囮だって事だ!」
「ああ、その事」
頷く。
「合理的でしょ?」
私は薄く笑った。
「――私は"病毒の王"。人間側の最高目標」
私がこの名前を名乗るのには、それなりの理由がある。
わざわざ、郊外に館を構えているのにも。
護衛が少ない事にすら。
「狙いを特定の一人に集中させて、動きを捉えやすくするための、囮だよ」
「っ……」
「今回の事もそう。人間側は、無理な山越えをした挙げ句、英雄クラスを少なくとも一人失った。彼らだけじゃない。それをサポートしただろう人の全ての努力が、全部水の泡になった」
今回は、あまりに強引な山越えによって動きを捕捉出来なかった事と、敵が『体に悪いお薬』を飲んでいたせいで危なくはあったが――それでも、"病毒の王"としては、通常業務の範囲内だ。
「そういう御託はいい! なんでだ、なんで黙ってやがった!」
「ごめん。でも、機密だからとしか。誰が見ても都合のいい獲物のように見せかけるための立地と最低限の護衛だから、最高幹部とは言え獣人軍の人には言えなくて……」
「……そこで、そんなに素直に謝るんじゃねえよ。怒りづれえだろうが」
「怒られるような事はしてないよ」
「俺は怒ってんだよ!」
「――何に?」
「それ、は……」
「ラトゥースのとこの人だって私を殺そうとしたよね? 仮にも最高幹部の地位まで登り詰めた友軍を、気分だけで」
突発的な感情で友軍に剣を向けられると、事前の警戒網に引っ掛からないので、あれも実は結構危なかった。
「……すまん」
「怒ってないよ。ラトゥースは止めてくれたし」
「……辛く、ねえのか」
ラトゥースが、視線を落とす。
「陛下は、お前を利用してる」
「知ってる。というか、これ私から言い出した事だしね?」
「……は?」
「だから、"病毒の王"は、重要目標を適度に警備の薄い所に配置して、向こうのスパイに狙わせたり、こっちの反乱しそうな人が手土産にしてみたり、人間が嫌いってだけで命令違反しそうな友軍を炙り出すための道具としての名前。もちろん現地活動班の行動のカモフラージュと、戦時プロパガンダも兼ねてるけど」
私は、今でもこの世界における自分の価値が、それほど高いとは思っていない。
私が言ったのは、当たり前の事だ。
残虐非道に聞こえようと、ただの理屈であり、明日から他の誰かが運用しようと思えば簡単な理論だ。
ゆえに、私はこの名前を名乗る事になった。
それが、特別であるかのように見せるために。
私が、この国にとって特別な存在であるために。
その覚悟をもって、私は魔王軍最高幹部へと任じられたのだ。
「わりい。お前が何言ってるのか分からなくなってきやがった」
ラトゥースが、呆けたように呟く。
「――お前は? 自分が囮だって分かってて? それは自分で言い出した事で?」
彼は、ゆるゆると首を振った。
「……殺されそうになるのが、仕事だって?」
「そういう事になるね」
「アホか!」
「アホじゃないよ。命の恩人とはいえ、言っていい事と悪い事がある」
「そんな立場……アホ以外にどう言えばいいんだよ……」
ラトゥースが、獣の毛と爪の生えた手で、自分の目を覆って、天を仰いだ。
「クソがっ……!」
呻くように吐かれた言葉と共に、彼の黒灰色の毛の上を、数滴の涙が伝った。
「なんでラトゥースが怒って、泣くの」
「お前が怒らないし、泣かないからだ馬鹿野郎……!」
"病毒の王"とは誰もがうらやむ立場ではないし、何もかも楽しいお仕事でもない。
「……そう。嬉しいよ、ラトゥース」
それでも、こんな風に泣いてくれるほど、私を大切に思ってくれる人がいるなら。
「私、嬉しかったんだ。誰も知ってる人がいない所に連れてこられて……戦争に巻き込まれて……死ぬところで……」
私は、城壁の上にいた。
誰も、頼れる人はいなかった。
ただ、腹いせのように目の前の理不尽に抵抗する事しか、私には出来なかった。
「そこで、この国の人に、助けてもらった。怪我の治療してくれたし、ご飯も寝る所も、気を遣ってくれた。……人間と戦争してる人達が、私の事を人間だって分かって、それでも、そんな風にしてくれた」
ブリジットと過ごした短い日々の事を思い返して、私は口元に笑みを浮かべた。
リズの剥いてくれた、リンゴのウサギさんに目をやる。
この世界には、優しさと呼ぶに足るものがある。
こんな、異種族間の絶滅戦争が繰り広げられている世界でさえ、間違いなく。
言葉を、重ねる。
「嬉しかったんだ」
その恩を返すために、私は"病毒の王"になったのだ。
「……そうかよ」
「……そうだよ」
一つ頷いて、笑みを深くした。
「それに、私は死を覚悟した事はあっても……まだ、見捨てられたって思った事はないんだ」
私は、道具かもしれない。
けれど、私はそれを望んだのだ。
そして、同じように命を賭して、私を守ってくれるひと達がいる。
望む未来があり、果たすべき役割がある。
覚悟も、ある。
ならば、私が名乗るべき名前は、この世界において一つしかない。
「私は、"病毒の王"。これでも魔王軍最高幹部で、悪い魔法使いだよ?」
「……お前は……本当に人間離れしたやつだな」
ラトゥースが、牙の並んだ口を大きく開けて、笑った。
「魔王軍最高幹部、"折れ牙"のラトゥースにそう言って貰えるとは、光栄だね」
私も、牙のない口を開けて、笑った。
友人に笑いかけるようにして。