黒妖犬
黒妖犬。
同じ名前のいきもの(ばけもの?)が、地球にもいる。イギリスの妖精の一種だったはずだ。
通常は、黒い大型犬として語られる。
妖精と言うと可愛いイメージだが、向こうの妖精は幅広く、日本の妖怪と同じで結構怖いものが多い。
バーゲストも、確かそういう感じだ。
「はい、それでは常識のないマスターでも分かるように一般常識をお教えしたいと思います」
バーゲストは庭に戻され、今は二人きり。
分厚い本を持ったリズに、地下室で講義を受けている。
「では、まず自分で読んでもらいましょうか」
「これ図鑑?」
ずっしりとした革張りの装丁。おやつが載っていたサイドテーブルからはみ出るほどだ。
「ええ。絶滅種も含まれていますが」
「ええと……えー、びー、びーえー……ば、ば……ばーげすと……」
「速いですね、マスター」
「私、紙の辞書派だったから」
「紙じゃない辞書があるんですか?」
「世界は広いからね」
索引でそれらしいのを見つけると、該当ページを開く。
目を爛々と光らせた、おどろおどろしい黒犬の絵。古めかしいタッチだ。
「バーゲスト。魔力で構成された精神生命体。黒い犬の形を取る。群れを作る事が多い。接触する事で魔力の吸収を行う。通常は犬や狼のような狩りを行っているとみられる。戦闘能力も高く、危険。人に懐かないが、魔法的な従属により、番犬として飼う事も出来る。ただし、その場合敷地内に入り込んだ、登録されていない魔力反応を持つ侵入者を噛み殺すといった過激かつ単純な命令しか出来ない。死亡事故も多い。熟練の魔法使い以外は敵にも味方にもしてはいけない」
本から顔を上げる。
「……私の知ってるバーゲストと違うんだけど」
「この図鑑に記載されているのは、私の知っているバーゲストそのものですが」
リズが、すっと目を細める。
「バーゲストは、中級の魔獣です。魔法で従属させる事も出来ます。――けれど、意思疎通は、困難です」
「割と出来てるけど?」
「どんな風に?」
「遊んで欲しい、とか。ここ撫でて欲しい、とか」
「……魔獣の分類は大雑把です。バーゲストが中級に分類されているのは、あれら単体の評価と言っていいでしょう。おおむね群れの数で脅威度は跳ね上がり、バーゲストは群れる性質を持ちますから、分類上の脅威評価など当てになりません」
「うん」
「五十体を越えればドラゴンと同じ。いえ、場合によってはそれ以上の脅威評価もあり得る。従属させる事の出来る魔獣種の中では、最強と呼ぶ者も多いです」
「え、あの子達が? 普通の大型犬より強い程度じゃないの?」
「普通の大型犬も結構強いですよ。それに加え、疲労もなく、攻撃的で、群れの連携はおそらく魔法的なものです。魔力生命体の一種なので物理攻撃の効きが悪く、その上接触で魔力吸収を行ってくるので、抵抗しないとすぐに魔力が枯渇します。大抵の場合、複数相手になるので、背後への警戒も必要になります」
「……うん」
「頭も良く、狡猾で俊敏。頭が良いゆえに、余程飢えねば人間や魔族の集落を襲う事は少ないのが救いですが……言い換えれば勝てると判断した相手しか襲わないので、敵に回した時点で、死が確定していると言ってもいいでしょう。"死の使い"や、『黒妖犬を見たら死ぬ』という伝承が残るのは、それゆえですね」
「なるほど」
凄いのは分かった。
「昔に一度……一度だけ、私はバーゲストの群れを敵に回した事があります。――二度と、相手にしたくありません」
「……なるほど」
恐ろしくやばいのは分かった。
「そちらの図鑑にも書かれていましたが、魔法的に縛ってさえ、明確な指示など、とても出来ぬ魔獣です。ベッドに入り込むぐらいなら、マスターが舐められているだけだと思ってましたが……おすわり? お手? 聞いた事もない」
リズが、呆れた、とでも言うように、ゆるゆると首を横に振った。
「それで? どうやって、バーゲストをあんなに手懐けたんです?」
「あの子達、懐いた後は人に従順なタイプの生き物じゃないの?」
「従属した後は、魔力反応を認識して、住人は襲わない命令を守れるぐらいには従順ですけども。どっちかと言うと隙を見て人を襲うタイプの生き物ですよ。代わりの護衛を館内に配置しないのも、そういう理由です」
「ええー……」
「それで、どういう魔法を?」
「だから、私はようやく日常生活用魔法を使えるようになってきたぐらいなんだってば」
少なくとも『熟練の魔法使い』という言葉からは遠い。
「じゃあ、どういう手段を使ったんです?」
「……頭とかお腹とか撫でてたら……自然に……懐かれた……」
「そんな事してたのも驚きですけど、バーゲストがその程度で懐くはずないじゃないですか。安全上の情報ですから、素直に吐いて下さい」
「いや、本当なんだよ」
「……本当に?」
微笑んで、頷いた。
「私、リズに嘘は言わないよ」
「それが嘘っぽいんですけど」
辛辣なリズ。
「まあ、月並みな事を言えば、愛情ってやつかなあ……」
私はバーゲストが番犬という事自体は理解しつつ、それはそれとして、ほぼ愛玩犬として接していた。
「親しみを持ってる相手の事は分かるんじゃない?」
「なるほど……私は備品の一種と見てますからね……」
確か、現代地球でも軍用犬は備品扱いなのだと聞いた。なんとなく世知辛い。
「では、いつも通り振る舞って下さい」
「……え、リズの前で?」
「はい」
「それはちょっと恥ずかしい」
「……私のいない間、バーゲストと何やってるんですか?」
「……いや、その……」
「悪いですが、安全上、絶対に必要です」
「……絶対に?」
「絶対にです」
有無を言わせぬ力強さで断言するリズ。
「ほら、お願いしますマスター」
「……うん」
諦める事にした。
庭に出た。
わらわらと寄ってくるバーゲスト達。
「ほらっ、お前達! 今日は遊ぶぞ!」
何かを吹っ切った私。
「ああもう! もふもふで可愛いなあ!」
手近な子に抱きついて腹毛を触り倒す私。
「うりうり~」
顎の下に指を差し込んでわしわしする私。
「あーっ! 楽しかった! おいで!!」
手を広げて呼んで、集まってきたバーゲスト達に埋もれて眠る私。
「……マスター、そんなアホみたいな事してたんですか?」
呆れ果てたリズの声。
「楽しいよ?」
開き直った私。
芝生とバーゲスト、という極上のお布団。
というかほぼ百パーセントバーゲストで、芝生に接している所がほとんどない。
「ほら、リズも一緒にやろう?」
「私そんな恥ずかしい事やりたくないです」
「え、ひどい。私にさせといて」
すっと切り替える。
「――リーズリット・フィニス。命令だ。ここまで来て添い寝しなさい。この館の警備の一角を担うバーゲストとの友好を深めるための手段として」
「どうしてマスターは、適当な理由付けの時だけそんなに頭と舌がよく回るんです?」
「私が自分の言う事を正しいと信じているからかな」
手を広げて彼女を呼んだ。
「ほら、おいでリズ」
「……はあ、分かりましたよ」
リズが黒いもふもふの海に仲間入りする。
「……あ、意外と楽しいですねこれ」
リズの動きには躊躇いがあるし、私ほど何かを捨ててはいない。
けれど、私の隣で、私と同じように埋もれ、遠慮がちながらも、寄ってくるバーゲストの頭や顎の下を撫でている。
「でしょう?」
ふふん、と胸を張る。
「……でも、これで懐くんですか?」
「さあ?」
「そんな適当な」
「懐かせようと思って、こうしたんじゃないもの」
手近な子の首筋を、手の甲で撫でた。
もふっ、とした感触と共に指に絡みつく毛を、ゆっくりと手櫛で梳く。
「こっちに来て、不安で、寂しくて……結構、慰められたんだよ」
「マスター、そんな繊細な所あったんですね」
リズがいつものように言う。
けれど、彼女は微笑んでいて。
「私はこの上なく繊細だよ?」
だから私も、いつものように言うのだ。
いつものように、微笑みながら。